020 吹けば飛ぶこの命

海野真人

私たちは、普段忙しさに紛れて生活していますから、いつの間にか「生きていて当たり前。今晩寝たら必ず明日目が覚める。」と疑わずにいます。ですから、私たちが人間の身を持って今ここに存在していることの裏には大きな背景がある事を忘れてしまいます。私を支えてくれる背景を見失ってしまうと、すべてが当たり前になり、思い通りを求める自己中心的で独りよがりな考えになってしまいます。

たとえば、私の胸では今心臓が動いてくれています。これが止まると私の命も終わります。でもそのことを意識することはまずありません。黙々と動いていてくれることに感謝する事もあまりありません。人間の体は六十兆個の細胞で出来上がっているそうですが、その一つ一つがどんなはたらきをしているか、頭では把握もできません。でも、それぞれがそれぞれのはたらきをしてくれているお陰で、こうして存在することができています。

体が健康であっても、私を取り巻く環境が整ってなければ生きてはいけません。私たちがいるこの地球は、太陽から絶妙な位置にあるおかげで空気や水をはじめとして、生きていくのに不可欠な物が揃っています。もし、太陽がなくなったら五分と生きてはいられないでしょう。こうして一つ一つ挙げていけば切りがない、とてもすべてを見通すことのできない無数の条件によって私達は存在していられるのです。まさに吹けば飛ぶような命です。米沢英雄師にこのような言葉があります。

「吹けば飛ぶこのいのちを生かすのに 天地宇宙総がかり」

と。私が今ここにこうして人の身を持って存在していることの背景はこんなにも大きいのだと、知らせていただける言葉だと思います。しかし、背景といい、お陰さまといい、表には出ないのですね。あくまで「背中」であり「陰」なのです。自分の背中は鏡がないと見えません。陰は光がないと陰だと気づきもしません。鏡も光も自分の中にあるものではありません。鏡のはたらき、光のはたらきをしてくれるのは仏様の智慧のはたらきです。

仏様の智慧のはたらきを実感できるように、これからも聞き続けていきたいと強く感じています。

(二〇一五年十月下半期 中勢二組法因寺住職)

019 今のすがた

種村茂

私はこの十月で六十四歳になります。在家の者で現在家族は妻と娘そして知的障害の妹と四人で暮らし、息子は社会人となって県外で一人暮らしをしております。私は六十歳で会社を退職し身軽の身となりました。今の生活は早朝の静かなひとときに、今までのいろんな方から教わった体操などを一時間くらいかけてゆっくり行い、そのあと趣味のクラッシックギターを弾いて楽しみます。普段は諸用事をこなしつつ空いた時間が出来たりすると、しゃがんで草抜きや庭先の畑で少しの家庭菜園や園芸をします。

今思えば父は施設・病院と六回くり返し、その都度検査して、そして六年前に病院で亡くなり。母は、その後しばらくして施設に入ってもらって、三年前に施設で亡くなりました。私は母が亡くなる頃から十キロくらいやせだし、私なりに大変な時期がありました。今ではぐっすり眠れるようになり、とても有難く目覚めの時は感謝です。また自宅での朝夕のお勤めは都合でできない時もありますが、ほとんど毎日のごとく称えております。

今振り返ってみると、私が三十代後半の頃お手次の住職に声をかけていただき、その流れのまま仏法の場へ行って推進員となり。聞法の場では講師の先生をはじめ先輩や同年代の方々との出会いがあり、そのおかげで仏法の場が広がりました。今も手探りで迷いつつ今しかないという気持ちが仏法へと聴聞出かけております。

(二〇一五年十月上半期 浄泉寺門徒)

018 過疎化地域に生きる

山崎信之

私が生活している多気町土屋というところは、過疎化が進み、高齢の方が増え、若い方が少ない地域であります。となりの松阪市内まで出るには車でおよそ三十分かかり、何をするのにも不便な地域なのです。ですので、仕事のため出ていかれた若い方々は外で所帯を持ち、帰って来られる方もとても少なくなり、現在生活されておられるほとんどの方が年金生活を送られている方になります。

