022言葉の力

酒井誠

もう20年ほど前になりますが、私が学生であった頃、万葉集の講座を担当してくださっていたのが上野誠先生という方でした。

今となっては、先生の講義の内容については思い出せませんし、ノートもどこにしまったのか見つけることもできません。しかし、それでも、今でも鮮明に覚えているのはその授業スタイルです。その日に取り上げる歌を先生と学生が何度も何度も声に出して詠むのです。機会があったら実際に奈良へ行って歌を口ずさんで欲しいとおっしゃっていました。上野先生の授業は、歌は声に出して歌われるものという基本を大切にする、いわば「体感する万葉集」であったと思います。

何故、20年も前のことを思い起こすのかといいますと、住職になってから、時々、「声に出される言葉」と「文字として書かれた言葉」の違いを感じるからです。

最近は新聞や雑誌を通して短歌を目にする機会が多いのですが、その中には、思わず口ずさんでみたくなるような、力を感じる歌も多数あります。その一方で、声に出して歌っているのだろうかと疑うくらい歌本来のリズム感や心地良さに乏しいものがあります。声に出すことを考えずに作った歌は、歌としての力も言葉の力も失っているのではないかと思います。

私たち真宗門徒が日頃親しんでいる言葉や歌は、親鸞聖人の『正信偈』や『和讃』です。そして蓮如上人の『御文』でしょう。それらの言葉は、たとえ意味は分からなくても、私たちの先達が長い年月声に出して詠み継ぎ、そこに何か力を感じ取ってきたものです。単に文字で表された言葉ではないのです。親鸞聖人も蓮如上人も自ら声に出しながら文章を練り上げられたに違いないと思うのです。

蓮書聖人は「仏法は、聴聞にきわまる」(真宗聖典889頁)と教えられ、また、先生方は「聞法こそ真宗の生命である」と言われています。

そこには、本当私たちが生きる上で灯となり力となるような言葉との出会いを大切にしてきた真宗門徒の姿勢が感じられます。

021迷宮入り

伊東幸典

最近感じた楽しい迷いと苦痛の迷いの話をします。

楽しい方は、旅行の企画をするため、浮き浮きした気分でパンフレットや雑誌を見ながら「どこへ行こうか」と迷ったこと。苦痛の方は、親として住職として等の責任を果たすために迷っていること。こちらはなかなか出口が見えず、連鎖してますます複雑になってきています。しかし、苦痛の迷いもいずれは時間が解決し消滅していくことでしょう。だからといって、安穏と構えておればよい訳はなく、迷いながら方向性を求めなければなりません。

さて、「迷う」という漢字の「米」は、四方八方を表し、「道が四方八方に伸びて迷う」というのがこの漢字の成り立ちだという説があります。四方とは東・西・南・北、八方とは北西・北東・南東・南西を加えた方位のことで、これで全ての方向という意味になります。

これと同じような意味の語が『仏説阿弥陀経』の中に出てきます。「六方」という語で、四方に上と下を加えた六つの方位で、全ての世界を表しています。平面的な四方に立体的な上下が加わると、四方八方に伸びた道のあちこちに無数の上下の階段が伸びて、ますます世界が広がっていくような気がしませんか。

最後にもう一つ、いつ頃から始まったのかよく分からない迷いが私にはあります。それは「仏法を聞く」ということです。仏法を学ぶと、私の傲慢さが次々に言い当てられ、逃げ出したくなります。それなのに「なぜ仏法を学んでいるのだろう」「何を求めて聞いているのだろう」と。この迷いは、仏法を学ぶことができなくなるまで続く迷いだと思っています。

020ハンセン病問題について

鈴木勘吾

ハンセン病についてお話させていただきます。

ハンセン病は感染症の一種ですが、人から人にうつることは極めてまれで、生命に関わることもほとんど無く、抗菌剤治療で完治する、隔離を必要としない病気です。また、国内では明治以降、国の経済状態の発展に伴い、新たに発病する人は自然に減少し続け、最近は新しい患者はほとんど見られず、ハンセン病回復者の方々は、既に完治しています。昔は「らい」「らい病」と呼ばれていましたが、「らい」という病名には古くから忌まわしいイメージがあり、1996年、偏見を是正する目的で、「ライ菌」発見者の名前を付け、「ハンセン(氏)病」に変更されました。

