009 義援金と義捐金

梅田 良恵

去る四月一四日、熊本県を中心に最大震度七の地震が起き、未だに余震が続いていることは、皆様も御承知のことと存じます。被災地の様子はマスコミを通じて全国、全世界に発信されています。またそれに伴い、各地から救援物資が届き、義援金、支援金なども集められています。

さて私事ですが、五年前の東日本大震災の折、私の先輩に教えられたことがあります。最近は義援金の「援」の字は援助の援を使うが、本来はそうではない。どんな字かというと「手偏を書き、その右に、上に口、下に月を書いた字」を使っていたと教えてくれました。調べてみると、その「捐」の字は、「捨てる、捨て去る」の意味である、とありました。当用漢字に採用されなかったため、現在は援助の援の字が「代用」として使われることになったとのことです。

意味の違いにこだわれば、以前使われていた「義捐金」は義をもって捨てるお金であり、最近は義をもって援けるお金となります。

その字がもとで、私は改めて布施とは何かを考えました。今皆さんはお布施というと、法事などお参りごとを依頼するときに、お寺に支払う「お金」のことだと思うのではないでしょうか。本来、布施は、布施行といって、仏道を歩むうえでの修行のひとつなのです。自分の持っているもの、それはお金でも物でもいいし、また何かをしてあげる行為でもいい、それを相手に施すのです。そこで注意しなければならないのは、布施をする側、される側は、布施をする物、または行為に対して、執らわれる心を捨てなければならない、(執着をしてはいけない)ということです。例えば、する側は、こんなに大量に食料を持ってきたから喜んでくれるだろう、朝から夜遅くまで働いてあげたから感謝されるだろう、と思ったとしましょう。またされる側は、もっと持ってきてもらいたい、明日も明後日も働いてもらわなければ家が片付かない、と思ったとします。しかしそれは、布施という意味では、本来の布施行為にはなりません。

ボランティア活動をされる方が「被災者の笑顔を見ると、自分も元気をもらいました」と言っている場面をよくテレビで見ます。そうなんです。布施とはただ相手に施すだけでなく、施した行為によって、布施をした側も得るものがあるのです。お互いに与え合う、ということです。

義捐という言葉の中に、私は布施という意味を見ます。これは私たちが仏教という教えをもとに助け合ってきた歴史を物語っているのではないでしょうか。

手偏に、口、月を書いた、捨てるという意味の「捐」の字を使った「義捐金、義捐物資」という言葉を、私は今こそ復活したいと思います。

 

(三講組 圓琳寺住職 二〇一六年五月上旬)

008 人生のコンパス

箕浦 彰巖

サクラの花も散り始め、青葉が目立ち始めています。四月八日は、お釈迦様が誕生された「降誕会」花まつりが、宗派をこえて様々なお寺で開かれました。

さて、お釈迦様が説かれました仏教も含め、皆さんは「宗教」というものをどのように受け止めておられるでしょうか。

 

パンの為、職責の為、人道の為、国家の為、富国強兵の為に、功名栄華の為に宗教あるにはあらざるなり。人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり。

(『清沢満之全集 第七巻』)

 

この言葉は、京都にあります大谷大学の初代学長、清沢満之先生の言葉です。

清沢満之先生は明治時代、日本全体が富国強兵・殖(しょく)産(さん)興(こう)業(ぎょう)という様に、国を強く豊かにしていく事が盛んであった中で、人間の確かな拠り処、生きる立脚地を明らかにするために、東京巣鴨の地に真宗大学、今の大谷大学を開きました。

人心の至奥とは、人の心の最も奥底という意味です。そこからわき起こる要求の為に宗教はあるのだと、清沢満之先生は言います。

では、その要求とはどのようなものなのでしょう。

私たちは、日々の生活の中で一生懸命生きています。様々な仕事をし、家族の為、会社の為、社会の為と様々な思いを巡らせて今日を生きています。

しかし、ふとした切っ掛けで、今までの私の人生は何だったのかという空しさや、不安に襲われることがあるのではないでしょうか。

「何が君の幸せ 何をしてよろこぶ わからないまま終わる そんなのは嫌だ」

これは、アンパンマンの作者である「やなせたかし」氏が作詞された「アンパンマンのマーチ」の歌詞の一部ですが、私たちは、何が自分の幸せで、どうなることが本当の満足であるのか、どのように生きることが本当の喜びなのかが、分かっているようで実は分かっていないのが実情ではないでしょうか。

