011心は我が身を知る機能、それが心の分限です

森 英雄

「差別をしてはいけない」「差別を無くす運動をしよう」というのは、もっともなことであると思います。しかし、それで差別がなくなったりするのでしょうか。うまく立ち回り、差別者というレッテルをいかにして回避してゆくかということにならないでしょうか。

「ある被差別部落内の寺院に行ったことがある」ということを話したところ、「御院主さん、あそこは怖いところやね」と言われるので、「怖いところがあるのか、怖いところと言っている我々がいるのかな」ということを聞いてみました。実体的な場所や人が問題ではなく、向こうを縁として、どういう身を抱えているかが問われているのではないでしょうか。

以前、池田勇諦先生が、「心は我が身を知る機能、それが心の分限です」と教えて下さいました。

我が心がどう思ったかは、それが良いか悪いかを問題にすることではなく、状況や人を問題にせざるを得ない自分自身を、善し悪しの分別心で乗り切ろうとする問題を抱えた身であること。そこに頭が下がることだけが要求されているようです。

その時、初めて、目の前の出来事や人から教えていただくことが始まり、窮屈に自分を守ることしか考えていない身が知らされてきます。こんなふうに相手を見ているのが自分かと、自分にあきれる時、自分の価値判断に用事がなくなり、深くハタラク智慧の眼(まなこ)を感じることが始まります。。礼拝から始まる生活の誕生です。

言い訳する時も、俺は分かっていると開き直る時も、仏様はじっと待っていて下さいます。

『歎異抄』後序の

まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。

(『真宗聖典』640頁)

の金言が身に響いてきます。