014「いのち」-任せれば、人は楽しみ、動き出す-

藤河亨

「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」。これは本山の大通りに面した外壁に掲示されている標語です。日本ではこの13年間、毎年3万人以上の人々が自死しています。そんな社会の状況を考えるたびに、標語の前にたたずむ会社員や学生の姿から目が離せなくなります。

「リゾート再生人」という肩書をもつ星野佳路(ほしのよしはる)さんが出演しているテレビ番組を見たことがあります。90年代の経済バブル崩壊後、全国各地で、ホテルや旅館といったリゾート施設が経営不振に陥り、次々と倒産しました。星野さんは、そんな施設を再生する際、徹底したマーケティングリサーチとともに、再生のための「道標=コンセプト」を立てるといいます。

しかし、このコンセプトの決定は、一般的な社長を頂点とする「ピラミッド型」で決定されるのではなく、「フラット型」といわれる、倒産したホテルの従業員、また経営不振の中にいる旅館の従業員たちが自ら決定していくという独創的なものです。現場の従業員たちは重要な仕事を任されると、自分で考え、自分で決めることに醍醐味を感じ、目を見張るほど、生き生きと働きだすといいます。そういう従業員の姿を見て、星野さんは一つの核心をもったそうです。「任せれば、人は楽しみ、動き出す」と。実に単純な発想であります。

この星野さんのスローガンを逆に考えれば、動けないということは楽しめていないから、楽しめていないということは任されていないから、何が任されていないかといえば人生であろう。自分の人生が自分自身に任されていない、ということになるなのかもしれない。

人間として、ひとつのいのちを任された。そのいのちは脈々と、自分の思いや計らいを超えた歴史が伝えたいのちである。そのいのちを受け取った私は、そのいのちを誰のためでなく、任された自分のいのちのために、いや任されたいのちが星野さん流にいえば、たとえそれが苦しいことでも、任せられることにより「おのずから楽しみ」そして「おのずから動き出す(生きる喜びを見つける)」。これも、そんな単純なことなのかもしれない。

まさに、それは「仏の説法を聞きて心に悦予(えつよ)を懐き、すなわち無上正真道の意(こころ)を発(おこ)し」(真宗聖典10頁)た法蔵菩薩のことではないでしょうか。

明年お迎えする宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマは「今、いのちがあなたを生きている」です。自分が生きているこのいのちは、この私に託され、任されたいのちなのです。

013亡き人と出遇う

高木彩

7年前に息子を亡くし、認知症で施設に入った妻には会うことすらできぬまま先立たれてしまったあるおじいさんの家へ、毎週お参りに行っています。

おじいさんはお参りの度に涙を流し、泣いています。最初は、死に目にすら合わせてもらえなかったことへの悔し涙でした。生前の妻からの手紙に「もう会いたくない」と書いてありました。「そんな悪い事はしていないのに」と、おじいさんの言い分もあったようですが、おじいさんが酔っぱらっていたこともあって、私は「厄介やなぁ」と思い始めました。

ところが、何回かお参りに行くうちにおじいさんの口から愚痴は無くなり、泣きながら「妻には酒で迷惑をかけたのに何もしてやれんかった」と、自らを悔やみ始めました。おじいさんは、一人になって初めて手を合わせることを通して、自分の思いばかりであったことに気づいたのではないでしょうか。

私は最初、酔っぱらいのどうにもならん人やと思い込んでいましたが、それは私の勝手な思い込みから、繋がることを避けようとしていたのでした。思えば、私はこの時に限らず、自分に理解できない人とは関わらないようにして、自分が共感できる人と付き合おうとしているのです。全てを共感している訳ではないのに、自分と思いを同じくしているように思い込む。自分の思いを超えない閉ざされた世界の中で「共に分かり合おう」としていたのです。

おじいさんの場合、妻と分かり合えていると思い込んでいたのに、実際は、妻は苦しんでいた訳です。「何も分からずにたいへんな思いをさせてしまったなぁ」というところに深い悲しみがあります。なかなかそのことに私たちは気づけないのではないでしょうか。お互いが都合の良いところだけで繋がることで分かり合っている気にはなりますが、それは自分の物差しをつかんで離さないまま、互いの違いには触れないようにしているだけなのです。