ここで私たちが気をつけなければならないのは、ハンセン病は特別視される病気ではないことです。ハンセン病のみならず、どのような病気も障害も、その条件さえ合えば、誰でも発病するのです。何も特別なことはありません。恐ろしいのは、発病することではなく、国による隔離政策です。

日本におけるハンセン病隔離政策は、病状や年齢に関わらず、生涯隔離することで、患者そのものの絶滅を目的としました。発症した人だけでなく、疑わしいとされた人まで療養所に収容し、入所者の外出を厳しく制限し、また病気が治っても退所して社会で暮らすことを認めませんでした。明治期、日本国は「文明国」の仲間入りを目指す中で、野外生活を営むハンセン病患者を「国辱」として認識し、欧米人の目に触れないように、療養所に隔離しようとしたのがその発端です。

昭和初期、戦時体制に向かう中、国民は兵隊=戦力として位置づけられ、四肢や外貌に後遺症を遺すハンセン病は「国益に反する」とされ、その結果、「民族浄化」というスローガンが掲げられ、野外生活者のみならず、在宅患者をも隔離収容する政策がとられました。その「無癩県運動」は、警察や保健行政機関、さらには教育現場、地域住民が官民一体となって、ハンセン病患者の発見、通報、収容促進の役割を担うものでした。その過程で、ハンセン病に対して「恐ろしい伝染病」という誤った認識が社会の隅々まで植えつけられ、法律により強制隔離をされる病として恐怖の対象になりました。そして、地域社会、市民のハンセン病に対する偏見差別が定着し、患者本人だけではなく、その家族も地域から排除、差別されるようになってしまったのです。

私たち真宗大谷派は療養所入所者に対して「慰安教化」を行い、隔離政策を正しいことと推し進め、ハンセン病患者を「哀れな人」「救済される人」として、その自主性や主体性を理解せず、隔離生活を送ることが、むしろ当事者にとって幸せだ、という誤った認識を植えつけてきました。

今、私たちに望まれていることは、ハンセン病の問題の解決を裁判やその後の法律で終わらせることではなく、具体的な一人一人との出会いの中で、その被害を回復していくことだと思います。そして、最後の一人になる時が来ても、安心して暮らすことができる社会の実現を目指さなければなりません。

どうか、無関心の壁を破って、ハンセン病回復の方と共に出会える機会を持ちましょう。

019ポックリと死にたい

加藤淳

今年の4月、あるご門徒さんが1年2ヶ月もの間意識が戻ることがないまま亡くなられました。家族の方からは、面会に行っても何も反応がないので張り合いがない、という言葉を聞いてはおりました。

葬儀が終わり5日後に家族と親戚が寄って、お墓に納骨されたようです。ところが、納骨が終わった夕方に、先程まで元気でおられた奥さんが突然体調を崩されて亡くなられたという知らせを受けました。ご主人さんが亡くなられてちょうど1週間しかたっていませんでしたので、家族の方もお母さんが亡くなったことを引き受けることができない様子でした。

その奥さんのお通夜の席で、「先週のご主人さんに続き、今日はお母さんのお通夜です。一週間で二人と別れるということはとても寂しいことです。お二人の亡くなり方は両極端ですが、お二人から、寝込んで死ぬかもしれないし、ポックリ逝くのか分からないのが皆さんたちの人生です、とメッセージをされているのではないでしょうか」とお話をしました。

そのお通夜が終わった後、知り合いからポツリと聞いた感想は、「できたら私も奥さんのようにポックリと死にたい」でした。その言葉は、いつか私たちも身体の調子が悪くなるということを知っているから発せられる言葉なのでしょう。けれども、ポックリと逝くための今を生きているとするならば、なんだか寂しい感じがします。

私たちはついつい、健康と病気、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、長いか短いかと、心のものさしで計ってしまいます。良いことはご縁として受け止めますが、病気になったり怪我をしたり、悩んだりした時は、これは本当の私の人生ではないと、現実を受け止めることができません。

