006 当たり前って

高野昭麿

暖冬と言われていた冬ですが、3月に入り段々と暖かくなってきました。

今年は本山の大修復が終了しての最初の春の法要をお迎えします。

さて先日、国勢調査の集計が発表になり、これまでの調査以来、初めて日本の人口が減少したとニュースになっていました。

その一方で携帯電話の契約回線数は、年々人口よりも多くなり、本当に身近な道具となりました。

寺にかかってくる電話も、これまではほとんど固定電話からでしたが、最近はほとんど携帯電話からです。電話番号を登録しておけば間違い電話をかけることなく相手と電話が出来ますし、スケジュール管理なども出来ますので、手帳を持ち歩く必要がなくなってきました。私はスケジュールも全て携帯電話に保存していますので、携帯が無ければ予定が全くわかりません。

そんな私の携帯がつい先日、突然壊れてしまったのです。落としたり、水没したのなら壊れても仕方のないことだと思うのですが、インターネットをするために携帯を触っていて突然画面が真っ黒になり何が表示されているのかわからない状態になりました。色々と携帯電話を直そうと試しましたが一向に直りません。アドレス帳やスケジュールを紙に記録していませんでしたので焦って途方にくれてしまいました。

普段の生活の中で、毎日使っている便利な道具が壊れるなんて考えることはあまりありません。しかし、今回の様に壊れることが突然起こります。機械ですから「永遠に壊れることはない」とは思ってはいませんが、今壊れることはないだろうと思ってしまっています。

この思いは、人間にでも同じ感情になることがあるのではないでしょうか。人間と機械を比べることは出来ませんが、元気だった方が突然倒れられて亡くなる事が多々あります。

しかし、そういう時ほど、残された家族や知人、友人は、焦って途方に暮れ、後悔だけが残るということがあるのではないでしょうか。

蓮如上人のお書きになられた御文の中に、『白骨の御文』と呼ばれるものがあります。その文中には、「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」と私たちの日常感が語られ、そして「人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば」と、老いるから、若いからと決まっていない、いつ死ぬかわからない生まれたものの事実を噛みしめておられる部分があります。

いつこの世との別れが来るかわからない「今」を私たちは生きているのです。そんな身を生きる中で、確かな安心を得た生活を送りたいものです。

仏事の場とは、そういった自分を見つめ直す場ではないかと感じます。

(伊賀組・專稱寺住職 二〇一六年三月下旬)