012 人生の地図

伊東 紹子

私は愛知県一宮市のお寺に生まれ、社会に出て働いたのち、松阪市のお寺に嫁ぐご縁をいただきました。要領も飲み込みも悪い私は、新たな役割や環境にすぐに適応できないことが多く、何かに追われるように毎日を気ぜわしく過ごしていました。

いつものようにお寺のなかを走り回っていたある日、花を活けた花器の水面が目に入り、ハッとさせられました。何かに追われるようにバタバタしていた私の心は、その静かな水面とまったく異なり、大きく波立っていました。そして、私の心を波立たせていたのは、仕事をこなすことにより得られる結果や、他人から評価を得ようとする自分の欲望であることに改めて気づかされました。人は亡くなれば、欲望を満たせられなくなります。しかし、生きている間は様々な欲望と現実との葛藤で、なぜ大きく揺れ動いてしまうのでしょうか。いずれ手放さなければならない欲望に対して、私たちはどのように向き合えばいいのでしょうか。

道に迷ったとき、私たちは地図を頼りにしますが、お釈迦さまは、生き方に困ったときに頼れる人生の地図を教えてくださいました。でも忙しくなると、つい地図の存在を忘れてしまいます。花器の水面の静けさを通して、偶然にも私は当時の自分の状況を客観的に見つめることができましたが、仏さまの前での勤行、お念仏をしていても、なかなか気づけないことがあります。どのようにして、人生の地図の存在を思い出したらいいのでしょうか。

以前、「真宗の教えは答えを出すのではなく、問い続けること」と教わりました。生きていると、親しい人との別れ、病気など、いろいろな苦しみに襲われ、なぜ生きなければならないのかと立ち止まってしまうことがあります。そんな時は、聞法を通して触れることができる、お釈迦さまが遺してくださった人生の地図を片手に、こっちかな?あっちかな?と問いながら、身構えることなく気軽に歩むことで、目の前の苦しみがまた違った意味を持ちはじめるのではないかと思います。

(二〇一八年六月下旬 南勢一組・西弘寺坊守)

011 「心配」から「応援」へ

中川 和子

近年、墓終いやお内仏の縮小化などが増え、終活が話題になっています。これは人ごとではなく、自分自身や自分の家族のことを考えると我がごととして重大な心配事です。多くの方がよく言われることは「子どもや孫たちに迷惑をかけたくない」「子どもたちにちゃんと始末していってくれと言われる」などです。私は、現在四十代ですが両親や祖父母もみんな亡くなり、何年も遺品整理をしています。一人娘ということもあり、お墓やお内仏のお華立て、年忌法要なども一人でやりくりしています。大変といえば大変なことなので、私自身も自分の子どもたちに同じことをさせるのが心苦しく、自分の荷物整理も考えてしまうというのが本音です。

中日新聞のくらし欄の「障害者は四つ葉のクローバー」というコーナーに記事を書いておられる伊是名夏子さんという方がいらっしゃいます。車いす生活で骨の折れやすい障害をもつ彼女が、進学時には自分の両親や周囲の人たちに心配や反対をされ、結婚や出産時には夫の両親や周りの親戚から「大変よ」「無理よ」と心配と猛反対をされたといいます。心配してくれる気持ちは有難いことなのですが、心配をされる本人はとても悲しくてつらい思いをしたということでした。親が子どもを心配するのは至極あたりまえのことです。それはそのとおりなのですが、実際は、心配だけでなく「話しを聞いて、助けてくれる」ことや応援が力になったとお話されていました。時には私たちの心配が、反って他者を生きづらくさせていることもあるのかもしれません。

社会学者の岡野八代さんは、人は本来「依存的存在」であることを「原初の依存」と表現されています。人に迷惑をかけること、家族のお世話になることは、既に私たちの存在自体に内在していることなのでしょう。しかし、現実に私たちが生活している中では、一般的に障害者や高齢者、子どもなどケアが必要な人を社会に参入させてあげるという構造が透けてみえます。それは、「原初の依存」を忘却した上にのみ成り立つことだと岡野さんはおっしゃっています。私たちは誰もが依存的存在です。常に「助ける」自分に執着してしまいますが、「助け合い」が大事なことだと伊是名さんは言われています。人と人の関係は、上も下も、一方的なものでもなく、本来、たいらなものなのでしょう。