しかし、身近な人を縁としてお通夜や葬儀が勤められることの意味は、「あなた方もやがて老いて、病んで、死んでいくということを自分の問題としてどう受け止めますか」という、亡き方からの声なき声を聞いていくことだと思います。

たとえ病気になって寝込んでしまっても、私たちは生きていかなくてはなりません。念仏していくということは、そのことを引き受けて生きる勇気をいただくことではないでしょうか。

018仏さんって

大賀光範

「死んだら仏さん」と言いますが、その「仏さん」って一体どういうものなのでしょうか。

ある中陰の法事で、そのことを通して問題提起をさせていただきました。お話を終えてお茶をいただいている時に、ご親戚の一人が「あの人は仏さんみたいな人や、とよく言うけど、その仏さんみたいな人って一体どういう人やろうか」と尋ねられました。大切にお話を聞いてくださったことを喜びながら「一体どういう人でしょうかねぇ、お宅はどう考えられますか」と、一緒に考えていけるように問い返させていただきました。

その方はしばらく考え、一緒にお参りされている方に「あんたはどう思うや」と聞き始められました。それだけで終わらず、お茶を運んでみえた喪主の連れ合いにも「どう思うか」と問いかけ、座談会を始め司会者となって、一緒に考える場を作り上げてしまわれました。ちょうど、北陸で法座の後に行われていたという「ごじだん」は、このようにして始まったのではないでしょうか。

しばらく問いかけ考えているうちに、その方は「無責任なことやなぁ」と、また突然言われました。直ぐに結びつかなかったので「一体何が無責任なんですか」とお尋ねしたら、「仏さんにはまだ一度も出遇っておらんのに、仏さんみたいな人やということ自体、無責任やと思ったんや」と答えてくださいました。

確かに、私たちは、仏像としての仏さまには対面させていただいていますが、お釈迦さまに直接出遇ったことはありませんし、「この人が仏さまです」と紹介されたこともありません。勝手に「仏さん」のイメージを作り上げ、たまたま近くにいる人のイメージが「仏さん」のイメージに合う時に、「あの人は仏さんのような人や」と言っているのに過ぎないのではないでしょうか。本当の仏さまに出遇っても、自分のイメージと違う相(すがた)であれば、仏さまと認めることができないかもしれません。もしかしたら、今までにたくさんの仏さまに出遇っていたかもしれませんが、仏さまを仏さまと気づかないまま、すれ違っているのかもしれません。

「無責任やなぁ」という言葉は、自分勝手に仏さんを考え、自分の都合をよくするために仏さんを利用している私の姿を、間違いなく言い当ててくださった言葉ではないでしょうか。

017テレビのこわさ

木名瀬勝

私がテレビを見なくなったいくつかの理由の一つについて考えてみた。

古き時代ある王国の貴族が、世界中の珍味を使った手の込んだ料理ももはや食べ飽きて、そっけない食事の時間をどう楽しくしようかと困っていた。そこで、大きな屋敷のテラスに面した庭園に、不幸に見舞われた貧しい民を登場させ、人生の苦悩を語らせた。そこでは、家を焼かれた老人や、子どもを奪われた母親や、進行する病気にうずくまる者のすすり泣きとうめき声が流れ、それに心を痛めつつ、わが身の境遇の幸せと食事を与えられたことに感謝するのだった。

しかし、しばらくして、この世のあらゆる不幸の声に飽きてしまうと、今度は肌の色の違う男たちを戦わせた。長い剣と楯を使って、肉を切らせ骨を削らせる、血で赤く染まる現実は、再び食事を喜びの時間に変えた。

それを聞きつけた貴族たちは、こぞって人間の苦悩を味わおうと、女性や子どもも引きずり出して、彼らが傷つけ合う姿を眺めつつ、メインディッシュの肉をほおばり、五感を楽しませるのだった。但し、恐怖によって吹き出される汗の臭いは、ワインの香りを損なうので、テラスと庭をガラスで仕切る工夫がなされた。

時代は変わり、一部の特権階級のものだったこのような娯楽は、世界中の人々が享受できるようになった。少なくとも電気が通っているくらいの豊かささえあれば、それはテレビと言われる。

