012国土建立の願い

池田徹

普段、我々は、無意識に自分を肯定しています。自分は「善人-善き者である」と思っています。自らは悪人ではなく、善人であるという思い込みを生きています。「それなりに頑張っているし、まんざらでもない」と思っています。また、その「善人性」を生きる支えにもしています。人さまに非難されないように、後ろ指をさされないように努力もしています。

しかし、長い人生の中で、その善人意識を突き破って、本性-凡夫(悪人性)が噴き出してくるのです。その時、我々のその意識は、徹底的に事実の自分「悪人的自己」を裁き排除しようとするのです。「これは本来の私ではない」「たまたま魔がさしただけだ」等と言って、その事実を認めようとしません。「悪人的自己-凡夫」を受け入れられないのです。

生身をもって生きている限り、縁の中で「悪人性」「凡夫性」が暴露されてきます。その時は、共に在る「いのち」が傷つけられた時です。その「いのち」には眼が向かず、自分の「善人性」が壊れたことにしか関心が向かないのです。だから、現実に出てきた自分、事実の自分を憎み、非難するという形で、その「善人性」を保とうとするのです。「善人性」を守るためには、自らの存在を抹殺することさえあるのです。この自己肯定の意識-善人意識は、恐ろしい暴力性をもっています。他者は言うに及ばず自分さえも抹殺してしまうのです。

親鸞は、この「善人意識」を《みずからがみをよしとおもう・みをたのむ・あしきこころをさかしくかえりみる・ひとをあしよしとおもう》こころ、「自分のこころ」と言われます。その「自分のこころ」を中心に生きる限り、結局は自らに失望し、自らを見捨て、他者とも出会えないと教えられています。

そう我々に「国土」を「大地」を与えようというのが、念仏-本願の呼びかけです。「念仏して浄土に生まれなさい」という教えは、まさに「自分のこころ」-善人意識を中心に生きている者に向かって呼びかけられています。「国土」「大地」を与えるという形で、私が安心して生きる居場所を、他者と共に生きていく「世界」を与えてくださるのです。

自ら(人生)を尊敬し、縁あって共に生きている他者を尊敬し、向き合って生きていく根拠、責任主体となる「国土」「大地」を「浄土」として用意されているのです。その浄土は、善人意識のもつ「虚偽性・暴力性・偏狭性」への目醒め、痛み、悲しみの感覚をもっているのです。