006常陸(ひたち)国の親鸞聖人

荒木智哉

先日、茨城県を中心とした、親鸞聖人のご旧跡を訪ねました。

聖人は越後での流罪を赦免された後、家族と共に常陸(ひたち)の地(現在の茨城県)に移り生活を始めます。言葉も文化も異なる中での生活はたいへんな苦労があったと思います。聖人の生きた鎌倉時代は土木・灌漑の技術が発達しておらず、一度大雨が降ると川が氾濫し、人家はおろか田畑まで壊滅的な被害を受けました。その繰り返しのため、人々の暮らしはいつも不安と隣り合わせでした。一定量の食料が収穫できないということは生死にかかわる問題です。

その不安は大蛇という形を取って当時の伝説や説話に多く現れてきます。大蛇とは氾濫を繰り返す川の象徴であり、人々は自然の脅威を前にどうすることもできず、大蛇に対してその怒りを鎮めるために供物を捧げ、時には生贄を捧げるといったこともありました。恐らく聖人自身も関東での教化活動で立ち寄った村々でそのような出来事を見たり、聞いたりしたと思います。その一つの出来事の様子が、高田派に伝わる『親鸞聖人正明伝』の中にも出てきます。

聖人は若い頃比叡山で学ばれました。当時の比叡山では中国大陸の最先端の学問を学ぶことができました。今でいう総合大学の機能も備えていました。当時その中には土木・灌漑の技術も含まれており、聖人は多くの最先端の知識と越後での流罪生活での経験をもとに、関東の地で民衆に対して多くの技術を教え、伝えたのではないでしょうか。

伝説や挿話は近代歴史学においては軽んじられる傾向にありました。しかし、そのような伝説・挿話の中にこそ、その時代を生きた人々の様子がありありと描かれているのではないかと私は思うのです。

常陸の人々にとって、聖人はお念仏の教えを説くだけではなく、一緒に田畑を耕し、作物を育て、苦楽を共にしていった、たいへん身近な存在であったと思います。日々の交流を通して、お念仏の教えは自然に人々の生活の一部分となっていき、そして、その生活は今日まで綿々と受け継ぎ、伝えられてきたのです。

ご旧跡を巡る中で、人々に教えを説く聖人と同時に、人々とその生活の中に共に生きていった聖人という、二つの聖人像を感じました。優しいまなざしの中に秘められたどっしりとした力強さ、「となりの聖人」という人物像を私は感じずにはおられません。

あるご住職が言われた「私たち常陸の国の門徒は」という言葉が印象的でした。

005人生を思う

山﨑滿之

「時代という大きな流れの中で世の中全体が変わってしまう、人生や人の心までもが変わっていく」今日この頃であります。

私は過疎が著しく進む山間の小さな寺を預かる年老いた者であります。私が大人になった頃は「向こう三軒両隣」といったような言葉がり、助け合うという心がお互いの安心を支え、平和で豊かな村であったように思い出されます。今では住民の大半はお年寄りで、若者は生活の場を求めて村を離れ、したがって子どもも少なくなりました。時代という大きな力に流されていく淋しさを痛感しております。

平和と言われるようになり、日常生活には何一つとして不自由のない昨今でありますが、私たち人の生き方はこのようなことで本当の幸せと言えるのでしょうか。私には何か心の中を吹き抜けるすきま風のような淋しさが感じられてなりません。

今の時代は、品物が豊かにある一方で、人間として一番大切な心が失われている時代だと言わざるを得ません。信じ難い言葉でありますが、人間崩壊、家族崩壊と言われる時代であります。テレビや新聞報道などを目にいたしますと、本当に信じられないような事件の数々が、それも自分の欲望を満たすため、親が我が子に、子が親に対し手をかけるといったようなことが起きているのが現実であります。

心の無い人のことを「あれでも人間か」とか「畜生のような人」と言います。畜生にも動物の本能があって、我が子を危険から守るという心があるように思えます。人が心を失えば、他の動物とあまり変わりがないか、それ以下ということになってしまいます。だから、人には心が一番大切なのでしょう。

私たち人間は自分たちをこの世の中の万物の霊長と思い、宇宙の全てを支配しているかの如くに思い上がっています。今こそ、全ての生物の命を犠牲にし、その上に生かされているということ、縁によって生かされているということに目覚めなければならないと思います。「今、いのちがあなたを生きている」と。

今日でも、お年寄りの人たちと会話していると「ご縁をいただいて」とか「お陰さま」という言葉が話の中に出てまいります。このような言葉が無くならないよう、仏法を耕してまいりたいものであります。

