カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2013年

037あとがき

 テレホン法話集『心をひらく』第三五集をお届けします。
 昨年(二〇一三年)一年間三六名のご法話を収録いたしました。担当者の皆様に御礼申し上げます。

 当方、前幹事の時より、六年にわたって本冊子の編集に携わらせていただきました。
 折々のご法話に随分教えられ学ばせていただきました。その見方や問題意識に大いに肯かされることも再々でした。

 そして、何より自らの信念を言葉にしていく難しさと格闘された皆様の歩みに励まされました。ありがとうございました。

 テレホン法話事業並びに本冊子の更なる充実を願いつつ、次代の編集子にバトンタッチさせていただきます。
                                               合掌

036まことの拠り所

折戸 芳章

 「じぇじぇじぇ」、「今でしょ」、「倍返し」、「アベノミクス」、「お・も・て・な・し」と、今年の流行語大賞候補が他にも多く思い出されます。

 候補にはなりませんでしたが、『広辞苑』にも載っていない「誤表示」という言葉が流行しました。有名ホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材を使用していた問題で、「偽装」ではなく「誤表示」だと釈明に繰り返し使用したことから生みだされた流行語です。人は思い込んでしまうと、それが偽装であれ、誤表示であれ、間違っていることさえ分からなくなり、自分をも見失ってしまうものなのです。

 今年の『本山法語カレンダー』一〇月で「世の中が便利になって一番困っているのが実は人間なんです」とお教えいただいています。

 私たちは、まさに日常の便利さと幸せを追い求めてきた結果、本当の拠り所までも見失い、間違え、さらには偽装し誤表示していたことに、東北沖地震を発端に原発をはじめとする諸問題に苦慮することで、今になってやっと気づかされたのではないでしょうか。

 「頼りにならんものを、頼りにすることほど一番頼りにならんのに、その一番たよりにならんものを一番頼りにしているから、本当に頼りにならん」のです。
 しかし、頼りにならんものを頼りに生活してきたことは事実であり、のがれられません。          

 いよいよ今年も残り数日となり、来年春には三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
 御遠忌を機縁に、私たちの日常の生活形態が偽装と誤表示を拠り所にして、間違った思い込をしていないかを問い直し、私の身の事実を親鸞聖人の教えによって顕かにしていかねばならないのだと思えてなりません。

(南勢一組・法受寺住職 二〇一三年一二月下旬)

035人生にかけられた願い

片山寛隆

  身近な人の死は悲しい
  しかし、その死から何かを問い学ばなければ
  そして、そこから何かを生み出さなければ
  もっと、悲しい

という言葉が、あるお寺の掲示板にありました。

 亡くなった方をご縁として、葬儀、法事を営むということが行われてきました。先立って往かれた方は、自分の生涯を通して、生きるとはどのようなことかということを、身を以てお知らせくださったということです。

 亡くなった方の願いと申しますか、先立った親は残していく子供達に何を願いとしているかということは、我々自身が残していく子供達に何を願うかということを考えれば分かることではないでしょうか。

 子供に何を願うか? やはり、幸せに暮らして欲しいということがあると思います。
 けれども、よくよく案じてみると、お互い自分の生涯を考えてみると、誰だって幸せを願いとするものの、それがいつもいつも叶えられる人生ではなかったということ、もっと言えば、都合のよい人生を送りたいと言うものの、我々が実際に歩む人生というものは、都合通りではないということです。思いがけないことにも遭わなければなりませんし、考えたことのないような災難にも出遭わなければならないというのが人生です。
 そういう生涯を、亡くなった人、先立った人も歩んでこられたに違いありません。

 人生は、お互いの都合ではありません。都合が悪いことが嫌いといっても、その事実を歩んでいかなければならないのが人生です。
 だから、どんなことがあっても、生きるとはこういうことだと、夢を見るのではなく、この人生の事実を踏まえながら、どんな中にも絶望せず、しかも人間に生まれてよかったというようなものを見開いて、生き死ぬ身になって欲しいということが願われているのではないでしょうか。

(三講組・相願寺住職 二〇一三年一二月中旬)

034御遠忌の課題

大橋 宏雄

 来年三月に三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
 御遠忌法要は五〇年に一度、それは一生に一度の法要だと言ってよいのではないかと思います。その一生に一度の『時』と『場』としての法要が、私にとってどういうものであるのかを考える一つの手がかりとして、報恩講ということが思われます。

 報恩講はそれぞれの場で年に一度勤められますが、報恩講について「三六五日報恩講だ」ということを聞かせていただいたことがあります。それは報恩講が単に親鸞聖人の御命日の法要ということだけではないということを教えてくださっているのだと思います。

