010南無阿弥陀仏こそ真のリハビリテーション

川瀬 智

最近よくリハビリという言葉を聞きます。その意味は、通常、単なる身体的な機能の回復のための訓練と認識されています。

「リハビリ」とは「リハビリテーション」を省略した言葉であります。その語源をたどってみると、《ラテン語で「リとは(再び)+ハビリスとは(ふさわしい)+エーションとは(~にすること)》とあり、何かの原因により人間に相応(ふさわ)しくない状態に陥った時、「再び人間に相応しい状態にすること」がもとの意味であります。

「相応しい状態に戻す」には、先ず、人間に相応しくない状態にいることに、自分自身が深く気づくことが必要ではないでしょうか。

「疑惑の総合商社」と揶揄(やゆ)される国家議員もあるように、公の利益の美名を掲げ国民を欺いてでも公共事業を材料に、もっぱら自らの票と資金を集め、議員バッジと先生の称号を得る利益誘導人生、それこそ自分に相応しい状態と考える政治家の人々が、現在問題になっております。そんな政治家には、国民の批判は単なる批判の声に終わり「再び人間に相応しい状態に戻ってください。真の政治家になってください。」という声と聞こえていないようです。

親鸞聖人は、『正像末和讃』に、「是非しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり」と。(真宗聖典511頁)

自らを、いつでも《「名聞(みょうもん)」という世間の評判を得たい、「利養(りよう)」という人から利益を得たい、また人の上に立ちたいという「勝他(しょうた)」》この三つを求め、その実現こそ私に相応しい状態になることだと思い込み、限りなく流転してゆくお粗末で愚かでおはずかしい自己と知らされたと深い慚愧(ざんき)をしておられます。
そして、その慚愧与えてくださるはたらきは、私を大いに悲しんでくださり、救わずにおかないという阿弥陀仏の御本願の深さであった、南無阿弥陀仏の召喚(呼び)声であったと感動されています。

「私達を心身ともに相応しい状態に戻す真のリハビリテーションは、念仏申す生活にある」と、宗祖親鸞聖人の慚愧と感動のメッセージを、いただく歩みを共々に始めましょう。

(2002年 4月上旬)