そんな環境の中でも、これまでのようにとご門徒と協力しながらお寺をなんとか支えていますが、お寺の役員をお願いできる方も近年では、お寺の役以外に地区の様々な役を重ねて引き受けられるというのが現状で、例年通りしてきたことが徐々にできなくなり、お参りに来られる方も少しずつ減少傾向にあります。

しかしそんな中でも、お参りはさせていただきたいとお寺に足を運んでくださる方もおられます。その根底には、親鸞聖人より有縁の方々を通して私達へと本願念仏のみ教えが届けられているというまぎれもない事実があるのだと思います。

御同朋御同行の言葉の通り、念仏申す者、親鸞聖人の教えに学びたい者、各々が自分の関わり方でお寺に関わって下さる。それがお寺という場を実現し続けているのだと私は感じます。

現在、私のお寺には『同朋の会』と言える集まりはありませんが、一緒に歩んでくださるお同行の方々と、苦労を共にしながら、お寺を中心に、この過疎化した地域で生き抜く道を歩んで生きたいと思います。

(二〇一五年九月下半期 南勢2組 福壽寺住職)

017 鳩

伊藤誓英

本堂を新築して約十年になります。それが今年の六月頃より鳩が来るようになり、虹梁(こうりょう)と呼ばれる横柱などにとまりだしました。その結果、おびただしい量の糞害です。鳩の糞にはたくさんの病原菌が含まれているそうで、お寺にご参拝されるご年配の方々に健康被害が及ぶことも考えられますし、小さな子どもを連れてお墓参りに来られる方もみえますので何とかしなくてはなりません。

それまで鳩との間に何の利害もなく、私にとってはよく見かける動物の一種であり、犬や猫を見かけるのと同じでした。しかしこの時より、私にとっての鳩は駆除すべき存在になりました。別に私は鳩を殺すつもりはなく、ただ鳥除けが取り付けられるまでの間、竹竿で追い払っているだけですが、もし卵を見つけてしまったらどうするかです。保護しても、人工的に孵化させ、育てるのは困難だそうです。見逃せばきりがない、でも生まれてきた命。仏さまの「不殺生」という教えが耳に痛く感じます。

昨今、「いただきます」という言葉が失われつつあると聞きます。一般家庭だけではなく、学校給食でも不要ではないかと言われる事があるそうです。どうしてそのような問題が起こってくるのでしょうか。それは他のいのちを奪うことで、自分のいのちが保たれていることに目を背け、大切な事実を伝えていくことをやめた結果ではないでしょうか。

「不殺生」や「いただきます」など、私に届けられている大切な言葉があります。しかし、それに背き、忘れてしまう現実があります。その事実に気づかされた時。その狭間で「申し訳ない」と痛む心に、常に照らしてやまない仏さまの大悲の心が見えてくるのだと思います。常にあるべき在り方、生き方を忘れるなとのメッセージではないでしょうか。

(二〇一五年九月上半期 桑名組明圓寺住職)

016 気づけてない私への喚(よ)びかけ

藤嶽大安

食事をするとき、「いただきます」と、言います。私たちは、動物や植物の尊い命を頂くことによって、命をつないでいます。こうしたことから、動物と植物の命を頂くということに、感謝するという気持ちで、「いただきます」と、称えることが大切なことであると教えられてきました。

さて、お釈迦様は、誕生された時、「天上天下 唯我独尊」と言われたと伝えられています。

これは、ただ私だけが尊いとか偉いという意味ではなく、「この世に、誰とも、代わることの出来ない唯一の存在として、しかも何一つ、付け加えることなく、この命のままに、尊い存在である。そういう尊い命を賜って生きている。」ということを表わしている言葉でしょう。

動物も植物も、このような尊い命を頂いています。また、私たちも同じように、尊い命を頂いて生きています。

しかし、このように同じ尊い命を賜っているにもかかわらず、目の前においしそうなごちそうが運ばれてくると、目先の事に気をとられて、「共に尊い命である」と、いうようなことは、すっかり忘れてしまっている私。

そんな私に「おおーい、大丈夫ですか。大切なこと、見失っていませんか」と、仏さまから、喚びかけられています。

でも、その喚びかけにも、気がつかないでいるので、食前に、「いただきます」という言葉を発することで、「動物や植物も、それを頂く私も、共に、かけがえのない尊い命を頂いているのであったな。忘れていたな」と、気づかせて頂くご縁を、仏さまから、つくって下さっているのではないでしょうか。