 その「三六五日報恩講だ」という言葉から私が思うのは、「姿勢が問われる」ということです。
 姿勢とは聞法の姿勢ということもありますし、それはそのまま生きる姿勢ということにもなろうかと思います。
 そして、「姿勢」ということで思い起こされるのは、これまで聞かせていただき、今も聞かせていただいている先生や先輩方の姿です。

 そして、その姿に私は「自分をごまかさず問うていく」ということを感じます。それは大変難儀なことではありますが、そうでなければ何も聞こえないのだと思います。

 「御遠忌」ということ、そして「ごまかさない」ということを思う時、これも聞かせていただいた言葉が元なのですが、
 「まるで親鸞聖人のことを知っているような顔をして御遠忌と口にしているが、果たして私は親鸞聖人にお遇いしたといえるのか。お遇いしたいと思っているのか。」
という声が聞こえてきます。それは決して私を否定する声ではなく、私を歩ませる、私の姿勢を問う声として聞こえてきます。

 そして最後に、『時』ということを思うと、今の姿勢を問うということが、これまでを見直させ、これからを見据えさせるのではないか。そのことは、一生に一度の『時』と『場』としての御遠忌が、まだしばらくは生きているつもりの私に、「今」という時を重く突きつけてくるように思います。

(中勢一組・淨願寺候補衆徒 二〇一三年一二月上旬)

033報恩講

諏訪 高典

 今年も一一月二一日から二八日まで、真宗本廟(東本願寺)で、宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講が勤まります。そして、二八日の御満座では、

  如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も
  骨をくだきても謝すべし
   (『真宗聖典』五〇五頁『正像末和讃』)

の、私達真宗門徒が慣れ親しんでいるご和讃がつとまります。このご和讃は、親鸞聖人の兄弟子聖覚法印が、法然上人の六七日に表白されたものによるといわれます。

 親鸞聖人は仏法のご恩は、よき師によって気づかされ、その恩徳の重き、深きことは如来本願の用( はたら) きそのものであるといただかれたことでございます。

 親鸞聖人がお作りになった正信偈。そのお心は、私の口から「ナンマンダブ」、「ナンマンダブ」が出て来た。このお念仏はどこから出てきたんだろう。お念仏のルーツの根源は?

 そうだ、二九歳の時、法然上人に出遇った。あの時、
 「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」
というお言葉と共に、あの法然上人の朗かな念仏に遇うた。その時から私の口から念仏がもれるようになったんだナー。
 
 じゃあ、法然上人の念仏は、
 「源信広開一代教」
源信僧都から。

 じゃあ、源信さんの念仏は、
 「善導独明仏正意」
善導さんから。

 じゃあ善導さんの念仏は、
 「道綽決聖道難証」
 
 道綽禅師は?
 「本師曇鸞梁天子」
 
 曇鸞大師の念仏は、
 「天親菩薩造論説」

 天親菩薩は、
 「龍樹大師出於世」

 龍樹大師の念仏は、お釈迦さまから。お釈迦さまは、
 「帰命無量寿如来 南無不可思議光 法藏菩薩因位時」

 私の口から出た一言の念仏のルーツをずっとさかのぼると、遂に「法藏菩薩因位時」までさかのぼり、無量寿、不可思議光までさかのぼった。
 何とありがたいことか、それがあの正信偈をお作りになった親鸞聖人のお心であったと、私はいただくことでございます。

 報恩講は、この親鸞聖人のご遺徳を偲ばせていただき、真実のみ教えに出遇わしていただくための、真宗門徒にとって最も大事な仏事であります。共にこの仏縁に遇わせていただきたいと思います。

(桑名組・了嚴寺住職 二〇一三年一一月下旬)

032諷誦持説

片岡 健

 親鸞聖人はみんなが声を揃えてお勤めできる『正信偈』・『ご和讃』を残してくださいました。私たちは毎朝・毎晩のお勤め、仏事でのお勤め等を通して、そこから量り知れない教えをいただいています。『正信偈』などは本を見なくても読める方が多いと思います。

 『仏説無量壽経』というお経には、「諷誦持説(ふうじゅじせつ)」(『真宗聖典』二〇頁)という法蔵菩薩の願いが出てきます。仏さまの教えを声に出して何度も読み、暗記して、歌うがごとく軽やかに口から出るようにしなさい。私たちにはそういう願いもかけられているのです。