この問題を明らかにし、私の心の奥底から沸き起こってくるものに応えてくれるものが宗教であると清沢満之先生はおっしゃっていると思います。

宗教の「宗」という字は、「根本とするもの」「おおもと」という意味を持ちます。つまりそれは、私にとって最も根本となる教え、人生のコンパスとなるものなのでしょう。

しかし、その「宗」が不確かでは、まわりの風潮に流され、私の上(うわ)ついた表面上の思いのままに生きて、結局は人生が空しく過ぎるのではないでしょうか。そこに本当の意味で人生の喜びは生まれないのではないかと思います。

(三重教区駐在教導 二〇一六年四月下旬)

007 私との出会い

伊藤 華

私の父は高校生の時に網膜(もうまく)色素(しきそ)変性症(へんせいしょう)という目の病気を発症しました。

徐々に中心が見えなくなり、視力を失うこともある病気で、現在も治療法は確立されておらず、六十歳を過ぎた頃からほとんど視力を失いました。

そんな父のことを私は少し羨ましいと思った時期がありました。私は学生時代、将来の進路について悩んでいた時、劣等感や自信の無さから、相手から自分が馬鹿にされているとか、嫌われていると感じて対人恐怖症になったのです。父は私とは全く逆の性格で、門徒さんの家に行って沢山の方と色んなお話しをするのが本当に楽しそうでした。ですが、父のこの性格が羨ましいと思ったわけではありません。

当時私は父に、「いいなぁお父さんは目が見えないから、人の反応を気にすることなくお話ができるから。私も目が見えないほうがいいわ」。

すると父は、「わしは、耳で見ているんだよ。よく見えるよ。怒った顔、笑った顔、悲しい顔。あんたはもっと色んな人と出会いなさい」と言われました。目は見えなくても耳からの情報で脳の視覚(しかく)野(や)は働き、脳の中で映像を見ているそうです。以前まで、私は目が見える分、父より世の中のことを知っているし、目が見えないくせに何がわかるのだ?と思うことが多々ありました。しかし父の言葉を聞いて、ひとつひとつの出会いに、想像以上に神経を研ぎ澄まさせているのだろうと感じ、私は今まで自分の評価ばかりを気にして、人と話をする時、しっかり相手の顔を見て、相手の発する言葉にちゃんと耳を傾けてこなかったと痛感しました。

嫌いな人、苦手な人、気難しい人、良い人・・・勝手に決めている自分がそこにありました。人生で出会うすべての人々から様々なことを教えられます。それぞれの出会いにおいて相手を評価するのではなく、その出会いをご縁として私が私に出会わせてもらっていきたいと思います。

(桑名組・晴雲寺衆徒 二〇一六年四月上旬)

006 当たり前って

高野昭麿

暖冬と言われていた冬ですが、3月に入り段々と暖かくなってきました。

今年は本山の大修復が終了しての最初の春の法要をお迎えします。

さて先日、国勢調査の集計が発表になり、これまでの調査以来、初めて日本の人口が減少したとニュースになっていました。

その一方で携帯電話の契約回線数は、年々人口よりも多くなり、本当に身近な道具となりました。

寺にかかってくる電話も、これまではほとんど固定電話からでしたが、最近はほとんど携帯電話からです。電話番号を登録しておけば間違い電話をかけることなく相手と電話が出来ますし、スケジュール管理なども出来ますので、手帳を持ち歩く必要がなくなってきました。私はスケジュールも全て携帯電話に保存していますので、携帯が無ければ予定が全くわかりません。

そんな私の携帯がつい先日、突然壊れてしまったのです。落としたり、水没したのなら壊れても仕方のないことだと思うのですが、インターネットをするために携帯を触っていて突然画面が真っ黒になり何が表示されているのかわからない状態になりました。色々と携帯電話を直そうと試しましたが一向に直りません。アドレス帳やスケジュールを紙に記録していませんでしたので焦って途方にくれてしまいました。

