池田徹
普段、我々は、無意識に自分を肯定しています。自分は「善人-善き者である」と思っています。自らは悪人ではなく、善人であるという思い込みを生きています。「それなりに頑張っているし、まんざらでもない」と思っています。また、その「善人性」を生きる支えにもしています。人さまに非難されないように、後ろ指をさされないように努力もしています。
しかし、長い人生の中で、その善人意識を突き破って、本性-凡夫(悪人性)が噴き出してくるのです。その時、我々のその意識は、徹底的に事実の自分「悪人的自己」を裁き排除しようとするのです。「これは本来の私ではない」「たまたま魔がさしただけだ」等と言って、その事実を認めようとしません。「悪人的自己-凡夫」を受け入れられないのです。
生身をもって生きている限り、縁の中で「悪人性」「凡夫性」が暴露されてきます。その時は、共に在る「いのち」が傷つけられた時です。その「いのち」には眼が向かず、自分の「善人性」が壊れたことにしか関心が向かないのです。だから、現実に出てきた自分、事実の自分を憎み、非難するという形で、その「善人性」を保とうとするのです。「善人性」を守るためには、自らの存在を抹殺することさえあるのです。この自己肯定の意識-善人意識は、恐ろしい暴力性をもっています。他者は言うに及ばず自分さえも抹殺してしまうのです。
親鸞は、この「善人意識」を《みずからがみをよしとおもう・みをたのむ・あしきこころをさかしくかえりみる・ひとをあしよしとおもう》こころ、「自分のこころ」と言われます。その「自分のこころ」を中心に生きる限り、結局は自らに失望し、自らを見捨て、他者とも出会えないと教えられています。
そう我々に「国土」を「大地」を与えようというのが、念仏-本願の呼びかけです。「念仏して浄土に生まれなさい」という教えは、まさに「自分のこころ」-善人意識を中心に生きている者に向かって呼びかけられています。「国土」「大地」を与えるという形で、私が安心して生きる居場所を、他者と共に生きていく「世界」を与えてくださるのです。
自ら(人生)を尊敬し、縁あって共に生きている他者を尊敬し、向き合って生きていく根拠、責任主体となる「国土」「大地」を「浄土」として用意されているのです。その浄土は、善人意識のもつ「虚偽性・暴力性・偏狭性」への目醒め、痛み、悲しみの感覚をもっているのです。
佐々木達宣
先日、若い頃に観た映画を再び観る機会がありました。それは黒澤明監督の『生きる』という作品です。学生時代に感動し、もう一度観てみたいと思っていたのですが、なかなかその機会もないまま、時と共に忘れておりました。ところが、先日ふと寄ったレンタルビデオショップで発見し、思わず手に取ったのです。
映画ファンの方ならよくご存知の作品だと思いますが、主演の志村喬さんが公園でブランコをこぎながら『ゴンドラの唄』を口ずさむシーンはあまりにも有名になりました。映画の大筋は、無気力な日々を過してきた志村さん演じるところの公務員の渡辺勘治は、癌であと半年の命と知らされ、恐れおののき、絶望と孤独に陥った末、これまでの事なかれ主義的な生き方に疑問を抱き、「生きる」ということの本当の意味を取り戻す。そして、市役所に懇願する人々の願いに応えて、公園を作ろうと努力していく…というものでした。
初めてこの映画を観てから30年の時を経ても、その感動は変わりません。いや、その間に仏縁を得たことで、その感動がより深く新鮮なものに思えました。私たちの人生を見据えた時、「いかに生きるか」ということばかりに捉われているのではないでしょうか。ところが、所詮人間であるわけですから、そこに欲が生じ、計らいも生まれてくるのです。一方、人生を「いかに死んでいくか」というふうに捉えると「死んで悔いなき人生を、いかに生ききるか」という仏の願いに通じてくるのです。即ち、死を前提として生を考えることで、映画の主人公のように、より深い人生の意味が見出されてくるのではないでしょうか。「命短し、恋せよ乙女・・・」改めて、志村さんの口ずさむ『ゴンドラの唄』が心に沁みてまいりました。
田鶴浦幸子
3年ほど前、境内の草取りをしていて、草の中に松が芽を出しているのを見つけました。見過ごしてしまうような細く小さなものでした。種が飛んできて一人生えしたようです。珍しいなと思い、それから気をつけて草を抜いていると、他にも3本見つかりました。松の木が1本枯れた後なので、何だかとても嬉しくなりました。草に負けてしまわないように、早く大きくなるといいなと思いながら周りの草を丁寧に取り除いたものです。