さて、それはいつもの朝の食事の時、私はご飯をもごもごと噛みながら、テレビを見つめていた。悲惨なニュースだ。イラクのモスクで爆発があり、子どもが多数死傷した。パトカーの追跡を受けた盗難車が信号待ちの集団に突っ込んだ。原因不明の院内感染で体力のない入院患者が多数死亡している。母親を殺し、放火した青年の上告が棄却され、死刑が確定したと伝えている。

ご飯は白く、味噌汁は温かい。好物のめざしは新鮮で美味しい。そして目の前では、世界中の不幸が次々と繰り広げられる。

しかし、それらの現実は私の食欲を全く減退させることはない。神経質すぎるとみなさんはお思いだろうか。闇は人間の心の底に潜んでいるものではない。この当たり前の生活そのものが闇となって、人間であることを失わせている。私の知識では決して疑うことのできない日常を「変だ」と感じさせる光、そこに真宗の生活があるのではなかろうか。

016心地よい歌

五瀬勝明

先日、お参りを終えて寺に戻り、境内の中に入った途端、小さな声が聞こえました。それは「チューリップの歌」でした。

「咲いた 咲いた チューリップの花が 並んだ 並んだ 赤 白 黄色 どの花見ても 綺麗だな」と、心地よい歌声でした。よく見ると2歳の長女でした。最近、ようやく全部の歌詞を覚え、毎日毎日、鼻歌のように歌っています。花を見、肩を右左しながら歌う姿はとても懐かしく心地よく、自分自身も一緒に口ずさみました。その日は一日中2人で歌い続けました。

最近は、忙しさの中で、心地よさなどということを感じる機会などありませんでした。でも、この日は、耳から心地よさを感じました。目の前に咲いている花さえも気づかずに日々生活している中で、花を見て感動し、歌を聞いて感動する、ありのままの事実を受け入れていくことの大事さを思い出させてもらいました。

『仏説阿弥陀経』の中に「青色青光(しょうしきしょうこう)黄色黄光(おうしきおうこう)赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)白色白光(びゃくしきびゃっこう)」と出てきます。一つ一つの花が光を放ち、青い色は青く、黄色い色は黄色く、赤い色は赤く、白い色は白く、それぞれの色に光を放ち、光り輝いている、と。これは、自分たち自身が既にいろいろな色を持っていて、その輝きは私たちの本来生まれた姿でもあり、輝きの中に生きる喜びの姿がある、と言ってもいいのではないでしょうか。

しかし、私たちは、学歴だとか地位とかを求め、それだけが輝きであると、生きるための条件であると、勘違いして生活しています。だから、努力して他の人よりも優れたものを手に入れようとするのです。身につけた価値観だけではなく、自分の思いまでもが常識であると思い込んでいるのです。現代社会の中で他人との比較に終始していたのでは、結局、光り輝くことができないでしょう。

長女の歌から、比較ではなく、互いに輝きを認め合えることのできる世界があることを思い出させてもらいました。

015親鸞聖人に教えを聞く

荒木智哉

昨年から、京都で2ヶ月に一度「『教行信証』に聞く」というテーマのもと、講師に梶原敬一先生を迎えての聞法会に参加しています。

私にとって内容はたいへん難しいのですが、先生が話される言葉一つ一つに込められた力と重みを感じています。それは、まるで先生が『教行信証』を通して親鸞聖人と対話をしているように私には映りました。

このような体験は私にとって初めてのものでした。先生は一回目の講義の時に、「なぜ親鸞聖人の教えを聞くのか」という問いに対して、「問題は親鸞の思想で現代が救えるかどうかでしょう。救えるというためには、親鸞の言葉によって現代という時代と社会をきちんと押さえることができるかどうかということを確かめ直されなければならない」と、はっきりとこう言われました。この言葉は、それまでの私の学び方が根本から覆された瞬間でした。

私の今までの真宗の学びは、学校で授業を受けているような知識の蓄積でしかなかったように思います。読んだり、聞いたりする言葉を自分の中で、「役に立つ・立たない」「分かる・分からない」と自分の都合で選り好みをしていたことに気づかされました。