004稚児行列に3回出ると

加藤淳

昨年の10月、自坊に於いて蓮如上人五百回御遠忌法要、本堂修復落慶法要を厳修いたしました。自坊では31年ぶりに稚児行列も出て、たいへん賑々しく法要が終わりました。

稚児行列参加の募集をしている時、ご門徒さんから「稚児行列には3回出るといいんですね」との質問が多くありました。「どうしてですか」と問い直してみると、ほとんどの方から「人から聞きました」とか「みなが言うから」という返事が返ってきました。その返事に私は「ご縁があれば4回でも5回でも出ていただいてもいいんですよ」と答えさせていただきましたが「3回出たからいいです」と断られる方もありました。

この「3回出るといいですね」という言葉はどこから来ているのか分かりませんが、あるご門徒さんから「私も小さい頃お稚児さんに3回出させていただきましたが、良いことは何一つなかったです」と発言されたことが印象的でした。

私たちの日常は、幸せになりたい、豊かになりたいという思いから、一生懸命に努力をしています。しかし、仏教の基本は「人生は苦である」と教えてくださっています。時には「どうして自分ばかりがこんな目に会わなければならないのか」と、現実そのことを受け止めることがなかなかできません。都合が悪くなると「3回お稚児さんに出しておけばよかった」などと、お稚児さんの回数が気になり、問題の原因を外に向けて探しているのが私たちの生き様なのではないでしょうか。

「稚児に3回出なかったから、こんな目に会うのでは」ということではなくて、迷っているのは人間です。やがて老いて、病んで、死んでいく我が身を、いかに生きていくか、どのように生きていくことができるのか、そのことを私たちに問われているのが仏法の基本的な課題であると思います。「調子の良い時だけが自分ではなくて、都合の悪い時も、悩んでいる時も、全てが本当の貴方なんですよ」と問いかけられています。現実そのことを引き受けながら生きていく勇気をいただくのが仏法ではないでしょうか。

003ペットの死

山田初美

平成15年は我が国の犬と猫の飼育数が15歳未満の子どもの人口を初めて上回った年です。現在ではその差がさらに広がっているでしょう。飼い方も変わってきて、昔はペットを飼うのは家の外が普通でしたが、今は自宅の中で飼っている方が多く、寝る時も同じベッドという飼い主さんもいらっしゃいます。ペットを飼っているほとんどの方にとって「ペットは家族の一員」であり「我が子同然」の存在なのです。

先日、友人宅の13歳の犬が亡くなりました。長年可愛がっていた犬をお花や好きだったオヤツやオモチャと一緒に段ボールに入れ、泣きながら公共の焼却場に持ち込んだところ、ゴミ扱いされたというのです。「家族同然の犬が廃棄物」とは、ショックを受けた彼女は、ペット火葬から供養までしてくれる業者に頼みました。そこでは、お葬式に加え、年忌法要まで行ってくれるというのです。お葬式をして骨を拾い、ペット仏壇も買って手を合わせているそうですが、何もやる気が起こらない。ペットロスにかかり毎日泣いてばかりいるそうです。彼女は亡くなった犬に命の尊さを教えてもらったのでしょう。

「生きているものはみな同じいのち」とお釈迦様は教えてくださいます。人は、自分だけが得をしたい、人よりも良い暮らしをしたいなど、数えきれないほどの欲を抱えて生きています。犬にはそんな欲はありません。純粋でピュアな心をもっています。人間は煩悩に悩まされているからこそ念仏が必要なのだと思います。

さて、我が家の3匹の犬が亡くなったら自分はどうするだろうか?命の尊さを教えてくれた犬たちに手を合わせ「南無阿弥陀仏」と称えると思います。

002理解する≠実感できる

岡田寛樹

2008年にノーベル物理学賞を受賞された京都産業大学の益川敏英教授は、あるテレビ番組の中で「物理の実験において証明されたことは、事実として受け止めなければならない。つまり、現実で起きている事柄は事実である以上、好き嫌いではなくて信じなければならない。たとえ、嫌いであっても認めなければならない。納得しなければならない」と話されていました。このことは私たちが普段目にする光景でも、同じようなことが起きているのではと思います。

ついこの前まで元気だった人が病に臥していく、亡くなっていく、若くて元気だった人なのに、随分と老けてしまわれた。そのような人たちをたくさん見てきているはずの「わたし」なのに、どこか「他人事」として見ている自分がいます。人が老けていくのを、亡くなっていくのを見て「そのうち、いつかは、自分も」と思ってしまう自分がいます。たとえ、突然に亡くなられた方の存在を知っていても「自分はまだ大丈夫」とか「まだ関係ない」と思ってしまいます。「自分も」という言葉の前に「そのうち、いつかは」という言葉が付き、先送りにしている自分がいます。