 数年前、門徒さんではないのですが、近所に若いご夫婦が引っ越してこられました。ほどなくご主人のお母さんが亡くなられて、お葬式と中陰のお参りをさせていただきました。六七日のお勤めが終わった後で、奥さんから質問をうけました。「ごえんさん。『帰命せよ』って何ですか」と。「どうして、そんなことを聞くの」というと、「毎日、お勤めをしていたら、気になるようになりました」と。『ご和讃』には「帰命せよ」がいっぱい出てきますからね。私は答えることができずに、「これから一緒に考えていきましょう」と誤魔化して逃げ帰りました。
 そうしたら、これ以後、このご夫婦は寺へお参りになるようになり、聞法されています。この奥さんは、できれば親鸞聖人に直接お尋ねしたかったのでしょう。知ったかぶりをした私などが答えなかったのが大正解だったのですね。

 声に出して諷誦、つまり暗唱できるほど読むと、この奥さんのように、時間と空間を超えて親鸞聖人に触れていけるのではないかと思います。報恩講や御遠忌に向けて、じっくりと地に足を着けて、暗記してしまうくらい教えを声に出して読む。それを通して親鸞聖人に直接お尋ねしていけるようになるといいですね。

(三重組・長傳寺住職 二〇一三年一一月中旬)

031共に、大地に立たん

渡邊 浩昌

 親鸞聖人は三五才の時に流罪に処せられ、遠く越後の国へと旅立たれます。琵琶湖を渡り、北陸に向かい、そして日本海に出られます。その時に、初めて海を見られたのではないかと思います。

 聖人は「海」という言葉を大切にされていますが、九〇才での死去を前にして述べられたと伝えられています『ご臨末の書』には次のような詩が書かれています。

  和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
  一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人(みたり)と思うべし、その一人は親鸞なり。

 法難に対する恩讐の念が寄せては返す波に打ち消され、師・法然上人への想いを一層深められていると思います。

 その後、聖人は豪雪の季節から解放された越後の国に到着されます。そこで目の当たりにされたのは、果てしなく広がる大地とそこに生きる、後に聖人が「群萌」といわれる人々の生き様ではなかったかと思います。
 
 曽我量深先生は『地涌の人』という文章の中で、「いつわりの名誉と、浮世の権力と、小ざかしき智慧と、仮面の道徳を有せない人々」と表現されています。

  我なくも法は盡きまじ和歌の浦
  あをくさ人のあらんかぎりは

『ご臨末の書』はこのように続きます。

 聖人は流罪の地・越後で、大地から涌くがごとくに生まれ出る、共に念仏申す人々に驚かれ、その人々を「あをくさ人」とよばれたのでしょう。

  われら一向に念仏申して
  仏天のもと青草びととなりて
  祖聖(親鸞)に続かん

 故信國淳先生が私達に残された言葉です。

 親鸞聖人七百五十回御遠忌の三重教区のスローガンは「共に、大地に立たん」です。
更なる深まりが私達に求められています。

(員弁組・西願寺住職 二〇一三年一一月上旬)

030まかせられない心

服部 拓円

 以前、私の母が闘病している時に、「頑張れ」と言われるのが辛いと言っていました。「頑張れ」と言う方はもちろん治って欲しいから言うのですし、言われる方もその気持ちは同じであると思います。だからこそ、「これ以上何を頑張れというのか」と、「今のままで精一杯」であるのに、それ以上の結果を求める「頑張れ」という言葉は、母にとって大変辛いものだったのだと思います。
 しかし、それは「阿弥陀さまが何の条件もなくそのまま救いとってくださる。そのままでいい」という有難さを、母と私に教えていただいた機会でもありました。

 先日、ご門徒の方に「お寺で二八日の法話とお斎(とき)があるので、お参りしてください」と言ったところ、「お誘いはありがたいのですが、折角のお話を聞いても、まだそんな年でもないし、私の根性は直りそうもないので、結構です」と断られたことがありました。
 しかし、少しぐらい話を聞いて、すぐに根性の直る人っているのでしょうか。

 阿弥陀さまは、「頑張って根性を直せば救う」と少しも仰っておられません。「頑張らなくとも、根性の直らないあなただからこそ、そのまま救う」と呼びかけられているのです。

 私たちはどうしても、「誰にもまかせることなく、自分自身で頑張って立派になって、価値のある人間となって救われるのだ」と思いがちではないでしょうか。もし、阿弥陀さまが「頑張って根性を直せば救う」と条件付けられたら、私たちが救われるということは非常に難しくなるように思います。

 私がつくるということではなく、阿弥陀さまに全ておまかせし「かならず救う」という願いを疑いなくいただく。
 
 おまかせできないのは、その願いに気付こうとしていないから。
 たとえ、まかせられない自身に気付いても、全てはまかせられないのではないでしょうか。自身の条件・都合の良いところだけしかまかせられないのではないでしょうか。