親鸞聖人が『歎異抄』で「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(真宗聖典640頁)とおっしゃっているのは、自分の物差しを離そうとしないのに、普遍的に善悪を決めつけることはできない、ということでしょう。

私たちの心がけだけでは、自分の思いを離れることはなかなかできませんが、お釈迦様は、それぞれが異なっているのだから、思いも違ってくるということを教えてくれています。私は、おじいさんとの出遇いを通して分かり合えていなかった深い悲しみから人が繋がっていけるということ、そして自分の持つ物差しの中でしか生きていないことに気づかせてもらいました。人との出遇いは、教えとの出遇いであり、自分の物差しに執着し続ける私のあり方を問い直し続ける、とても大切なものだと思います。

012大悲、ひきさかれたこころ

星川佳信

沖縄が日本に復帰したのは1972年、今から38年前のことでした。その復帰2年前、私は友人とパスポートを携え沖縄を旅しました。8月、夏の青く澄んだ海、サンゴ礁に群がる色とりどりの小魚、こんな世界があったのかという驚きでした。

しかし、戦後27年後の沖縄は、豊かな自然と程遠い現実が横たわっていました。そこは、どこの国とも言えない「異国」でもありました。この頃ベトナムは、大国アメリカと激しい戦争を繰り広げていました。アメリカ軍の劣勢が日に日に増し、戦争は泥沼化の様相を呈していた頃でした。

ベトナムから飛来する戦闘機、那覇はさながら米兵の慰安所でした。市街地は軍事基地そのものであり、人々は戦争との背中合わせの暮らしを強いられていました。私が目にしたのは、目の前を飛来する戦闘機B52でした。黒く燻された機体は「死の鳥」と恐れられ、不気味で巨大なものでした。その機体が市街地頭上に轟音をうならせ飛来してきます。その時初めてベトナム戦争を想像し恐怖を肌身で感じました。

敗戦後の27年間、沖縄はアメリカの統治下に置かれ、従属を強いられた。まさに軍事基地そのものでした。そして、戦後65年が経過した今も、変わらない沖縄の現状がそこにあります。

今再び、沖縄県は「普天間基地移設問題」で揺れ動いています。県外移設を求める沖縄県民の願い、受け入れを反対する沖縄県外の住民、分散移設を嫌うアメリカ軍、軍事基地ありきからでは答えは見つかりません。政治に翻弄され続ける沖縄には未だ「戦後」という言葉は当てはまりません。

『大無量寿経』に四十八願の展開があります。その第一願に「説我得仏(せつがとくぶ)、国有地獄餓鬼畜生者(こくうじごくがきちくしょうしゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく)」(真宗聖典15頁)と説かれています。「この国に地獄・餓鬼・畜生があるなら私は仏にならない」という法蔵菩薩の誓いです。つまり、人が人として生きることのできない世、国があるなら、私は仏にならないという誓いです。どこまでも人間の悲しみ・痛みに追随する仏のはたらきが「大悲の本願」であることを深く思い知らされます。

011『心をひらく』を点訳して

松下多鶴惠

十年も前です。孫も幼稚園、小学校へと進み、一人一人と私の手を離れていきました。さて、私はこれからどのように生きていこうかと考えた時に、夫の勧めでお寺へのご縁ができ、住職様に「特伝」の5期生として、仏法を聞かせていただく機会を与えていただきました。しかし、私には難しくて本当に分からないと思いました。

近くの朋友に「仏法は難しくてよう分からんわ」と正直に話しますと、その方は「分からんでもええの、分からんでも。仏法は身体で聞くんやでな、身体いっぱい浴びるほど聞いてきな」と話してくれました。私は今もこの話を思い出し、また仏法を聞きにいっしょに連れて行ってくださったことを本当にありがたく思っています。