(三講組・敬善寺住職 二〇一五年八月下旬)

015 私と桑名別院「暁天講座」

伊藤たね子

今年で四九回目の暁天講座が終わりました。七月末の五日間、朝六時半から七時半の一時間桑名別院の本堂でいろいろな方のお話を聞きます。阿弥陀様に向かって座り、静かに耳を傾ける大切な時間です。

私は若い頃、農業をしながら三人の子育てに走り回っていた頃、不平・不満のつぶやきを親友によくこぼしていました。そしてさそって下さったのが別院の暁天講座だったのです。

その時の講師は、北陸の米沢英雄先生でした。日常の悩みや迷い、苦しみを仏法を通してわかり易く話されました。帰りには心も軽く明日への元気もわいてきて、こころが穏やかになっており、次回が待たれる講座でした。それ以後、なんとなく気後れしていたお寺へ行くのも、自然体で正面の阿弥陀様にきちんと正座して合掌することができるようになりました。

この暁天講座の出会いが今の私を支えるありがたいご縁となっています。本堂に集う様々な方を目にしますと、いつの間にか私はこれでよいのだろうかと、自分を見つめ、考えているのです。そしていつの間にか力がわいて来て「さあ、やろうか」と、一歩が出ます。

お寺は私にとって心の拠り所です。これからも一回でも多く手を合わせることが出来ますように、来年の暁天講座に出会えますようにと願っています。

(長島組寶林寺門徒 二〇一五年八月上旬)

014 そんかとくか 人間のものさし

藤﨑 信

先日、御門徒宅へ月参りをした際、お天気の話になり、「久しぶりに雨になりましたね」と話すと、「畑の野菜に水を撒かずに助かります」と喜ばれていました。

また同じ日に、別の御門徒宅へ月参りに行った際、同じく天気の話をすると、「草が伸びるので敵いません」と、今度は困ったと言われます。

どちらの言い分もごもっともなので、「そうですね」と返答をしたのですが、雨が降ったということに対して、人それぞれ考えが違うのです。

相田みつをさんの詩に、「そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし」と言う詩があります。

私たちは、自分の都合で、物の良し悪しを判断してはいないでしょうか。

仏教では「我執」といって、「我にとらわれている」「執着する」「自分中心に物事を考えている」ことをいいます。

普段、日常生活する中で客観的に物事をみること、少し立ち止まって執着する自分自身を見つめなおすことの時間が、私たちには必要ではないでしょうか。

(長島組・淨福寺住職 二〇一五年七月上旬)

013 今

渡邉憲明

生きている、とはどういうことでしょうか。僧侶としてお寺で生活し始めて今年で四年目になりました。決してなりたくてなったとは言えませんが、今の自分があるのは様々なご縁に出遇いがあってのことだろうと思います。

本格的に日頃のお参りに出て行くようになって一年くらい過ぎた頃でしょうか。段々と門徒さんのおうちの場所や名前を覚え、お経を読むことにも慣れてきて、毎日それなりに忙しく生活しておりました。その中で、私は目の前のことをやることにばかり目がいってしまって、自分が生きているということをすっかり忘れていたように思います。なんとなく無気力に、淡々と、毎日の予定をこなしていく日々が続いていました。阿弥陀様の前に座ることや手を合わせること、また、南無阿弥陀仏と唱えることが、習慣になってしまい、何も考えずに、ただただ、なにげなくしていた日々があったように思います。

ある日、いつもどおり月参りに出かけまして、いつものように挨拶をして家にあげてもらい、仏壇に手を合わせ、門徒さんと最近の近況について少し話をして、そして「じゃあおつとめさせてもらいますね」と言って仏壇の前に座りました。そこまではいつもどおり、なんとなく当たり前のいつもどおりでした。しかし、仏壇の前で手を合わせて、少し顔をあげ、阿弥陀様の顔を見た途端、不思議な気持ちが心に起こりました。