普段の生活の中で、毎日使っている便利な道具が壊れるなんて考えることはあまりありません。しかし、今回の様に壊れることが突然起こります。機械ですから「永遠に壊れることはない」とは思ってはいませんが、今壊れることはないだろうと思ってしまっています。

この思いは、人間にでも同じ感情になることがあるのではないでしょうか。人間と機械を比べることは出来ませんが、元気だった方が突然倒れられて亡くなる事が多々あります。

しかし、そういう時ほど、残された家族や知人、友人は、焦って途方に暮れ、後悔だけが残るということがあるのではないでしょうか。

蓮如上人のお書きになられた御文の中に、『白骨の御文』と呼ばれるものがあります。その文中には、「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」と私たちの日常感が語られ、そして「人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば」と、老いるから、若いからと決まっていない、いつ死ぬかわからない生まれたものの事実を噛みしめておられる部分があります。

いつこの世との別れが来るかわからない「今」を私たちは生きているのです。そんな身を生きる中で、確かな安心を得た生活を送りたいものです。

仏事の場とは、そういった自分を見つめ直す場ではないかと感じます。

(伊賀組・專稱寺住職 二〇一六年三月下旬)

005 寺の過去帳

岡田 豊

終戦の一年前から戦死者のずらりと並ぶ寺の過去帳

(三原市在住 岡田独甫 作)

二〇一六年一月一一日の朝日新聞に載せられたこの短歌は、前年一年間の朝日歌壇の入選歌の中から、選者の高野公彦氏が朝日歌壇賞に選んだものです。

私が住職をしているお寺の過去帳も、やはり同じようです。終戦の年に六〇歳を迎えた私の祖母は、前年の昭和一九年に住職であった夫を亡くし、戦後二二年の正月に、後に私の父となる息子がシベリアから帰ってくるまで、どんな思いでお寺を守っていたのかと思い起こされます。

村の若者が、自分の息子も含めて、次々と出征し、やがてぽつりぽつりと伝えられる戦死の知らせが、次第に続々と重なっていく。いったいこの国は、この寺は、そして自分たちは、どうなっていくのだろうという漠然とした不安さえもが戦争末期の困惑と戦後の混乱の日々の中で、時として忘れ去られ、時として頭を持ち上げてくるということであったでしょう。

お釈迦さまは「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『法句経(ダンマ・パダ)』)とおっしゃいます。けれども、人類の歴史はいかにして戦争を避けるかという努力さえも一種のカモフラージュにして、いかにして戦争に勝つか、いかにして武力で相手を黙らせるかということに、血道を上げてきたと言ってもよいでしょう。この現実に、これが現実なのだから仕方がないとして立つならば、広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という言葉は青臭い理想主義か、原爆だけは使ってはならぬという思いとしてしか受け取れないでしょう。

けれども、原爆死没者ばかりか全ての戦争犠牲者から、これが人間のすることなのか、それでも人間か、本当にこれでいいのかと問い返されているのだとすれば、生きている私たちに戦争を繰り返していることが、いかに罪が深いかということに目を覚まさせ、そのことを深く恥じよという、自覚を促す声なき声として戴いていくことができると思います。

たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし

(『真宗聖典(御文)』 八三二頁)

(中勢一組・傳善寺住職 二〇一六年三月上旬)

004 いのちの相

原田 はるみ

自坊の報恩講前日、庭に青磁色した葉っぱが落ちていました。その美しい葉っぱの色に魅せられて手に取ると、それはいつも見ている緑色の葉っぱの裏面でした。いつも見ていた葉っぱの違う一面を見せられて、私はいのちをしっかりと見つめていたのだろうか、と思いました。なぜなら、美しい外見だけに魅せられて手にした葉っぱは、いのちの相によって輝いていたからです。そこには不思議な感動がありました。