また、住職様にテレホン法話『心をひらく』の本を紹介しいただいて「東員点訳友の会」の会長さんに点訳をしたいと伝えますと、「いいじゃない」と快諾していただき、会員の方々の協力を得て点訳をしています。

この冊子の中で私の心に残っているのは「命を考える」という文書です。私の命、私の身近な者の命は身に染みています。でも、「どこかの犬が誰かの車に轢かれて命を落とした」というこの文を読んでハッとしました。忘れかけていた大切なことを思い出したように、慌ててそわそわしたりしました。こんなことで本当に自分の命を大切にしているのかと自分に問うてみました。目を覆うような状態であっても自分の車が轢いたのでなければ、避けて通り過ぎてしまう私ではないだろうか?そんな私が見えてしまいました。

テレホン法話により仏法が身近にいつでも聞くことができ、何度も聞けるということは安心できます。特に近頃は嬉しいことの一つです。この本の点訳本が桑名別院に置いてあります。ご利用いただければたいへん嬉しいです。

010戴きものを知命

木造眞典

脊柱管狭窄症(せきちゅうわんきょうさくしょう)を戴いて、腰椎4カ所の金属固定の手術を受け退院してきました。退院すると、一日二日は面倒を見てもらえたのですが、三日も過ぎると。退院したのだから完治したと思うのでしょうね。体を直立にしていなければならない私。歩行器で家の中を動いている私。テレビのリモコンは畳の上、新聞も畳の上、屈めないのですよ。取ることができないのです。見られない、読めない。一日がなんと長いことか。夕方、家族が帰宅するのを待って「取ってくれ」と頼むと、「仕事で疲れているのにあれやこれやと言いつける」と。家族もそれぞれに生きているのだから、これも戴きものかと。

その内、家の中をリハビリで歩いているのが外に見つかりました。お見舞いを持ってのチャイムが鳴る。だが、段差のある所には動けない。夜、家族が対応する。それが広がる。来訪者が増える。だが、応対に出られない。チャイムの電源を切っていると、納戸の外まで来て「ご院さん」と呼ぶ。見舞いに行ったか行かないかが、門徒さんの関心事になっているようです。状況の見極めや気遣いよりも、義理ごとが優先するのかもしれません。

病院で入院した患者さんの所へ見舞いに押しかけて、亡くなった門徒さんが多くいることを私は知っています。本人たちは「間に合って良かった」と苦痛を強いたことに気づいてはいないのです。死に追いやるほど義理ごとが大事なのかと思います。こんな苦痛を味わって、自分のしてきた義理ごとが人を苦痛に貶(おとし)めていたのではないかと反省することしきりです。

けれども、人の体は不可思議なものです。老いを貰っても進化するのですね。退院した頃は足の感覚は何もなかった。敷居の段差を踏んでも分からなかった感覚が、2年経ったこの頃、少し分かるようになってきたのです。立っていられる、2時間ぐらい歩くことができる。正座も2時間ぐらいできるようになってきました。法務も一軒行くと広がって、日々増えてくるが、我慢の連続です。腰を折る時間の我慢と法務の広がり、これも戴きもの。我が計らいに非ずして、良きにつけ悪しきにつけ、いろんなものがやって来る。ありがたや、ありがたや。

どのような明日をも戴いていかなければならない自分であったと、この数年で知らされました。戴きものを避けられない私であった、いや、私である、ということであります。

009ゆるし

木名瀬勝

夫を自死で亡くされた女性がひっそりと隠れるように暮らしている。なぜ死んだのか、なぜ私を残して、なぜ相談してくれなかったのか、なぜ、なぜ、と思いながら。

そこに、周りの人たちの良識ある意見が追い討ちをかける。「辛いわね、早く立ち直ってね」という励まし。「なぜ止められなかったのか」という疑惑。「彼は命を粗末にした」という非難。残された遺族は、助けることができなかったという自責の念に押しつぶされる。

現代のような生きていくことさえ難しい社会になっても、自己責任という呪文によって問題は個人に閉じ込められてしまう。「ゆるし」とはどういうことか、と彼女に詰問されているように感じたのでした。