親鸞聖人は仏さんは私たち全てを包摂して救う、摂取不捨のハタラキと教えてくださっています。そのハタラキに中々おまかせできない私たちなのですが、「如来の本願力に乗托すれば」自然なこととして「助けられる私」を認め、あるがままの他者を認めて応援できる世界がひらかれてくるように思うのです。

(二〇一八年六月上旬 三重組・常願寺住職)

010 五色椿

松井 茂樹

私のお寺の庭先に樹齢約四〇〇年程の五色椿という一本の木で五つの色の花を咲かせる非常に珍しい椿の木があります。ここ数年は毎年新聞やTV等で紹介され、今年は開花している時期にのべ一六〇〇人程の見物客の方がいらっしゃいました。この椿の木はお寺が開山された頃に植樹されたと思われる樹木ですが、大変珍しいという事が判明したのはこの数年前の事で、それまでは変わった椿である事は知っていたのですが、皆が見に来る程珍しい樹木である事には気づきませんでした。

私も幼少の頃よりその椿の木は毎日見ていましたが、その木が珍しい樹木である事も知らず、庭を整地する機会があれば切り倒して駐車場等にすれば良いのではないかと考えていました。ところが、珍しい樹木である事が判ると急に大切な木となり、枯れたら困るとか、この木がお寺の活性化の材料になれば良いなと考えるようになりました。

私の思い以上に今ではこの五色椿の見物に来られる方々も増え、お寺の活性化としては非常に有難く、椿の咲く時期を心待ちにされる方々が多くいらっしゃる事がとても有難い事と思うのですが、その一方でもしこの椿が珍しい樹木である事が分らなかったら、きっと普通の境内の中の樹木の一本としか考えず、ともすれば伐採していたかもしれません。

私達は常日頃、「大切なもの」に囲まれて生活しています。それは人であったり物であったりお金であったりと人それぞれですが、「大切なもの」を本当に「大切なもの」として認識し、心配りをされる方は少ないと思います。むしろ、身の回りにある「大切なもの」を「当たり前のもの」と認識されている方が私を含めほとんどではないでしょうか。

この自分のことばかり考える私たちはまさに「煩悩具足の凡夫」であります。この「煩悩具足の凡夫」である事に気づき、毎日が「大切なもの」に囲まれて生活している事に、感謝する心を忘れずに生活していきたいと思います。

(二〇一八年五月下旬 中勢2組・淨得寺住職)

009 「七年目の勿忘の鐘」に寄せて

本多 益

今年も二〇一一年の東日本大震災から七年目の三月十一日に、自坊ではご門徒さんや地域の方たちと、午後二時四十六分から「勿忘の鐘」撞きを行いました。みなさんと「震災を忘れない」を合言葉にして三年目の取り組みとなりました。

私が東北とのご縁をいただいたのは、震災後の友人とのボランティア活動でした。その頃は住職と教員を兼業していたこともあって、八月のお盆が終わってからの夏休みを利用し、向かった先は岩手県釜石市でした。震災から五ヶ月目ではありましたが、釜石市の現状は、マスコミ報道ではわからなかった衝撃の景色がそこにはありました。全国から集まった方たちと夕方まで悪臭に襲われながらも必死に瓦礫の撤去作業などをしたことを今でも思い出します。

翌年からは陸前高田市の真宗大谷派本稱寺さまの被災状況が報道されるようになり、自分の目で確かめるために、陸前高田市へのボランティア活動を始めることにしました。

本稱寺さまは、陸前高田市に津波が襲来したときに、本堂などを含め壊滅的に被災され、お身内の方を何人も亡くされました。本堂跡近くの空き地にプレハブの仮本堂を設置し、釣鐘は奇跡的に発見され、被災した鐘楼としてご門徒さまと共に、復興を目指してこられました。ご住職の「東日本大震災を忘れない、亡くなっていかれた方々や復興を目指している人たちを忘れない、細々とでも真宗の教えを繋いでいくことを忘れない」という強い志が「勿忘の鐘」には込められているように思えました。

