藤﨑信
先月、20数年ぶりに山登りをしました。1000メートルに満たない山で、しかも山頂付近まで林道を利用するルートだったので、学生時代山登りのサークルに入っていた私は、「楽な登山だ」と思っていました。しかし、林道から分かれて頂上までの山道は急坂で、それまで会話をしながら余裕で歩いていたのとは打って変わって、歩く速度は一気にスローダウン、会話どころか息を整えるのがやっとで、体中から汗が吹き出てきました。改めて自分の体力の無さに気づかされました。やっとの思いで辿り着いた山頂は天候も良かったこともあり、伊勢湾まで見渡せる素晴しい眺望でした。
さて、「目標(頂上)に向かって登っていく」それは仏法にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。さしあたり目標(頂上)への道標が、お経やお説教となるのでしょう。
今回の山登りは、天候も良く、この山を以前登った経験者も同行していたので、迷わず頂上へ辿り着けましたが、山の天候は急変します。濃い霧が立ち込めると、東西南北の方向が分からず、周りの景色も分からず、自分が今どこにいるのか分からなくなります。「あと少しで頂上に着ける」と焦って、勘を頼りに動き出すと、思わぬ危険な場所に行ってしまうものです。また、頂上がすぐそこに見えるのに山道は迂回してまだまだ続くような時、自分の勝手な判断で近道すると、最後には登るに登れず、降りるに降りれずに、困ってしまうことがあります。
私たちは日々の生活の中で、楽な方へ楽な方へと考えてしまいがちです。確かな道(教え)があるにも係わらず、自分に都合の良い判断や解釈で、近道を作ってはいないでしょうか。