008名簿

土岐昭潤

先日、学生時代の同窓会名簿が送られてきました。早速、友人の近況はどうかと名簿を見ると、名簿の横に物故者と記されていました。先日まで友人であった人がすでに物故者となっているのであります。物故者、つまり死去であります。私は現在50才です。私たちの年代から言えば、友人の死は夭折(ようせつ)となるのでしょうか。夭折といっても幼児、若年者、実年者といろいろあると思います。

法事に行くとよく聞く言葉があります。あるご年配の方が「Aさんは、73才で死んだ。私は71才、順番やと次やな」と言います。この言葉を受けて、もう一人のご年配の方が「確かにAさんは、73才で死んだ。しかし、私は83才、しかもAさんは、私より10才も若くして死んだ。順番ではないで」と言います。そして、「いずれはご住職の世話になるのであるから、どっちでもええがな」と、もう一人の方の話で会話が途切れるのです。この話の中で、順番ということが気になるのであります。『無量寿経』に「顛倒(てんどう)上下して無常の根本なり」(真宗聖典61頁)とあります。順序が逆さまで老少不定である。老少不定、人の寿命は、老いも若きも何時果てる(死ぬ)か定まっていないのであります。つまり、人は日々年齢に関係なく亡くなっていくものと言われています。老少不定は、無常の世界のならいであります。このことから思えば、人のはかなさ、人はこの世に生を受ければ必ず死があるということをしっかり受け止めて、遅かれ早かれ訪れる死、それは今日か明日か分からぬ我が身体であります。

ならば如来さまから賜った寿命(生かされてる)今をしっかりと生きることが大切なのではないでしょうか。自身も次回の同窓会には、名前の横に物故者と記されるのでしょうか。それは分からない。如来さまだけが知っている…自身、物故者となれば同窓会名簿は過去帳となるのでありましょう。(そして、友人たちは夭折と受け止めるのでしょうか)