人間の記憶は、時間の経過と共に薄れていくものです。亡くなっていかれた方を偲ばせていただき、ご法事やご祥月命日としてお参りすることも、仏様の前で素直な気持ちで手を合わせることも、世代が変わりゆく中では更に曖昧になっていくことは必至なのです。そのことを、ご住職は東日本大震災と重ね合わせて「忘れること勿れ」として「勿忘の鐘」を撞きはじめられたのだと思いました。

毎年、自坊の「勿忘の鐘」に参加される方が、「ごえんさん、今年も忘れやんとお参りにきましたわ」「先祖のことも仏さんのことも忘れたらあきませんわな」と言われていたことが思い出されます。各地で被災されたみなさまの復興を願って、今年も八月のお盆明けに東北に向かいます。

合掌

(二〇一八年五月上旬 三講組・光明寺住職)

008 香りと香害

中川 達昭

今回は「香り(におい)」について考えてみたいと思います。

季節もようやく進み、草花からさまざまな香りが漂ってくるようになりました。花の匂いから季節の移り変わりを感じられる方も多いでしょう。

さて、私たちはお寺でも家でも同じように、お勤めをする際にはお香や線香を使って香りを焚きます。どうして香りを焚くのでしょうか。

「香り」は華(花)とともに、仏に対する敬いのこころを、香こうや華(花)を捧げることであらわしています。また経典には浄土のありさまの一つとして「清らかで何とも言えない香り」がしていると説かれています。ですから仏壇には華(花)を立て、香を焚きます。香りをもって仏を荘厳し、浄土を、そして仏を憶念するのです。

ところで皆さんは「香害」という言葉をご存知でしょうか。私もインターネット記事を読んで初めてこの言葉を知りました。香水、洗剤、柔軟剤、芳香剤などが発する強い香りによって、頭痛、めまい、吐き気などの症状があらわれ、ひどい方は学校や職場にも行けず日常生活に大きな影響がでているのだそうです。

確かに現代は「良い香り」に満ち溢れています。テレビのコマーシャルでも「なになに臭」と言って、そのにおいが悪いことのように強調され、良い香りを謳い文句にした商品が紹介されています。最近はだいたいどこの家でもトイレには必ずと言っていいほど消臭剤や芳香剤がおいてありますし、かくいう我が家もそうです。

誰でも悪臭は嫌でしょう。しかし香害は、悪臭ではなく、私たちが“良い香り”とおもっているものが問題になっています。この点を私たちは考えないといけないのではないでしょうか。どうして「良い香り」がしないといけないのでしょうか?「良い香り」がしないものはダメなのでしょうか?「良い香り」とはいったいだれが決めるのでしょうか?いったいだれが「良い香り」を求めているのでしょうか?

そのようなことを考えるとき、香害だけではなく、すべての社会問題の根幹に通ずるものがあるように思えてなりません。香りを峻別する人は、必ず人間も峻別します。「良い香り」と「悪い香り」、「良い人間」と「悪い人間」、その両極端の価値観しかない世界に、いつの間にか我々は進んでしまっていないでしょうか。古来より人類は香りを生活の中に取り入れてきました。しかし「良い香り」を追い求めた結果、香害に苦しむ人を生み出してしまったという現実が横たわっています。

教えとは「良い香り」と「悪い香り」を峻別するものでありません。香りという縁をとおして我が身のありようを照らし、本願に目覚めさせていくものを教えといいます。そしてそのはたらきを本願力回向(=仏)といいます。

最後に香害で苦しんでいらっしゃる方々に心からお見舞い申し上げます。

(二〇一八年四月下旬 長島組・寶林寺衆徒)

007 出遇い

高科えりか

一九八四年、私は父の仕事でブラジルへ行きました。当時私は教育学部を出て、大阪の商社に就職していたのですが、外国に行きたくて決心しました。ブラジルは明るくて楽しい国で、友達もすぐに大勢できました。農場や教育関係の仕事をしながら、大学にもまた通って充実した日々を過ごしていました。