 それでも無条件にそのままとして救いとってくださる。その有難さが「南無阿弥陀仏」と申させていただく心であるように思います。

(三講組・圓福寺住職 二〇一三年一〇月下旬)

029上から目線

松井 茂樹

 今年の春に、教如上人御遠忌のために本山へ行ってまいりました。きっかけは大学時代の友人が一度みんなで集まろうということ。ただ集まるのではなくて、本山の春法要のお勤めで会おう、という話になりました。

 正直私は「本山のような敷居の高い所で会おうなんて、正直困ったな」と思っていました。それはなぜかというと、私以外の方は、何度も本山出仕(お勤めに出ること)をされている方ばかりだったからです。しかし、何事も経験と思い、思い切って本山へ上山することにしました。

 本山へ行くと、大学時代の友人や先輩達にお会いすることが出来ました。ただ、皆と話をすればするほど、自分がこの場にいてはいけないように感じました。余りに気になったので、今回お誘いをいただいた友人に「場違いな所に来てしまったかな?」と聞いたところ、友人は不思議そうな顔をして、

 「大谷派の僧侶が本山に来ることのどこが場違いなんだ。第一ここに来ている方々は皆、真宗の教えに触れにここまで来ているのじゃないかな。そんな誰が上とか下とかを決めるために皆が集まっている訳じゃないと僕は思うぞ」
と言いました。

 私はハッとしました。今までつまらない劣等感で場違いだと思っていた自分の心の中を一気に見抜かれたように思いました。常に自分のことを中心に考えている自分に改めて気づかせて頂きました。

 私達は普段、自分が高い所にいて、現代風で言う「上から目線」という見方で、世の中を見ていると思います。しかし、実は自分自身ではどうしようも出来ない力やはたらきによって生かされていることに気付くことが真宗における第一歩だと私は思います。

 毎日の生活の中で、私達が生きていることの大切さやご縁に改めて気付き、そのことに感謝する。それが真宗の教えに触れることだと思います。

(中勢二組・淨得寺住職 二〇一三年一〇月中旬)

028身で聞く、身で感じる

藤基 啓子

 私は、寺の跡継ぎを承知で嫁して四〇年、主人が住職を任されてからは、まだ八年に満たない小さな山寺の坊守です。でも、坊守会には前坊守の義母の生前中から出席していました。

 在家の出身で、三人の子持ち、おまけに病気上がり。多量の薬を服用していて、生きるので精一杯。良いご法話を頂いても、眠くてよく聞いておらず、住職も最初のうちは「今日のお話は?」と聞いてくれたのですが、私が「眠くてよく解らんかった」とか、「どういう風に伝えたら良いのか」等と答えていたら、だんだん法話の話はしなくなりました。

 無駄に過ごす時間が多いけれども、他の坊守さん方とも知り合いになっていろいろ教わりたいという気持ちで、ずっと参加させていただいてきました。とはいえ、知力にも体力にも劣る私は、いつも「眠れる山寺の坊守」です。

 そんな私ですが、三重教区の合唱団「ひかり」に参加させていただいております。私と宗教音楽とのふれ合いは、三重教区の「教務所通信」での募集を見たことからはじまりました。好きな歌を教わることから、未知の世界が開けて来るように感じ、また藤原星子先生のご指導も楽しく、私はすっかり惹きつけられてしまいました。

 その活動からご縁を頂き、本山の春の音楽法要には、体調の許す限り出席させて頂いております。その節には、子どもたちの世話を住職に押し付けては、「ごめんなさい」と出かけていきます。

 また、坊守会の声明教室ではすばらしいおさずけを頂きました。佐々木智教先生のご指導のもと、正信偈を頂いておりました時、身体の揺れを感じたのです。はじめは、東北大震災の時にたまたまコーラスをしていて揺れたことを思い出し、「大変だ、地震だ」と思ったのですが、周りのみんなは平然としているのを見て、ハッとしました。揺れていたのは私だけでした。先生や他の方の声の調子に合わせて、揺れていたのでした。

 ご法話の言葉はとても難しく、なかなか解らない私ですが、音楽や声明の音や声や響きは、とてもすんなりと私の中に入ってくるようです。そして、それはとても心地が良いものです。

 仏法をともに身体で聞く、身で感じるということもあるのかなと思います。
 音楽法要への参加や、正信偈の唱和をたくさんのお仲間と一緒にさせていただくことが楽しみです。

(南勢二組・正順寺坊守 二〇一三年一〇月上旬)