たくさんの人が「わたし」の前で、生きていくことや老いていくこと、そして、命を終えておくことを、予め「わたし」に見せてくれています。けれども「まだ他人事」として見過ごしてばかりもいられない自分に「わたし」は本当に気づいているのでしょうか。知ってはいるものの、理解はしているものの、どれだけ「わたし」のこととして実感しているのでしょうか。

「他人事」として捉えずに「わたしのこと」として捉えないといけない。これは自分の心に留める現実なのだと思います。確かにそういったことを思い始めると、この世を去る時の未練や恐怖感が出てきます。でも、それらのことを受け入れることができるようになった時、未練や恐怖感は無くなり、生きていることの素晴らしさを心の底から実感できるのかもしれません。

001人間回復

橘秀憲

謹んで新春のお慶びを申し上げます。昨年は、変動の年でありましたが、みなさまにとってはどのような年でしたでしょうか?

昨年12月、「ハンセン病問題を共に考える集会」に参加させていただきました。ハンセン病については、1996年「らい予防法」が廃止されましたが、法の廃止だけでは「何も変わらなかった」と回復者の方々に言わしめた私たちがいました。差別や偏見が根強いのは、それだけ間違った政策や社会の強制が、長い間、徹底していたということの現れでもあろうと思います。

一昨年2008年6月、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」、通称「ハンセン病問題基本法」が成立し、昨年2009年4月に施行されました。その歩みの中で、療養所のない三重県においても、この問題の解決に向けて、取り組みや課題を広げようという意味で立ち上がったのが、上記の「ハンセン病問題を共に考える会・みえ」です。私自身も今後の歩みに賛同していきたいと思います。また、輪が広がり、共に解放される日が一日も早く訪れるように共に歩んでいきたいと存じます。

岡山県にある長島愛生園の入所者であり、真宗大谷派の僧侶であった故藤井善さん(本名・伊藤教勝氏)の「人間回復のためには、隔離された人間も隔離した人間も、共に解放されなくては本当の解放ではない」という言葉を改めて受け止めさせていただきました。

一月一日の修正会でお勤めの後に拝読いたします蓮如上人の『御文』の一帖目一通には阿弥陀如来の世界に生きる大切な仲間として御同朋、共に南無阿弥陀仏の人生を歩む友としての御同行ということが、親鸞聖人のお言葉をあげてお示しくださっています。(真宗聖典 760頁)

「何も変わっていない」と彼らに言わしめてきたこの社会の中で、今立ち上がりチェンジしなければ(変わらなければ)ならないのはこの私であったと改めて考えさせられます。
御遠忌法要に向けて残すところ1年3ヶ月足らずになりました。「共に、大地に立たん」の教区スローガンを確認し、歩んで行く。そのような機会にしていきたいと思います。

037あとがき

いよいよ来年には親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を迎えます。御遠忌への基本理念として、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」が掲げられています。「何を拠り所として生きることが本当に人として生きることなのか」ということを、私たちに先立って明らかにされた方が、「宗祖としての親鸞聖人」であります。

インターネットの普及により、いろいろな情報が瞬時に、いつでもどこでも手に入るようになりました。各宗派や全国各地の教務所、別院の様子まで見られるようになりました。そこではいろいろな親鸞聖人が語られています。

ここにお届けするテレホン法話集『心をひらく』31集も、三重教区内の住職・坊守・ご門徒・有縁の方々に、3分という短い時間内ではありますが、受け止めていただいている真宗や親鸞聖人を自らの言葉で語っていただいた記録です。

けれども、本当に私たちは「親鸞聖人は宗祖である」と言えているのでしょうか。どこかで自分に都合のいい親鸞聖人を作り上げてはいないでしょうか。

私にとって人生最後の御遠忌になるかもしれない七百五十回忌において、私は親鸞聖人から何を受け取り、何を遺していくことができるのでしょうか。

発行が遅れ、皆様方には大変ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

036南無阿弥陀仏に遇う

折戸芳章

難題のない人生は 無難な人生

難題のある人生は 有難い人生

この言葉は、幼少時の病気がもとで聴覚に障害をもっているにもかかわらず、接客業という仕事で、筆談で会話をしながら業界№1になったある女性の言葉です。ある日、一人のお客さんが「障害をもちながらこの世界で生きてゆくって大変だし、今まで多くの難題があったでしょう」と質問したことに対して、彼女が筆談でメモ用紙に書いた言葉です。
さて、今年も数日で新しい年を迎える時期がやってきました。今年こそは自分のこと、家族のこと、社会のこと等の無事を願いつつ新年を迎えたはずなのに、大なり小なり難題のある一年間でした。