しかしある年のクリスマス、私はサンパウロ市内で目の前で銀行強盗に人が殺されたのを目撃してしまったのです。大変なショックでした。

この事件のために、私の心に大きな変化がおきました。世界が人間社会の真実のすがたを、私に見せつけたのです。残酷な暴力が生まれる無法社会と、無力な自分を心底実感したのに、これから一体何をすればいいのか分からないままでした。

そして一九八六年にサンパウロ市で東本願寺世界同朋大会が開催され、私はそこで能明院 大谷暢慶先生に出遇いました。ここから私たち家族がブラジルの大谷派サンガの中で、お育てに預かってゆくご縁が始まったのでした。

そして今、世界の潮流は経済第一主義の波となり、時代を押し流しています。その大きな渦の中、私の周囲にも病気や事故により、道半ばで亡くなっていった友人たちがいます。また日本では毎年三万人近い人が自ら命を絶っています。戦争をしていないのに、こんな国がどこにあるのでしょうか。この流れをなんとか止めようと一所懸命に活動している方々が、私の周囲には大勢おられます。

ただ一度の人生を、本当に生きたいと願っている人に、私たちがいつもお伝えする言葉があります。

貴方は今、誰かを助けていますか。

助けたいと思っていますか。

人生は予測できないことが次々と起こります。時に耐え難い困難がきたとしても、人はそれを乗り越えていける存在なのです。その力の源は、誰かが誰かと支え合っているという実感です。苦しむ人や孤独な人が、最後まで本当に求めているのは、この温かい気持ちなのです。

ブラジルという広大な地で、日本仏教の真髄を具現されていた大谷暢慶先生。そしてブラジル別院のサンガの方々に私は教えられ、助けられてきました。今もこれからも、私の道をずっと照らしつづけて下さっています。

ありがとうございます。

(二〇一八年四月上旬 長島組・仁了寺坊守)

006 君信ず、故に我信ず

三枝 明史

看護大学で教えるお医者さんが二人の学生に次のようなレポートを書かせました。「手術への不安に怯える患者に『絶対大丈夫』と言ってあげるべきかどうか」。

学生Aさんは、世の中には「絶対」はないから言えば嘘になるし、言って失敗した時のショックは大きい。また、「絶対」という言葉を使わなくても患者に勇気を与えることはできるはず、と論理的にまとめました。

一方、Bさんは、かつて具合が悪くなった時に、医者から「絶対大丈夫」と言われて心底嬉しかった体験から、「絶対」ということがないことは分かっているけれども、あえてそう言ってほしい、と実感に基づいてレポートをまとめたそうです。

皆さんはどちらの意見に与しますか。やはり、テレビドラマの『ドクターX』みたいに「私、失敗しないので」と言われたいですか。

手術のリスクをまともに伝えずに「絶対大丈夫」と言うことと、リスクを伝えてその恐怖に震える患者を生んでしまうこと。その間に正解を求めることができるのか。これは最終的には「信頼(信じるということ)」とは何かという問題に突き当たる、とそのお医者さんは指摘しています。

※里見清一「医の中の蛙」二十八(『週刊新潮』二〇一八年二月八日号より)

昨年、母が手術を受けた際、私たちはその前々日に主治医に呼ばれました。先生はCGを使って、術部と術式と考えられるリスクとその対策について、それは懇切丁寧に説明されました。私は、先生の手術に関する論理的な説明よりもその人柄に信頼感を持ち、「母の担当がこの先生でよかった」と強く感じました。

そうなのです。私たちは論理的な根拠に基づいて対象を信頼していると考えていますが、実はそれは真逆で、先に信頼が生じてから、後から根拠が付いてきているのです。日常生活のどんな些細なことでも、「信じる」という作用はこのような構造を持っていることが多いようです。

親鸞聖人はこのことをよくお分かりになっていたのではないでしょうか。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

(『真宗聖典』六二七頁)