今年は暖かい日が続き、雑草が見る見る間に生えてきました。草取りをしていてあの松が目にとまりました。「ああ、あんなに大きくなっている。でも、このまんまこんな場所で大きくなってしまったら邪魔になるな。植え替えるのはまた造作だなあ」と思ってしまいました。実生の松を見つけた時は、あんなに喜び、昨年までは大きくなってきたのを楽しみにしていたのに、願い通りに大きくなってきた松を今度は邪魔者扱いしているのです。見つけた時から、大きくなることは分かっていて、それを望んできたのに、今になって「何で植え替えんでもいい場所に生えんかったの」と思う私がいます。何という変わりようでしょうか。自分の都合に合っている時はいそいそとしていたのに、自分の都合に合わなくなると、文句や愚痴が出る。考えてみると、日常の出来事・人間関係など万事がそうです。「私にとって」の都合で、すべてのことを見ていることに気づきました。自分に都合がよければ「良い」都合が悪ければ「悪い」、「良い」「悪い」を決める基準は私の思いでした。自分の思いが通ればこんなものかと思うぐらいで、思い通りにいかず、当てが外れるとがっかりして落ち込んだり、腹を立てたりしてしまう自分です。
そんな自分の思いから一歩も出られない私の生き様を実生の松に教えられました。
岡本寛之
私事ではございますが、昨年の10月に待望の第一子を授かりました。何ぶん育児は初めてのことばかりで、想像以上に悪戦苦闘の毎日を送っておるわけですが、その分いろいろなことに気づかせていただいております。
結婚前から教区の児童教化活動に携わっており、自称子ども好きな私なのですが、数年前からテレビや新聞等で目にすることが多くなりました「幼児虐待」の事件に胸を痛めている一人でもあります。せっかく授かった我が子、中には連れ子というケースもありますが、大人が自分より力の弱い幼い子どもに危害を加えたり、育児放棄等の虐待を加え、最悪の場合、命を奪ってしまうこともあるわけです。
ニュースや新聞記事を目にするたびに加害者たちの心情が理解できず、とてもいたたまれない気持ちになると同時に「自分に限ってはこのような事件は起こさないだろう」なんて勝手ながら思ったりする訳です。自分が親になるまでは思っておりました。
それほど多い訳ではありませんが、妻が外出し子どもと2人だけになる時間があります。どれだけ注意を払って優しく接していても泣き出すことはあります。そんな時はだいたいオムツが濡れているか、お腹が減っているかのどちらかだと思うのですが、男性ですからオムツを交換することはできても母乳を与えることはできません。その時の男性は無力以外の何ものでもありません。泣き止ますために抱き上げ軽く背中を叩き落ち着かせようとするのですが、なかなか泣き止みません。挙げ句の果てに自分がイライラし、背中を叩く力がだんだん強まり、まるで鼓を打つかのような状態になり、子どもの声がより大きくなってふと我に返る。後で思えば粉ミルクを用意しておけば良かっただけなのですが、そんなことがありました。
その時の自分の行いが虐待の一歩手前であることに気づかされ、虐待で新聞沙汰になった親の心情が少なからず理解できた気がしました。また同時に、今まではたまたま虐待に至るような縁に出遭わなかっただけで、自分にもその可能性があった。にもかかわらず「自分に限ってありえない」等と考えていた自分の身勝手な在り方を育児を通して気づかされました。
松下至道
昨年の出来事です。法事を頼まれましたが、うちの寺に頼むのは初めての方でした。二人の五十回忌ということでした。二人とも年忌の年をだいぶ過ぎていましたが、そのことには触れず、私はご依頼をお受けし法事を勤めました。
お勤め後、その方が言われました。「ホッとした」と。私は年忌をだいぶ過ぎてからなさったことと「ホッとした」という理由をお尋ねしました。すると、最近その方の家では良くないことが立て続けに起こったそうです。奥さんと娘さんが続けて病気で入院し、ご自身もストレスで軽いうつ病になった。そこで占い師のところに相談に行ったら、法事をしていない先祖の法事をすれば万事良くなると言われた。それでこの2人の先祖の五十回忌をしていないと思い、お願いしましたと。
人間は自分の意に合わないことが起こるとその原因を外に求めます。自分には病気という悪いことが起こるはずがないと思っている。本当は、生きているのだから病気をするのは当然のことだし、社会生活をしているのだからストレスも溜まる。別にその方が特別ということではないし、決して先祖のせいではない。あえて言えば「生きている」からです。
法事は亡き人のためではなく、その場におられる方々のために勤めるのです。亡き人をご縁として。法事をする理由は自分が災難に遭わないためではなく、自分の身の事実を聞くためなのです。
私たちは身で生きているのですが、心で生きていると思っています。だから自分の心に会わないこと、例えば病気になれば、その病気を受け入れることができないのです。お釈迦様は、老・病・死を出る道として仏教を開かれました。それは老・病・死を避けるということではなく、受け入れ、それを縁に深く生きて生きていくということです。自分の身を喜んで生きていける道なのです。
お念仏の教えとは自分の身に感謝して生きていける道を与えてくださる教えなのです。私の話をその方は黙って聞いておられました。納得されたかどうかは分かりません。お念仏の教えを心底から頷くこと、生かされて生きているという身の事実を受け入れ、感謝して生きていくことはとても難しい。自分勝手に頷くなんてできません。阿弥陀仏に頷かせていただくしかないんです。そのための聞法です。頷き続けていくためにまた聞法していく。
