026日ごろのこころ

伊藤宣章

今年の夏は暑かったからなのか、たくさんの人がお亡くなりになりました。お葬式にもたくさんお参りさせていただいたのですが、ひとつ気になったことがあります。

それは、弔電や弔詞によく使われる「冥」という言葉です。そもそもこの「冥」の字の成り立ちは、台の上に乗っているものの上から布をかぶせた姿を現しています。意味を漢和辞典で引くと『1、くらい ア、光がなくてくらい イ、道理にくらい。おろか』と出てきます。

冥土(冥途)といった使われ方をするのですが、実はそこが気になるところなのです。なぜなら、私たち浄土真宗の門徒が願うのは冥土ではなくて浄土ではないでしょうか。宗祖親鸞聖人がお示しくださった『前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え』(真宗聖典401頁)という言葉があります。亡くなった人は光なく、道理に暗い冥土に生まれることを願われていたのでしょうか。私たちもまた光なく、道理に暗い冥土に生まれることを願うでしょうか。

お葬式は不可思議光如来ともいわれる阿弥陀如来の前で勤められます。私たちの闇を照らしてくれる光の浄土に生まれることを願えとの導きに私たちは応えているのか。私たちにとって亡くなった人のお葬式は最初で最後、一回きりなのです。だからこそ大事に勤めていきたいと思うのです。