015「共に」という世界 

佐々木智教

最近、自宅でお葬式を行うお宅がめっきり減り、葬儀会館での葬儀ばかりが目立ちます。私の住む長島町では、組の方々がお葬式のお斎(とき)の用意や火葬の一切を取り仕切り、それこそ村ぐるみで亡き人を送る習わしが伝統とされてきました。

ところが、桑名市との市町村合併を境として、村に火葬場があるにも拘らず、桑名市の火葬場へという流れが定着し、次いで自宅葬から会館葬へと完全に移ってしまったかのようです。お家の方にお話を伺いますと、「組の人も若い者になると火葬もよおせんし、何しろ暇財かけんならんから、お金はかかるけど会館でやった方がさっぱりしとるでええわ」とおっしゃいます。これも時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、何とも寂しいことです。

また、こんなこともあありました。小学校の校庭に咲く色とりどりのビーチパラソル。こんな場違いな光景を見られたことはありませんか?とある小学校の運動会では、まるで真夏の海水浴場のような光景が見受けられます。このビーチパラソルは、児童の親御さんが子どもの応援のために持ち込んだものです。パラソルにはテーブルとイスがセットになっていて、ここでそれぞれの家族が子どもたちと一緒に昼ご飯をいただくのです。

私も初めこそ、「怪しからん!何だこれは」と思いましたが、いつのまにか右へ倣えと、パラソル派に転向してしまいました。この運動会の様子を見られたお寺の役員さんが、「今どきの親はなっとらん!」と、えらい剣幕で言われました。

「昔は自分の子もよその子も、同じようにみんなで応援したもんや。今の親は、自分の子だけ一生懸命応援して、よその子の時にはパラソルに戻って知らん顔をしとる。自分勝手な親ばっかりや!」

まさに自分のことだと、身の縮む思いでお叱りの言葉を受けましたが、他にも私たちの身の回りでは、同じようなことが起こっているのではないでしょうか。それぞれ自分の思いに基づく行いによって、人と人とが共に出会う場を失い、地域社会から家庭がどんどん孤立してゆく状況にあるのです。

今後、私たちは「個性や自由の尊重」といった価値観重視の中で、「共に」ということがますます成り立ち難い時代を生きなければならないのでしょう。

しかし、その故にこそ、私の思いを超える「共に」という世界を見出してゆく課題が、私たちに与えられているのではないでしょうか。