真宗には修行はありません。もし修行に当たるものがあるとすれば、それは一生をかけての聞法しかないのです。
竹林泉
先日ある家族の亡きご主人の十七回忌法要が営まれた時のことです。この家族は大阪の方で、十七回忌ともなるとちょっとした小旅行気分で、おばあちゃんと子どもたち、それと数人のお孫さんがお参りに来られました。本堂でのお勤めが終わり、お墓参りに行きました。墓前に花を供え、線香とロウソクを立てて、しゃがんでいたおばあちゃんが立ち上がろうとした時、慣れない体勢から地面に足をとられてスッテンコロリンと尻餅をついてしまいました。
一同「あっ、お墓でこけはった」との声が上がり、すかさずおばあちゃんが「お父ちゃん、まだ迎えに来んといて。もっとお父ちゃんの分まで生きたいねん」との声に、今度は一同大爆笑。けど、おばあちゃんは真剣な顔で「住職さん、どないしたらよろしいやろ」と聞いてきました。私は「どないもせんでええ、そんなん迷信やでな」と答えました。
お墓でこけると縁起が悪い。いろいろな迷信とか、語呂(こじつけ)とかが言われております。中にはそれなりの意味もあるかもしれませんが、そのほとんどは何の根拠もありません。特に仏教に関することはいろいろ言われておりますが、清め塩のこと等は、最近になってようやく理解されるようになりました。私たちの気持ちの中、あるいは地域とか地方には、まだまだ不思議と思える習慣やしきたりが残っています。単なるユーモアで済ませられないことも耳にします。
私も「これはこのようにせんとあきませんのやろ」等とよく聞かれます。それは「何の根拠もないから心配せんでいい」と言うと、だいたい納得してもらえます。中でも数字の「四」をなぜか殆どの人が「死」につながるから縁起が悪いと言って嫌がります。そんな時私は「何で、数字の四が死ぬにつながるんや。四がなかったら五・六は続けられへんで困るやろ」と言います。迷信ってこんなもんです。
高木彩
テレビで、人間関係力テストと題して、良い人間関係を築く能力をテストしていました。表情や仕草、言葉を通して、人の気持ちを推し量ったり、どんな時も他の人と協調して行動しているか、また自分の感覚が世間の多数の意見と同じかどうかで、能力を量る問題もありました。
私自身テストをしていて、人間関係の能力を知りたいというより、私の人を見る目や考え方、物事を見る感覚は、社会の常識とずれていないと思いたいというのが、自分の本音でした。そのテストでは、自身の人を見抜く力や周りの人との協調性があれば、良い点を取れて、良い人間関係を築けるということになるのですが、それは上辺だけの人間関係になりかねないと思うのです。
最近お参りに行った家のおばあさんが親戚のおばさんのことを姉さんと勘違いして話していました。隣の人が間違っているよと言っても、おばあさんは間違っていることが分かりません。するとおじいさんが「うん、うんと頷いてやればいいんや」と言うので、隣の人が「うん、うん」と言ってあげるとおばあさんも笑顔で頷いて「あの人お姉さんやなくて、おばさんやった」と勘違いに気づきました。私は、人の間違いをすぐにあげつらって、間違いを正そうとするのですが、おじいさんは、おばあさんの間違いを分かった上で、おばあさんの言ったことに頷く。それは、おばあさんの存在そのものを認めているんだよという意思表示のように感じました。おばあさんは自分の存在を認めてもらっていると感じたからこそ「自分は正しい」という箍(たが)を外すことができ、自分の間違いにも気づくことができたように思います。
『歎異抄』で、
わが御身(おんみ)にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。(真宗聖典640頁)
と書かれているように、この世の善悪ばかりに振り回されて、本当の願いに気づけない自分であることを、聖人は身をもって教えてくれています。そんな自分でさえも認めてくれる人がいるだけで、心が救われます。どんな人でも相手の存在を認めるところから、自分が正しいとか、間違っているという次元を超えて、相手の思いに頷き、また自分の思いも伝えていくことができる。そこから世間体や社会的価値観・常識を超えた心の人間関係が築いていけるように思います。
藤井信
毎日の生活の中では、時々何をやってもうまくいかない時があります。そんな時に限って、さらに悪いことが続いたりします。自分のとった行動が裏目に出たり、自分の言葉を思いもよらないように解釈されたりします。
お参りに行ってお話をしていると、こんな話を聞いたりします。不幸なことが続いて、占いなどで見てもらった等の話です。そんな場合よくありがちですが、先祖の誰々があなたをすがっている等、不幸の原因が先祖のせいになります。もし本当にその言葉をそのまま信じることができるならば、自分にとってはとても都合がいいですね。なぜなら、あなた自身には責任はないと言われているようなものですから。話は戻りますが、何をしても物事がうまくいかないことが続いていた時に、ふと叔父のお寺の報恩講で、講師の先生が話されていた言葉が頭によみがえってきました。
