カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2009年

037あとがき

いよいよ来年には親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を迎えます。御遠忌への基本理念として、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」が掲げられています。「何を拠り所として生きることが本当に人として生きることなのか」ということを、私たちに先立って明らかにされた方が、「宗祖としての親鸞聖人」であります。

インターネットの普及により、いろいろな情報が瞬時に、いつでもどこでも手に入るようになりました。各宗派や全国各地の教務所、別院の様子まで見られるようになりました。そこではいろいろな親鸞聖人が語られています。

ここにお届けするテレホン法話集『心をひらく』31集も、三重教区内の住職・坊守・ご門徒・有縁の方々に、3分という短い時間内ではありますが、受け止めていただいている真宗や親鸞聖人を自らの言葉で語っていただいた記録です。

けれども、本当に私たちは「親鸞聖人は宗祖である」と言えているのでしょうか。どこかで自分に都合のいい親鸞聖人を作り上げてはいないでしょうか。

私にとって人生最後の御遠忌になるかもしれない七百五十回忌において、私は親鸞聖人から何を受け取り、何を遺していくことができるのでしょうか。

発行が遅れ、皆様方には大変ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

036南無阿弥陀仏に遇う

折戸芳章

難題のない人生は 無難な人生

難題のある人生は 有難い人生

この言葉は、幼少時の病気がもとで聴覚に障害をもっているにもかかわらず、接客業という仕事で、筆談で会話をしながら業界№1になったある女性の言葉です。ある日、一人のお客さんが「障害をもちながらこの世界で生きてゆくって大変だし、今まで多くの難題があったでしょう」と質問したことに対して、彼女が筆談でメモ用紙に書いた言葉です。
さて、今年も数日で新しい年を迎える時期がやってきました。今年こそは自分のこと、家族のこと、社会のこと等の無事を願いつつ新年を迎えたはずなのに、大なり小なり難題のある一年間でした。

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代(ごいちだい)聞書(ききがき)』の第300箇条(真宗聖典912頁)には、「南無阿弥陀仏の教えをいただく者は、どんな悲しいことに出会っても、どんな都合の悪い境遇にあっても、それは素晴しい阿弥陀如来の眼(まなこ)をいただく大事なご縁であることを忘れないように。常に阿弥陀如来の明るい眼の働きを喜ぶ人になりたいものである」と教えてくださっています。

彼女は聴覚障害という難題と真剣に向かい合っていくことが、南無阿弥陀仏に出遇う大切なご縁なのだと真に感じ、難題の無い無難な日常を送ることよりも、今生かされている自分の身の事実がどれだけ有難いことなのかということを本当に実感されているのだと思います。

誰しも毎日の日常生活が難なく無事に過ごせるようにと願って生活しています。しかし、現状は思い通りにはならず、右往左往、不平不満の毎日です。そんな日々の暮らしだからこそ有難く、南無阿弥陀仏に出遇う大事なご縁である、との教えに頷かずにはおれません。

035お爺ちゃんのベッド、私がもらう

山口晃生

近年、人生の最期を病院のベッドの上で迎える人が増えてまいりました。母も20年前病院で亡くなり、10歳年上の父が残されましたが、仕事人間の父はすべて母任せ、下着の場所も分からない人でしたので、その落胆たるや気の毒な程で、あまりにも気落ちしたのか3年ぐらい経った時、認知症になり、しかも癌を併発、家族介護が必要になりました。夜中に動き回るのか、汚い話ですが、朝起きると、布団はもちろん、部屋中、大小便で汚れており、その始末が一日の始まりになりました。看病で本業もままならず、妻と言い争いになることも多々あり、愚痴と喧嘩の絶えない日々が半年ほど続きましたが、やがて父は入院しました。

付き添っている私を自分の息子とも知らずに、生まれ育った家の大きなアオギリの前で遊んだ昔のこと、正月や法要で親戚が揃うと決まってそこで記念写真を撮ったことなどを懐かしそうに話す父。黙って頷きながら聞いていますと、満足そうに微笑みますので、ああ、あの厳しかった父はどこへ行ってしまったのかと、逆に悲しくなることもありました。

治る見込みのない入院に、「ここで死を迎えるのではなく、たとえ寿命は縮まっても、家の畳の上で死なせてやりたい」と先生に相談し、家庭介護の許可をいただきました。冬でしたので、日当たりのいい部屋にベッドを入れ看病することになったのですが、病院と違い、食事から下の世話、身体の洗浄等の全てを家族でしなければなりません。しかし、以前と違い、苦労を苦労と感じず、愚痴も出ませんでした。やって当たり前と、昼夜を問わず看病していると、仕事から帰った息子と当時高校生の娘も自然に手伝い、まさに家族総出の看病になりました。しかし、薬石功無く木が枯れるように父はお浄土へ還っていきましたが、悲しさは無く、むしろ最期まで精一杯看病できたこと、付き添えたことの満足感で一杯でした。