私は、この感動と同じような経験を幼い頃にしたことがあります。あなたのことを、仏様はいつも見ておられるよ、と言われて信じていた十代の頃、親戚や近所の人の死にたくさん出遇って「死」を意識したことがありました。自分の命がいつか亡くなると思うことが、私の心に「死」に対する恐怖心を生み出しました。「死」を意識したことにより、当たり前に過ごしてきた日常生活が、生きていること、いのちの尊さへの感動になりました。また、「生」への疑問を持つ機縁にもなりました。その頃から私は、「死」は誰もが避けられないなら、命が終わるときには穏やかに死を受け止めるようになりたいと思うようになりました。

葉っぱの一面だけを見ていた私は、いのちの輝きに出遇うことによって、仏様はいつも私を見てくださっていることを思いました。温かい感動がゆっくりと体内に流れ込み、胸の底より湧きあがってくる涙が頬を流れるのを感じました。その時にお釈迦様のお言葉「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(『真宗聖典』一〇五頁)の世界を思いました。

私たちは外の世界に執らわれて、私を成り立たせているいのちの相に気づかないから、私の思い、計らいで生きているのではないでしょうか。「いのち」の輝きに出遇ったとき、如来の大悲の心に触れて共鳴し、いのちを心の奥から感じて、初めて私の執着心に気づかされるのでしょう。

仏様からいただいた「いのち」の相によって、生かされている私の身の事実を素直に感じ、受け止めていきたいものです。

(中勢一組・託縁寺坊守 二〇一六年二月下旬)

003 束の間の御浄土体験

野崎 紘一

「お前もとうとう来たか。わしより十五年も早いな。まっいいか」三途の川の辺で出迎えてくれた親父の第一声でした。

「浄土の世界も、シャバも同じや、新参者は先ず挨拶廻りや。案内したるでついて来いや」と祖父母に始まって、野崎家の先達を次から次へと案内してくれました。

皆さんおだやかな表情でシャバでの生活に労をねぎらう言葉をかけて下さいました。そして最後の結論は「ここに来たら、何も案ずることはない。阿弥陀さんの光をいただいて安穏に過ごすがいいぞ」とおっしゃいました。

ただ一人、全く違う事を言われる人がみえました。

「野崎さん、あんたの息子をここに止めるのはまだまだ早いんとちゃうか。この男、シャバにやり残して来たことが沢山ある筈や、現世に帰しましょに」と、その時、甲高い女性の声が、「野崎さん目を覚まして‼あなたが今みているのは幻覚よ。そちらに引き込まれたら、それこそ死んじゃうよ」と私の頬をパンパン叩くのです。

「死んじゃうよ」の一言に反応したのか目を覚ましました。

私を覗き込む顔々。キラキラ輝く瞳が何よりも喜々とした生身の人間そのものです。

「手術は成功です。それにしても麻酔薬のせん妄作用が相当でましたな。正気に戻っていただいて何よりです」

「野崎さん普段の言葉づかいと違って、それはそれは丁寧な言葉づかいでしたよ。どなたとお話をなさっていたんですか」先ほど私の頬を叩いて下さった看護士さんに言われ、私はただ苦笑いするしかありませんでした。

五年前に私が心臓手術を受けた時の実体験です。

「せん妄作用」による幻覚をみただけというには私は合点がいきません。私の心の奥底に潜んでいた意識が顕在化したのではないかと思うところです。

野崎家を取りまいた多くの先達方の御陰様で、私の今日があると実感しています。

昨年の四月、おふくろが逝きました。荼毘に付す時、「親父によろしくな」が最後の別れの一言でございました。

南無阿弥陀仏

 

(中勢一組・淨願寺門徒 二〇一六年二月上旬)

002 自利利他円満

山口 晃生

法隆寺の玉虫の厨子に捨身飼虎の図があります。これは、お釈迦様前世の物語で、修行中、森の中で出産直後の虎に出遭います。この虎は空腹のあまり今にも我が子を食べようとしていました。それを見たお釈迦様は、自ら虎の餌になろうと近くの崖に上り、そこから飛び降り、自分を殺してから餌食になり、親子の虎を救ったという有名なお話です。これは究極の「慈悲心」や「利他行」といわれます。しかし、私には今一つ納得がいきません。