高光一也という方の言葉ですがこんな言葉です。「人間は朝から晩までいろんなことをしゃべっている。いかにも分かったようなことを言っているが、人間の話している言葉は、つきつめれば〈そんでも、そやけど、あいつが、こいつが〉の四つの言葉を繰り返しているだけではないか」と。
なるほどと思いました。確かに私たちは、人が寄ればこのような話ばかりです。〈そんでも、そやけど〉と言い訳ばかりで自己を弁護し、〈あいつが、こいつが〉と他人に責任を転嫁してばかりの生活に明け暮れています。
私たちは、そのようにしていつまでたっても同じ過ちを繰り返し、大切な時間を空しく過ごしています。悪いことといっても、結局は自分にとって都合が悪いことというだけなのです。自分の姿を正直に引き受けることなく、他のせいにして逃げてばかりいる、そんな自分を言い当てられた言葉でした。
藤井正子
「阿弥陀様を一人ぼっちにしていませんか」
この言葉は今年届いた年賀状に書かれていました。この時「阿弥陀様を本当に必要としていますか」「何を頼りにしていますか」と問われたような気がしました。そして『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』の中にある上人の仰せと重なってまいりました。正月一日にご挨拶にまいられた道徳に、
道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏(ぶつ)にまいらせ、このもうしたる功徳(くどく)にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御(おん)たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり。(真宗聖典854頁)
という仰せの言葉です。つまり、口に称えてる念仏は同じでも、心得に違いがあると言われるのでしょう。
私たちは「念仏を称えなさいよ」と勧められますと、助かると思って念仏を一生懸命たくさん称えることがありますが、困ったことが起こると「あの時お参りをしなかったから」とか「朝晩お参りしているのに、何でなん」というように、念仏を取引の言葉のように思ったりします。
南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀仏の衆生を救済するための願いと修行が成就した相で、南無はたのむという衆生の機を表し、阿弥陀仏はたすけるという仏の法を表すので機法一体ともいわれます。この「弥陀をたのむ」ということは、念仏する自分自身が問われ、そこにどこまでも自分の思いを立てていこうとする自分の執着心の深さを知らされ、阿弥陀仏のこころに頭が下がったということなのでしょう。
私たちは、南無阿弥陀仏のいわれを明らかに聴聞せず、また、称えている自分自身を問うことのない時、仏様を自分と離れたところにおくことになり、念じられる仏様と念仏する私が、別々になってしまいます。阿弥陀様を一人ぼっちにしている原因は、自分の力で何とでもなると思っている私自身にありました。
員辨暁
最近、新聞やテレビを見ておりますと「自殺」ということが毎日のように報道されております。人が自殺に至るまでの苦しみや悩みの内実は、人により様々だと思います。本当に悲しいことでございます。私たちは日常生活の中で、物事が自分の思い通りに進んでいる時には、あまり〈いのち〉というものを深く考えることはないのですが、逆に物事が自分の思い通りに進まなくなると、自分の〈いのち〉ということを深く考えることになります。自分の〈いのち〉はこの世に本当に必要なんだろうか。本当は必要ではないのではないか。もし、必要でなければ捨ててしまえ、というように、私たちは自分の〈いのち〉を自分の思いや、自分の都合によって考えていることが多いようです。
そんな中、あるお寺の掲示板に次のような言葉が書いてありました。「あなたが〈いのち〉を見捨てても〈いのち〉はあなたを見捨てない」という言葉です。私たちの思いや考えで自分の〈いのち〉見捨てることがあっても〈いのち〉そのものは私自身を見捨てないということです。
私たち浄土真宗のご本尊である阿弥陀様のはたらきは、「摂取不捨」という言葉で表されます。分かりやすくいうと「選ばず」「嫌わず」「見捨てず」という言葉になるそうです。私が今までどんな歩みをしてこようとも、決して阿弥陀様は選んだり嫌ったり見捨てたりしないということです。私たちは自分の思いの中に閉じこもってしまうと、必ず行き詰ってしまいます。私たちがお念仏を称えるということは阿弥陀様の広く深いおこころに出遇うことなのです。
改めて「あなたが〈いのち〉を見捨てても〈いのち〉はあなたを見捨てない」この〈いのち〉とは、阿弥陀様のおこころです。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。