016寺のもつべき一つの役割 

保井京子

4月に女優の清水由貴子さんが自殺をされました。認知症の母親を一人で介護した末、うつ状態になっての自殺だとマスコミは報じています。由貴子さんの母は、39歳で他界した父に代わって由貴子さん姉妹を女手一つで育ててくれた、由貴子さんの最愛の人でした。由貴子さんに係わりのある方は口を揃えて、由貴子さんのことを、親を大切になさる優しい人柄の方だと言っています。

この由貴子さんの死は、同世代の私にとっても、とても衝撃的で考えさせられる出来事でした。自分を一生懸命に育ててくれた母への恩返しという思いで、一人で重い負担を背負ってしまったのでしょう。

この出来事には、高齢者介護という問題と共に、介護する者の深い孤独を感じます。恐らく介護する者の苦悩や現実は、その当事者しか分かり得ないのです。先が見えない介護、誰ともその重荷を分かち合えないという孤独感が、親の老後は私が看取るのだという強い意志が、由貴子さんを自殺に追いやることになったのでしょう。

私の寺には、毎月「逮夜(たいや)」という27日のお参りの集まりがあります。十数名の集まりですが、『正信偈』のお勤めをし、話し合いなどをもつ集いの終了後、時にはすぐに帰らずに、夕方までいろいろと世間話をすることも、楽しみの一つになっているようです。同年齢、連れ合いを亡くされた者同士が、その思いを共有する場ともなっているようです。

寺の持つ役割は、いろいろとあると思います。その一つに、人々が集い、日頃の様々な思い、悩み、憂い、悲しみを互いに語り合う場にする手助けの場所、憩いの場としての役割があります。老若男女、孤独感が深まり、人々が助け合い、共に生きることが見失われている今、寺を地域の人々の集まれる憩いの場として提供できたら良いと考えている今日この頃です。