と言われています。

念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

(『真宗聖典』六二七頁)

というお言葉も残されています。

ここに、信頼の究極的なありようは自己のすべてを信じることに投げ出し任せることであることが宣言されています。その時、根拠も論理もリスクも結果も無用となります。そして、そこにこそ救いがあるのではないでしょうか。

彼岸から、

汝(なんじ)一心に正念にして直ちに来きたれ、我よく汝を護らん

(『真宗聖典』二二〇頁)

と喚(よ)ぶ阿弥陀の声と、こちらの世界で、

仁者(きみ)ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ねて行け

(『真宗聖典』二二〇頁)

と勧める釈尊の声に、我が身を投げ出す。その決定こそが信心であり救いであると善導大師は教えています。

お彼岸のこの時期にこそ、私たち人間の身に賜る「信じる」という感覚の不思議さを改めて味わいたいものですね。

(二〇一八年三月下旬 桑名組・空念寺住職)

 

005 志摩にきて

落合 りえ

私は一昨年の八月、志摩市の源慶寺に嫁いできました。そこはサーフィンの大会がよく行われる、きれいな国府白浜近くのお寺です。

お寺に訪ねてこられる近所のおじいちゃん、おばあちゃんたちはとても優しく話しかけて下さいます。「あんた、こんな田舎によう来てくれたなあ」と声をかけられると、「海がすぐ近くにあっていいところですね」と応え、あいさつをします。

ご門徒さんの中には漁師さんや趣味で釣りをされる方もいます。時々釣った魚やなまこをいただくこともあります。ですが、私はなまこが食べられないだけでなく触れないですし、魚も触れません。ご門徒さんは調理ができるものと思って下さるのでしょうが、「ハマチが釣れたからどうぞ」「なまこがいっぱいとれたよ」と生きた魚を持ってきて下さいます。最初はびっくりしましたが、断るのは申し訳ないと思い、お義母さんにお願いして調理してもらっていました。新鮮なお魚をいただいても毎回お義母さんに調理をお願いするのも申し訳ないと思い、次第にお断りするようになりました。

気を悪くされないようにお魚を受け取るのか、どうにもできないからお断りするのか、どちらがいいのだろうと考えました。

小さな村だから皆さんと仲良くしたいですし、なるべくならご門徒さんと気まずい関係になるのは避けたいです。たくさんお魚を持って来て下さると、気にかけていただき、とても有り難いのですが、魚など活きているものは本当に困ります。

志摩に来る前、一人暮らしをしていたのですが、お隣さんやご近所の方とは、あいさつや会話をする程度の関係でした。ましてや食べ物や生ものをいただいたり、差し上げたりすることもなく困ることもありませんでした。

志摩に来てお寺に身を寄せて、ご門徒さんと接しながら生活していると、自分の思いだけではどうにもならないことがよくあり、そこから「共に生きる」と言うことの意味が問われているのだと感じています。

(二〇一八年三月上旬 南勢一組・源慶寺坊守)

004 別離がひらく「更なる出会い」

尾畑 潤子

毎年、友人たちと岡山県にあるハンセン病療養所「長島愛生園」を訪れるようになって二十五年になりました。その訪問を通して、深くご縁をいただいてきたお一人に三重県出身の田端明さんがいます。田端さんは、強制隔離の法である「らい予防法」によって、戦争の最中、一九四〇年に二十一歳で「長島愛生園」に入所しています。それから七十七年の日々を短歌、俳句、詩など、折々に紡いできた言葉の数々を『石蕗の花』シリーズとして発表し、私も出版のお手伝いをさせてもらってきました。

田端さんの作品には、ハンセン病とわかった時の無念の涙、断ち切られる思いで故郷を後にした離別の涙。入所して五年、一夜にして視力を失った絶望の涙。やがて『歎異抄』との出会いによって、死から生を見つめていく人生に変わっていった歓喜の涙。涙を軸として田端さんの歩みが綴られています。そして、次のように詠っています。

舌読の点字経典血に染めて わが人生の未来を探る

(『ハンセン病の苦悩と信心』田端明著)