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代(ごいちだい)聞書(ききがき)』の第300箇条(真宗聖典912頁)には、「南無阿弥陀仏の教えをいただく者は、どんな悲しいことに出会っても、どんな都合の悪い境遇にあっても、それは素晴しい阿弥陀如来の眼(まなこ)をいただく大事なご縁であることを忘れないように。常に阿弥陀如来の明るい眼の働きを喜ぶ人になりたいものである」と教えてくださっています。

彼女は聴覚障害という難題と真剣に向かい合っていくことが、南無阿弥陀仏に出遇う大切なご縁なのだと真に感じ、難題の無い無難な日常を送ることよりも、今生かされている自分の身の事実がどれだけ有難いことなのかということを本当に実感されているのだと思います。

誰しも毎日の日常生活が難なく無事に過ごせるようにと願って生活しています。しかし、現状は思い通りにはならず、右往左往、不平不満の毎日です。そんな日々の暮らしだからこそ有難く、南無阿弥陀仏に出遇う大事なご縁である、との教えに頷かずにはおれません。

035お爺ちゃんのベッド、私がもらう

山口晃生

近年、人生の最期を病院のベッドの上で迎える人が増えてまいりました。母も20年前病院で亡くなり、10歳年上の父が残されましたが、仕事人間の父はすべて母任せ、下着の場所も分からない人でしたので、その落胆たるや気の毒な程で、あまりにも気落ちしたのか3年ぐらい経った時、認知症になり、しかも癌を併発、家族介護が必要になりました。夜中に動き回るのか、汚い話ですが、朝起きると、布団はもちろん、部屋中、大小便で汚れており、その始末が一日の始まりになりました。看病で本業もままならず、妻と言い争いになることも多々あり、愚痴と喧嘩の絶えない日々が半年ほど続きましたが、やがて父は入院しました。

付き添っている私を自分の息子とも知らずに、生まれ育った家の大きなアオギリの前で遊んだ昔のこと、正月や法要で親戚が揃うと決まってそこで記念写真を撮ったことなどを懐かしそうに話す父。黙って頷きながら聞いていますと、満足そうに微笑みますので、ああ、あの厳しかった父はどこへ行ってしまったのかと、逆に悲しくなることもありました。

治る見込みのない入院に、「ここで死を迎えるのではなく、たとえ寿命は縮まっても、家の畳の上で死なせてやりたい」と先生に相談し、家庭介護の許可をいただきました。冬でしたので、日当たりのいい部屋にベッドを入れ看病することになったのですが、病院と違い、食事から下の世話、身体の洗浄等の全てを家族でしなければなりません。しかし、以前と違い、苦労を苦労と感じず、愚痴も出ませんでした。やって当たり前と、昼夜を問わず看病していると、仕事から帰った息子と当時高校生の娘も自然に手伝い、まさに家族総出の看病になりました。しかし、薬石功無く木が枯れるように父はお浄土へ還っていきましたが、悲しさは無く、むしろ最期まで精一杯看病できたこと、付き添えたことの満足感で一杯でした。

葬儀も済み、さて遺品をどうするかとなった時、そんな死んだ人の物は捨ててしまえばとの多くの意見の中、娘が「お爺ちゃんのベッドもらう」と名乗りを挙げました。そこに死とは不浄なもの、穢れたものとの意識は無く、家族みんなで癌と戦った父の看病を心置きなくできた結果だと、身近な人の死を通して学ばせていただきました。南無阿弥陀仏。

034御遠忌から得たこと

三好龍温

今年5月、蓮如上人五百回御遠忌を勤めさせていただきました。五年計画で境内の整備・本堂の洗い・仏具の洗濯等を同行のみなさまの協力によって立派にすることができました。不況の世の中、ご寄付を募ったところ、快く応じていただける方や、中には縁を切られる方、名を伏せてなら良いと言っていただける方等、いろんな出会いをしました。

ふと私に帰ると、「もらうものは多い方が良いし、出す方は少ない方が良いのは、自分のことや」と気づかされました。

仏具のお磨きをしてもらいましてピカピカになりましたが、御遠忌が終わってすぐに曇ってしまいました。周りが綺麗ですので、曇った仏具が余計目立ちます。「磨き方が悪かったんと違うか」とか、「薬品が悪かったんと違うか」とか言う人がいまして、今年の年番の人が自分のことを言われているように思われ、残っていた薬品を店で替えてもらい、ご夫婦と友人の三人で三日かけて再度お磨きをしてもらいましたら、元よりもずっと綺麗になりました。それよりも年番の方の目が輝いて見えました。満足そうでした。

仏具の洗濯では、ご本尊の頭の後ろの丸い物が鏡だと知り、形でもって教えを表してもらっていることに改めて驚きました。

けちな私、人と比べる私、満足を求めている私。御遠忌を通して、いろんなことを得ることができました。しかし、また元に戻る自分があることにも気づかされました。

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。