009此の岸に、現に生きてはたらく彼岸

森英雄

お彼岸はお墓参りをするためにあるわけではありません。地獄一定の自分を彼岸に触れて、改めていただきなおす、人生修行の始めを表すものです。そこから最も積極的な生き方、御本願に帰依し、お念仏に生かされていきましょうという生活が今日も今日もと始まってきます。

一緒に生活をすれば、いろいろなことが起こってきてくださいます。食事一つにしても、高校生の息子はクラブ活動の後、塾へ行って帰ってくると10時頃。こちらはお腹が減っているだろうと思い、ご飯にしたらと言う間もなくストーブの前で寝てしまう。疲れているからそっとしておいてやろうと思っても12時が限度。「一体いつまで寝ているのか。待つにも限度がある。ご飯がいつまでも片付かないじゃないか。作る者の気持ちもちょっとは考えたらどうだ。こちらも明日があるのだ。そんなことしていたら明日は遅刻するぞ」等、手を変え品を変え言ってみるのですが、帰ってくる言葉は「うるさい。黙れ。片付ければいいんだろ」だけ。

なぜこうなるのでしょうか?それは、子どもに対する姿勢が「この私を何と思っているんだ」という高い所にいるからです。自分の思う通りにならせようとする貪欲が、相手から苦しめられておると自分に思わせているのです。自分が自分に括られて苦しんでいる。相手の出方が問題ではなく、自分自身の正体を知らないから、次から次へと問題を与えて、我が身に気づけと教えてくれているのです。対象が何であれ、己の貪欲が迷いの根本であると教えてくださるのです。ここに頭が下がって(南無)初めてお世話させてもらえるような代物ではないからこそ、と知らされる。そこに一つ一つ丁寧に、させてもらえる境地がいただけてきます。彼岸は生きて用(はた)らいて、私が「最低の人間である」ことを知らせ、お念仏に生きることで、毎日新しく勇んで仕事させてもらえる力を与えてくれています。