葬儀も済み、さて遺品をどうするかとなった時、そんな死んだ人の物は捨ててしまえばとの多くの意見の中、娘が「お爺ちゃんのベッドもらう」と名乗りを挙げました。そこに死とは不浄なもの、穢れたものとの意識は無く、家族みんなで癌と戦った父の看病を心置きなくできた結果だと、身近な人の死を通して学ばせていただきました。南無阿弥陀仏。

034御遠忌から得たこと

三好龍温

今年5月、蓮如上人五百回御遠忌を勤めさせていただきました。五年計画で境内の整備・本堂の洗い・仏具の洗濯等を同行のみなさまの協力によって立派にすることができました。不況の世の中、ご寄付を募ったところ、快く応じていただける方や、中には縁を切られる方、名を伏せてなら良いと言っていただける方等、いろんな出会いをしました。

ふと私に帰ると、「もらうものは多い方が良いし、出す方は少ない方が良いのは、自分のことや」と気づかされました。

仏具のお磨きをしてもらいましてピカピカになりましたが、御遠忌が終わってすぐに曇ってしまいました。周りが綺麗ですので、曇った仏具が余計目立ちます。「磨き方が悪かったんと違うか」とか、「薬品が悪かったんと違うか」とか言う人がいまして、今年の年番の人が自分のことを言われているように思われ、残っていた薬品を店で替えてもらい、ご夫婦と友人の三人で三日かけて再度お磨きをしてもらいましたら、元よりもずっと綺麗になりました。それよりも年番の方の目が輝いて見えました。満足そうでした。

仏具の洗濯では、ご本尊の頭の後ろの丸い物が鏡だと知り、形でもって教えを表してもらっていることに改めて驚きました。

けちな私、人と比べる私、満足を求めている私。御遠忌を通して、いろんなことを得ることができました。しかし、また元に戻る自分があることにも気づかされました。

033たった一つの生命だから

小園至

今年も1ヶ月たらずで終わろうとしています。この1年を振り返るといろんな出来事がありました。毎日のようにどこかで殺人事件があり、また若者の自殺が増えています。

私の身近な所の出来事ですが、今年7月のちょうど高校野球が盛り上げっている時期の夜、あるご門徒さんから「うちの息子が亡くなった」と連絡があり、「どうしたのですか」と尋ねると、親戚の方からこのように説明がありました。

たまたまこの日、息子さんが夜勤のため、昼、子どもたちと母校の野球チームの試合をテレビで見ながら楽しんでいたそうです。そして、奥さんが「夕食の時間やでー、おじいさん、父ちゃん呼んできて」と言われて、息子さんに食事の時間を知らせに表に出た時、倉庫にいつも灯が点いていないのに、何で灯が見えるのかと、倉庫に行ってみると、息子さんが倒れていた。びっくりしてすぐ病院に搬送したけれども、既に亡くなっていたそうです。

私はびっくりしました。あの元気な息子さんが…と。寺の研修会にも参加してくれて、素晴しい青年でした。「私は、何で?何か自死するような悩み事があったのですか」と尋ねました。祖父母、奥さんも、「全くそのような気配がなく、心当たりはない」とのことでした。

この訃報を聞いた時、祖父母、若い奥さん、そして子どもたちのことが気になりました。自死した本人も辛いでしょうが、残された家族がどれほど辛いか。先達からこの「たった一つの生命」をいただいた、その重みと生まれた意義と生命の尊さに目覚めなければなりません。この家族は、これからどんなにか長い悲しみと苦しみの道を生きていかなければならないでしょう。

できるだけ楽しい、上手い目に遇いたい、幸せな人生を送りたいというのは、大方の人間の願いです。しかし、思いがけない不幸や、悲しみ、苦しみに出遇う時、「生きるということの難しさ」に直面します。それは人間が問われるべき、かけがえのない契機であります。

苦しんでいる人と出遇った時に、我々は「よき人・よき友」にならなければなりません。そして、共に苦しみを乗り越えて、「生きていて良かったなぁ」と言える人生を送りたいものです。

032老いを輝かせてくださる教え

水谷葵

今年は、老人会入会のお誘いを受け、改めて高齢に至ったことを自覚させられました。さらに、人権の仕事で中学生の人権作文に触れる機会があり、いときわ「老」を考えさせられました。「最後まで輝いて」という作文の一部をご紹介します。

仏壇に向かい静かに目を閉じると、優しく穏やかに微笑む曾祖父母の笑顔が浮ぶ。曾祖母は、10年前にパーキンソン病を発病。身体の機能は急速に衰え、食事も排泄も自分の力ではできなくなった。4年後には、曾祖父が庭の雪かきで背骨を潰し歩くのがやっとの状況になってしまい、認知症も悪化していった。家族で二人を介護する壮絶な闘いが始まった。