先生は講義の中で『教行信証』を読んでいく時は、一言一句を丁寧に見ていかなくてはならないということを何度も言われます。親鸞聖人が何を思い、考え、『教行信証』の中に表現されたのかということです。言葉には相手が私に伝えたい思いや願いが必ず込められています。だからこそ、言葉の使い方の一つ一つの意味にまで注視しなければならないのです。

このようなことから、一番大切なことは相手(聖人)のことを知りたいという私の思いであり、そこに込められた願いによって人と人は繋がっていき、その繋がりは時間を超えて響く言葉となり、今を生きる私に真に生きる言葉となるのではないか、ということを感じました。

014地球が優しい

梅田良惠

平成23年3月11日、地震、津波により東北地方を中心に未曽有の被害を受けました。

先日あるラジオ番組で遺伝子を研究している学者が震災に関連して「微生物も鳥も植物もすべての生物は共通に遺伝子の暗号を持っており、生き物は全部つながっている。私たちが生きているこの地球は人間様だけの地球ではない」と言われました。私は「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉を思い浮かべました。

「草、木が悉く仏と成っていく」とはどういうことでしょうか。成仏というのは、人間だけが仏と成るのではないのです。人間や人間以外の動物、いや草や木などを含めた自然環境そのものが仏と成っていくことを意味しているのでしょう。逆に言えば、草や木が成仏しなければ人間も成仏することができないということです。

多くの企業が自分たちは「地球に優しい」企業だと言います。世間では「エコ」を合言葉にして自然に優しい生活をしているつもりになっています。しかし、人間が文明生活をすることそのものが自然環境から見れば傲慢であるということです。

今、福島の原発では放射能で汚染された水を海に垂れ流しています。人間は、海という自然があるおかげで、危機を回避できているのです。人間が地球に優しいのではありません。「地球が人間に優しい」のです。

海といえば、親鸞聖人が書かれた「正信偈」に5回、「海」という文字が使われています。親鸞は海を、時に如来の本願力の大きさとして表し、時に人間の娑婆世界の苦しみの深さとして表しておられます。

原発の事故は天災ではありません。原発は危険なものであると知りつつ、絶対事故は起きない安全なものだと自分自身を欺いて、その恩恵に浴してきた報いです。東京に原発がないのがその証拠でしょう。危険なものは近くに置きたくないのです。

今、私たちは娑婆の現実と向き合うことが必要です。現実と向かい合った時、初めて私たちは本願海に生かされていることに気づくのではないでしょうか。

013〈いのち〉のゆくえ

伊東恵深

今から1ヶ月ほど前のことですが、半日かけて人間ドックに行ってきました。普段、お寺で生活していますと、定期的に健康診断を受ける機会がありません。ですので、約5年ぶりに本格的な健診を受けに出かけました。

一つの検査を終え、次の検査を待っている間、私は3月11日の大震災以降、心にずっと残っている言葉の意味について考えていました。それは、被災されて母親の行方が分からないある女性が発した「どんな形でもいいから、母に生きていて欲しい。いのちって本当に一つしかないんだな」という言葉です。

普段、私たちは「いのちは一つである」ということを改めて深く考えたり意識したりすることは、あまりないように思います。しかし、文字通り生死を分かつ体験をされた方の言葉だからこそ、深い頷きをもって私に問いかけてくるのでしょう。自分に与えられた〈いのち〉はたった一つだからこそ、かけがえのない大切なものなのです。

では、そもそも〈いのち〉とはいったい何でしょうか。

私のように人間ドックに行って、悪い箇所があれば治療しようとするのも〈いのち〉です。しかし、病気や事故、災害などによって、あっという間に失われてしまうのも〈いのち〉です。あるいは、年間3万人以上の人々が、自ら選んで投げ出していくのも、また同じ〈いのち〉なのです。

私たちは必ず死する〈いのち〉を“今”生きています。つまり、私が今ここに存在するということは、自分の思いを超えた不思議なご縁によって生かされているということにほかなりません。では私が、その大切な〈いのち〉を必死に守って、いったいどこに向かおうとしているのでしょうか。かけがえのない〈いのち〉を現在いただいて、いったい何をしようとしているのでしょうか。

先ほどの女性の言葉は「たった一つのいのち、一度限りの人生をどのように生きるのか」という重い課題を私に問いかけてやみません。