014わたしの顔 

木名瀬勝

国道23号線の交差点でのこと。信号が青に変わったのに気づくのが遅れ、後ろの車にクラクションを鳴らされた。慌てて発進すると、その車が強引に追い越しをかけ、私の車と並んだ時、こちらを睨みつける男性ドライバーと目があった。猛スピードで走り去っていく銀色の車体を眺めつつ、「そんなにイライラせずに、もっとのんびり走ればいいものを」と思いながらも、男のつり上がった目つきを思い起こすと、だんだんと理不尽に感じてきた。「2、3秒の遅れくらいで何という態度だ、睨み返してやれば良かったな」と、しばらく頭を熱くしながら運転をしていたのでした。

さて、「眼は外を見るためにある」という当たり前のようでいて謎めいた言葉が、私は以前からずっと気になっています。「仏陀の教えは鏡である」と何度も聞いて言いながら、いつのまにか自分で自分の性格を分析し、「確かに我執で生きているな」という結論に陥っています。何でも見ることのできる眼球も眼球自身は見ることができないように、私は、私自身を見ることはできないからこそ、「教えを鏡にせよ」と言われるのでしょう。しかし、日常生活においていくら外を眺め回しても、教えとなる鏡が何であるかがはっきりしません。

その晩、布団に入り、眠りに就こうとしていた時です。銀色の車の運転席から睨みつける憎しみに満ちた顔がはっきりと闇に現れました。これは私の顔だと感じました。毎朝鏡で見たり、写真で見たりしている自分のイメージ、それが私じゃない。なんだ、これが私の顔だったのか。