12月の寒い朝、起きてくると母と祖母が悲壮な顔で掃除をしていた。家中が汚物のすさまじい臭いでむせ返るようだった。夜中に曾祖父が排泄に失敗し、自分で何とかしようとパニックになったらしい。曾祖父は昔から頑固で人の言うことを聞こうとしない人だった。曽祖母はおなかの調子が悪く、おむつからあふれる汚物で、下着から布団まで全て汚してしまう毎日であった。曾祖父が曽祖母の枕もとで呟いた。

「お前はもう死にゃないかん。皆がたいへんだで、生きてちゃいかん。おらも死なにゃいかんと思っとるがなかなか死ねん」

こんな作文を読んで、自分の暗い「老い」の始まりを重く感じていました。ふと同朋会館からいただいた日めくりの「老いや病や死が、人生を輝かせてくださる」という言葉が目に止まりました。

お先真っ暗な人生の出来事が私を輝きの中に導いてくださる。それが浄土真宗の教えであると教えられていたのです。「如来の本願が南無阿弥陀仏となって私を救わんと誓いをかけ続けてくださる」と常々聞かせていただいている教えに納得していない自分がありました。

『歎異抄』9章に
死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩(ぼんのう)の所為(しょい)なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだうまれざる安養(あんにょう)の浄土はこいしからずそうろうこと(真宗聖典629~630頁)

と教えられてあります。

人生真っ暗闇と言わしめる煩悩よりも、もっともっと確かな悲願が、私に煩悩を以って目醒まそうと働いてくださったと教えられるのでありました。

031報恩の歴史

木村大乘

私の父は今年の5月初旬に94歳の生涯を終え還浄いたしました。亡くなった日の夜、悔恨のようないろいろな思いが去来する中で、ふといつも病院のベッドで合掌して、念仏を申している父の姿が目の前に浮かんできたのです。

高齢で記憶力も理解力も認識力も衰えていましたから、口癖のように称えている姿にしか私には見えていなかったのでした。もうこれで形ある姿ともお別れなのだと思った時、仏法に出遇うことを何よりも願っていてくれたことが、改めて私自身の歴史として拝めてきたのでした。

なぜか南無阿弥陀仏という、形を超えた、計り知れない如来の大慈悲心のいのちの中に父の宿業(しゅくごう)の歴史があったことが拝めてきたのです。それだけでなく、ここに在る我が身も、そしてこの世界の全ての生きとし生けるもの全てが、本来は形なき南無阿弥陀仏のいのちそのものであることに気づかされてきたのです。それは、何とか仏法が頷ける自分の思いや考えを、遥かに超えてつつまれてあった念仏の世界であったと言えましょう。

その後も相変わらず自我の執着心に捕らわれ、善し悪しの思いに振り回され、煩悶する生活ですが、この親鸞聖人のお言葉を憶念し歩まされて行きたいと思います。

「称仏六字(しょうぶつろくじ)」というは、南無阿弥陀仏の六字をとなうるとなり。「即嘆仏(そくたんぶつ)」というは、すなわち南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔(そくさんげ)」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業(ざいごう)を懺悔(さんげ)するになるともうすなり。「即発願回向(そくほつがんえこう)」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり。「一切善根(いっさいぜんごん)荘厳浄土(しょうごんじょうど)」というは、阿弥陀の三字に一切善根をおさめたまえるゆえに、名号(みょうごう)をとなうるはすなわち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。(真宗聖典520頁)

030「いのち」のはたらき

稲垣順一

先月、日本では歴史的な政変が起こりました。衆議院選挙の結果、民主党が大勝し政権与党となりました。ある新人議員の方が「いのちを大切にした政策を実現します」と言われました。政治政策の中で「いのち」という言葉が出たことが私には新鮮に思えました。
政治の世界で「いのち」が取り上げられるのは、「いのち」を軽視する社会の現状を憂うものなのかもしれません。しかし、「いのち」に対する問いは、突き詰めれば政治だけが問うのではなく、一人一人が問わねばならないことではないかと思います。

言葉としての「いのち」は、『広辞苑』では、第一に「生命力」、第二に「寿命」、第三に「一生、生涯」、第四に「最も大切なもの」と、4種類も挙げられています。人がこの世に生まれ、死ぬまでの間の全てに該当する「いのち」には大きな幅と深さが感じられます。

「いのち」の大きな幅や深さは、目に見えるものではありません。「いのち」を、見たり聞いたり、嗅いだり味わったり触れ合ったり、感じられるものは、その「いのち」の働きや関わりによるものです。

