013 今

渡邉憲明

生きている、とはどういうことでしょうか。僧侶としてお寺で生活し始めて今年で四年目になりました。決してなりたくてなったとは言えませんが、今の自分があるのは様々なご縁に出遇いがあってのことだろうと思います。

本格的に日頃のお参りに出て行くようになって一年くらい過ぎた頃でしょうか。段々と門徒さんのおうちの場所や名前を覚え、お経を読むことにも慣れてきて、毎日それなりに忙しく生活しておりました。その中で、私は目の前のことをやることにばかり目がいってしまって、自分が生きているということをすっかり忘れていたように思います。なんとなく無気力に、淡々と、毎日の予定をこなしていく日々が続いていました。阿弥陀様の前に座ることや手を合わせること、また、南無阿弥陀仏と唱えることが、習慣になってしまい、何も考えずに、ただただ、なにげなくしていた日々があったように思います。

ある日、いつもどおり月参りに出かけまして、いつものように挨拶をして家にあげてもらい、仏壇に手を合わせ、門徒さんと最近の近況について少し話をして、そして「じゃあおつとめさせてもらいますね」と言って仏壇の前に座りました。そこまではいつもどおり、なんとなく当たり前のいつもどおりでした。しかし、仏壇の前で手を合わせて、少し顔をあげ、阿弥陀様の顔を見た途端、不思議な気持ちが心に起こりました。

私はそのとき、「生きていた」と、「今の瞬間まで生きていた」と思いました。はっとしました。なんとなく、当たり前のように生きていた日々が、何故だか知らないけど生かされていた日々に変わった瞬間でした。その日はお経を読み終えた後、自然に手が合わさり、南無阿弥陀仏と自然に口から出たように思います。阿弥陀様と向かい合うことは、いのちと向かい合うことではないでしょうか。この法話している私も聞いている方も、今まさに生きています。考えてみるととても不思議なことです。

(員弁組 二〇一五年七月上旬)