病気の後遺症によって指先の感覚がなくなって、舌で点字の経本を読み続けてきた日々。教えとの出会いから、田端さんは生涯のご用として「ハンセン病を正しく理解していただくために一分でも一秒でも長生きしたい」と。その言葉そのままに、各地での講演や多くの作品を通して、私たちにハンセン病に対する正しい認識と理解を語り続けてきました。

その願いを、私はどう受け止めてきただろうか?そう問い返されたのは、東本願寺発行『同朋』(二〇一七年二月号)誌の、歌人永田淳さんの言葉です。

俳句や短歌は自分だけで完結するのではなく他者と出会う場で初めて成立する「座」の文芸だと。その言葉に私は大きな衝撃を受けました。「長島愛生園」に入所を余儀なくされた田端さんのうたは、「らい予防法」廃止から二十二年、今なお、正しく理解されているとは言い難い私たちの社会のありようを問い、閉ざされたから、なお、開かれていきたい・・他者と共に開かれ続けていきたいという田端さんの「呼びかけ」がうたになっていたのです。

昨年十二月四日、田端さんは九十八歳の命を終えました。

「まだまだこれからですね」

笑顔でそう言った田端さん。別離からの更なる出会いが、今ここに開かれている。あらためてそう思う日々です。

(二〇一八年二月下旬 泉稱寺衆徒)

003 ある日の法事から・・・

泉 有和

少し前の法事で、全ての次第が終わり、皆で食事をいただいていたときですが、そのときの法話から連想されたのか、そのお宅のご親戚に「私は無宗教や」「先祖が仏教を大事にしてきたというが、それが何故かわからん」と言い出された方がおられました。その言葉が呼び水となって、回りの方もいろいろ話されだして、にぎやかな場になりました。

その時出た話に関わって、もう三十年ほど前になりますが、教えられて、自分なりに深くうなずいたことがあったので、その方々と次のような話をしました。

我々の日常の生活だけでは、何かもう一つ満足できない。こういう生活を生涯送って、そして終わっていく、そのことの為に生まれてきたとは、どうしても思えない。もっと確かな生き方、「あっ、そうだったのか。私はこのために生まれてきたんだ」という、そういう本当の生き方を願う、それを宗教心というのではないかと。

私たちは宗教とか宗教心というと、日頃の生活や意識とは違う、何か特別な宗教的な心情や意識、そういうものを思い浮かべてしまうけれども、実は、宗教を求める心というのは、そういう特別な心ではないんじゃないか。

私たちは、生まれてから今日までずっと生きてきて、今日も生き、また明日も生きていく。そしてそのことを、別に不思議とも何とも感じない。「生きるといっても、大体こんなもんやぜ」「人間とは何年生きてもこういうもんかなあ」と、日常の心、普段の心で思い込んでいるが、実はそうではないと思う。

宗教というと、何か特別で特定の宗教を一筋に信じなければならないとか、すぐそういうことになるが、そうではなくって、それよりもっと前の、我々が特別に宗教とも感じないような、私たちの根っ子にいつもある、「確かないのちを生きたい」、「本当のものに出会いたい」という、人間であるならば必ず願わずにはおれないという根源的な要求じゃないか。そうだとすると、私たちはすべて宗教的存在だと思う。

だから、親鸞聖人が「浄土真宗」とおっしゃるのは、そういう万人に共通する、「私は無宗教だ」と言っておられる方にも働いている、我々の最も根っ子にある「確かな生を求める心」です。決して、世間に多くある、何教だ、何宗だ、というものの中の、一つの宗派ではありません。云々。

その日一日、その時の会話を頭の中で反芻しながら、人間として生まれた以上、いかなる者も、国家を超え、民族を超え、思想を超え、政治的立場を超え、イデオロギーを超え、そしてあらゆる宗教を超えて、願わずにはおれないもの、それを親鸞聖人は「浄土真宗」というのだ一切のいのち生きる者が願わずにおれない世界を「浄土」というのですと教えられたことを、あらためて思い出したことでした。

(二〇一八年二月上旬 円称寺住職)

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。