例えば、大切な人を亡くした時の悲しみは、亡くなった事実だけではなく、その人との関わりや働きによるものが大きいと思います。その「人との関わりやつながり」は、「いのちの関わりやつながり」と言い換えられると思います。しかし、人との関わりには、煩わしさや複雑な感情が働いたりします。その煩わしさから逃げたり、目を背けたりもします。このことが「いのち」に対する問いを曇らせているのだと思います。

「いのち」に対する問いは、「いのち」の働きや関わりに目を向けない私を気づかせてくれる機縁となっています。

029亡き母を縁として

桑原克

昨年1月末に母親が脳血栓で倒れ、40日ほどの入院、10ヵ月の自宅療養をしました。その間、お寺の行事の準備、聞法、仕事、介護と、目まぐるしい生活の中で、自分の心のあり方、態度が問われてきたことです。自分中心の考えしかないことや、介護といっても、本当に母に向き合ってはいない姿が浮き彫りになってきました。

例えばこんなことがありました。その日はお寺での聞法会でした。思うように体が動かない母は、周りに人がいないと不便ということで、私に「お寺に行かないでくれ」と何度か言いました。母の食事のこと、身の回りの準備をしてから、私は振り切るように出かけましたが、「そこまでしてお寺に行かんとならんのか」という母の言葉が、「お前は本気で仏法を求めているのか。役目とかお付き合いで関わっているのではないか」という、そういう声として厳しく問われた気がしました。

それでも、「仏法を聞かずにはいられない何か」が動くのです。自分でもはっきり言えないのですが、「聞きたい」という欲求が湧いてくるのです。自分でも不思議ですが、本気で道を求めている人の姿に触れたからでしょうか。

その母も12月の末に浄土へ還りました。お寺の本堂で通夜、葬儀をお願いし、その後の仏事では、その都度法話を聞きました。

近年願っていることは、家族の者に聞法のご縁を持って欲しいということです。母親の死を通して、子どもたちが仏法を聞くご縁ができたことが、何より嬉しいことです。長男は住職の勧めで特伝に参加してくれています。本人の気持ちはどうであれ、教えを聞く場に身を運んでくれていることを有り難いと思っています。

同朋会運動が始まって、やがて50年です。私にとっての同朋会運動は、一番身近な妻や子どもを聞法会に誘うことです。共に聞法することだと思っています。妻も推進員となり、お寺のお斎(とき)の準備や聞法会にも一緒に出かけることが増えてきています。最近、家族で仏法談義の時間がもてるということが、本当に嬉しいことです。

今回の母親の老い、病、死が、残された家族にとって、大きな仏法のご縁となってきています。南無阿弥陀仏。

028夏休みのお勤めの会

檉とし子

今年も「夏休みのお勤めの会」を迎えることができました。19年前、自坊がラジオ体操の会場になったことをきっかけに始まり、一時期は20人以上の子どもたちが集まりました。しかし、最近は子どもの数もずっと少なくなり、果たして今年は何人くらいになるだろうかと心配しておりました。

ラジオ体操初日、体操を終えた子どもたちは次々と本堂に上がり、14名もの参加となりました。毎年恒例としているのは、「正信偈」120句840文字を皆で書き上げることです。声明本に番号を付け、ご門徒の印刷屋さんからいただいた短冊の紙にも番号をうち、その番号の文字を筆ペンで書いていくという方法です。

初日から子どもたちは書く気満々、平仮名もありますが、難しい昔の漢字を戸惑いながらも、真剣に書く子どももいます。今年もボード一面に貼った「正信偈」が出来上がりました。

このようにして毎年行っている行事に、私は一つの淋しさをずっと抱えていました。こんなに頑張っているのに、どうして家の人から感謝の言葉が聞こえてこないのだろうか。その思いがずっと毎年湧いてきていました。

昨年このことを研修会の座談会で話しました。「これだけ一生懸命やっているのに、お礼の一言でもあっても良いのではないか」と。

それに対して、ある方が「子どもさんを迎えに行くくらいの気持ちでいないとだめ」とおっしゃいました。「何でそこまで」という思いで一杯になりました。その方の言われたことがずっと引っ掛かっていました。

ところが、今年本堂に上がってきてくれた子どもの姿を見た時、「よう上がってきてくれたね」という思いがフッと湧いてきました。「ありがとう、ありがとう」と、こちらは何の力もない、来てくれている子どもたちが主役だと自然に思えてきました。お兄ちゃんをお迎えに来た母親に抱かれた1歳の子どもに、「来年はお兄ちゃんと一緒に来てね」と言うと、意味が分かっているかのように、「ウン、ウン」と頷いていました。その姿を見ていると、また来年も続けたいと嬉しくなりました。

研修会で、私の醜い心をさらけ出さなかったなら、こだわりの心が見えてこないところでした。