私達が頂いている仏教には、「自利利他円満」という教えがあります。自分が幸せになることが他人の幸せにもつながり、他人の幸せが自分の幸せになる。お互いに幸せになり、喜び合える世界。私は、これこそが真実(ほんとう)の仏道ではないかと思います。

我が家の近くに岡山という小高い山があります。昔は焚き木を集める等、管理され遠足のメッカとしても親しまれておりましたが、高度成長期以後は荒れ放題、人も立ち入れない状態で、いつしか心無い人が壊れたテレビや洗濯機等の廃材を平気で捨てていくゴミ捨て山になってしまいました。このままではいけない。以前の様に人々が遊べる里山にしようと、二〇〇五年「岡山を愛する会」が発足しました。

私も賛同し入会。月三回の奉仕作業に取り組んでおります。しかし、一〇年の歳月は確実に力を奪います。脱会者も多く、五〇人いた会員も現在は二〇名程になり、しかも高齢化し維持管理も難しく、新会員を募るのですが一向に協力者は集まりません。寧ろほんの一部の人からは「俺らには関係ない。奴ら暇ですることがないからやっているだけや」としか見てもらえないのが残念でなりません。

郷土の宝でもある自然豊かなこの「里山」を、人々の集まる憩いの場として今後も守っていく事で、地域住民の皆さま方に喜んでもらえるのであれば、奉仕作業の苦労も報われ、私達会員皆の喜びに変わります。また、そうすることがこの地に生まれ、育てられた者の故郷への恩返しと、今日も仲間と共に額に汗して頑張っております。

(三重組・蓮行寺門徒 二〇一六年一月下旬)

001 家族葬から

田代賢治

あけましておめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、御同朋の皆さまのお力添えをたまわり、おかげさまで滞りなく厳修できましたこと、心より御礼を申し上げます。本年もまた、どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、この時期にふさわしくない話になろうと思いますが、今の私にお話しできることは限られておるのであります。それは、私の母親、田代秀子が去る一一月一五日に九一歳でお浄土に還帰したことであります。歳が歳ですから、父母はもちろんのこと、連れ合いも早く亡くし、兄弟姉妹もすでに亡く、友人・知人も少なくなっており、「寂しい」というのがここ数年の口癖になっておりました。

それで私は、もう限られた人たちとだけの、いわゆる「家族葬」でも良いのでないかと、二つ年上の兄に相談いたしました。兄は大分県のお寺に入寺しておりまして、それを聞くなり「それは、いかんダメだ」と叱られました。それで私は、ハタと気づいたのであります。

身内だけの葬儀では、母親のいのちを狭い世界のものとして貶めることとなり、母親が如何に生き、どれだけの人たちと関わりを結んできたのか、彼女の生きた証として、彼女が最後に出来る社会的使命と責任なのだと思い直したのであります。したがって、広く「広め」をいたしました。「家族葬」は止めて、いわゆる「一般葬」に切りかえたのであります。

母親のことを思ってそうしようとしたのですが、実はそのことによって、結果的に喪主としての私自身の社会的使命と責任を果たすこととなりました。

ふだんから、いのちは「公け」のもの、いのちは「私有化」してはならない、いのちは広くて深いものと話しておりました私自身が、このていたらくでした。僧侶として慙愧するしかない、お恥ずかしいかぎりであります。

それを、母親が死をもって、私に教えてくれたことでありました。危うく大きな過ちを犯すところでした。

(三重教務所長 二〇一六年一月上旬)

025 あとがき

テレホン法話集「心をひらく」第三七集をお届けします。昨年(2015年)1年間の24人のご法話を収めました。
さて、4月に熊本で起こった地震は、被災された方々へ、様々な支援が行われています。私もお金を送るという形で支援をさせてもらいました。が、同時に、困難に直面している人たちとひとつになれない自分を感じます。
私たちは様々な課題を常に抱えているはずなのですが、時にそれを見ようとしない自分もいます。そのような中でこの冊子に目を通していただいた今、あらためて自分の課題に向き合うご縁としていただけたらと祈念しております。発刊にあたり関係者諸氏のご苦労に感謝申し上げます。

(社会教化小委員会 幹事 梅田良惠)