私はそのとき、「生きていた」と、「今の瞬間まで生きていた」と思いました。はっとしました。なんとなく、当たり前のように生きていた日々が、何故だか知らないけど生かされていた日々に変わった瞬間でした。その日はお経を読み終えた後、自然に手が合わさり、南無阿弥陀仏と自然に口から出たように思います。阿弥陀様と向かい合うことは、いのちと向かい合うことではないでしょうか。この法話している私も聞いている方も、今まさに生きています。考えてみるととても不思議なことです。

(員弁組 二〇一五年七月上旬)

012 いのち

加藤 弥生

つい先日、夜遅くに電話が鳴りました。寺での生活をする上で、夜の九時を過ぎたような時間にかかる電話の場合は「どきっ」とすることが多いのですが、案の定その電話も「S子が亡くなりました」と言う内容でした。しかし私は、今回の電話をいつも以上に驚きました。なぜなら、S子さんのお元気なお姿を、ほんの数日前に拝見したばかりだったからです。

S子さんは女人講に入っておられました。ちょうど一年ほど前から、月一度集まり、お参りをして、住職の話を聞く、という定例会を始めました。その集まりに、元気に来ていただいたばかりだったのです。次回の定例会もしっかりと予定に入れてくださって、元気に帰られました。

そんなS子さんが突然、それも、女人講の集まりがあった三日後に亡くなってしまったという事で、とても驚き、ただただ茫然とするばかりでした。私はその実感がどうしても持てず「ごめんごめん、びっくりした?」と笑いながら、S子さんが次回の女人講に来てくださるような気がしてなりませんでした。

ここ数年の間に、親しい人たちや、お寺に深くかかわってくださった方たちが、次々と亡くなっていかれ、とても寂しく、人の命のはかなさや無常をしみじみと感じています。改めて、ひとはいつ死んでもおかしくない身なのだ、と実感しました。個人の感情でどうにもならないのが「いのち」です。今日か明日か、ひとが先か、自分が先か。まるでわかりません。それなのに、私はあまりにも当然のように生きています。当然ではないのです。S子さんたちが、

「亡くなる」ことでいのちのはかなさを示してくださいました。そして同時に「亡くなる」ことでご縁を作ってくださいました。「いのち」について、考え学んでいきたいと思えるご縁をありがとうございます。

 

(員弁組・教願寺【坊守・加藤弥生】二○一五年六月下半期)

011 先輩との出遇い

折戸 沙紀子

 先日、中学・高校と部活でお世話になった先輩のおばあさんが亡くなりました。その先輩は、半年前にも父親を亡くされました。

先輩とは当時、部活だけでなく、とても仲良くしていただきました。しかし、先輩が高校を卒業してからは疎遠になってしまい、先輩のお父さんの葬儀で再会しましたが、その後も会うことはなく、おばあさんの葬儀で再び再会しました。

おばあさんのお寺参りの時に、いろいろお話をしていたのですが、帰り際に先輩が、「こんな時にしか会えないって、なんかね・・・」と、言われました。

本来、僧侶の立場であれば、「おばあさんから出会う機会をいただいた」と、言うべきなのかもしれませんが、私はその時何も言えませんでした。それは、私の本当の言葉ではないし、思ってもいないことだったからです。しかし、ただただ、寂しいような、情けないような、そんな気分でした。

どこか、自然と疎遠になってしまっている人がたくさんいます。でも、今その人たちとあのころのように触れ合えるかといったらできません。私たちはいつも何かに属していて、何かに属している誰かと接しています。先輩ともあの頃、学校・部活に属していて、接していました。一対一で、人とむきあっているか、そう自分に問うたとき、先輩とやっとむきあえたような気がします。

先輩からいただいた言葉から、自分を問うことができた。そして、その機会を亡くなった、先輩のお父さん、おばあさんからいただきました。

あの時言えなかった「おばあさんから出会う機会をいただいた」という言葉は、再会を意味するだけでなく、自分自身と出遇う縁をいただいたという言葉といただくことができました。

出遇うというのは、出遇ったその日が出遇いなのではなく、出遇った日から出遇っていくものなのだと感じました。

 

(南勢一組・法受寺【候補衆徒・折戸 沙紀子】二○一五年六月上半期)