親鸞聖人が六角堂において観音菩薩より『行者宿報偈(ぎょうじゃしゅくほうげ)』といわれる偈文(げもん)を賜ったのは、あるがままに受け止められたという体験ではないでしょうか。聖人が苛まれていた罪の意識を丸ごと受け止められた時、自分に与えられた生き方を引き受けることができたということです。それによって罪を償う歩みが始まるのではないでしょうか。

自責の念とは、それまで当たり前に生きてきた世界が、差別と偏見と殺意に満ちていることに気づいたことでもあるのです。しかし、それだけでは諦めです。「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり。私が食べてきた生き物たちが、なぜ俺たちを殺すのかと怨むのであれば、私たちが住む場所はありません」とある先生がおっしゃるように、差別と殺意に満ちている社会を支えてきた私さえも許している大地を見出した時、この世界を善くしていこうという意欲が与えられるのです。これは、償う世界の発見です。

008恥ずかしい私の姿

内山智廣

それは半年ほど前、私が本山の同朋会館へ嘱託補導として上山した時のことです。お夕事の後、感話の時間になり、ある補導の名前が呼ばれました。通常は上山して来られた奉仕団のご門徒がお話をされることが多いのですが、その日は補導の名前が呼ばれました。何ごとかと思い様子を見ていると、その補導はスタスタと前へ出て「私は謝らなければなりません」と話し始めました。彼は自分が担当する奉仕団の方に感話をしてもらうよう、予めお願いしなければならなかったのですが、そのことを忘れてしまっていたというのです。続けて彼は「このご本山で感話をしていただくという大切な仏縁を、自分がうっかりしておったがために奪ってしまいした。本当に申し訳ありませんでした」と言いました。

その言葉を聞いた瞬間、本当に自分でも訳が分からなかったのですが、不意に目頭が熱くなり涙がこぼれそうになりました。慌てて一生懸命涙を堪えながら、同時になぜ自分が泣きそうになっているのか考えるのに精一杯で、後の方のお話は全く聞きことができませんでした。

少ししてようやく落ち着いてから考えてみたのですが、私も彼と同じ様に、担当した奉仕団の方に感話をお願いするのを忘れていたことがありました。その時、私はどうしたかというと、お夕事が始まってから強引にお願いして話してもらい、事無きを得たのでした。しかし、そこにあったのは「失敗したくない」「よく思われたい」という自己保身の思いだけで、相手のことは考えていなかったように思います。仮にもし感話を引き受けてもらえなかったら、ごまかすか、誰かのせいにしていたことでしょう。

親鸞聖人が書かれた『教行信証』に「無慙愧(むざんき)は名づけて人とせず」(真宗聖典257~258頁)というお言葉があります。「自分が犯した罪や過ちに痛みを感じることがなければ、人と呼ぶことはできない」ということですが、彼の「仏縁を奪ってしまった」という言葉を通して、我が身かわいさに人を傷つけるような傲慢さ、身勝手さを、恥ずかしいと知らせていただいたことでありました。

007イメージの詩

佐々木達宣

今から40年ほど前、紅顔の美少年とは程遠いニキビ面の私は、弾けもしないのに友だちから無理やり借りたギターを手に、周囲の迷惑も顧みず、当時流行っていたフォークソングを歌い、自己満足の世界に浸っていました。

ガロ、吉田拓郎、チューリップ、岡林信康…。同じくらいの世代の人にはとても懐かしい名前だと思います。その中でも吉田拓郎さんの歌が好きでした。そんな彼の歌の中に「イメージの詩」という曲があります。デビュー曲ということで、とても古い曲なのですが、その歌詞の中にこういう一節がありました。

自然に帰れっていうことは どういうことなんだろうか 誰かが言ってたぜ 俺は人間として自然に生きているんだと 自然に生きてるってわかるなんて なんて不自然なんだろう…

難解な詩で、当時中学生の私には意味など理解できるはずもなく、ただ何となくその言葉が心の中にひっかかったまま、40年の月日が流れて行きました。

最近のテレビCMで「あなたは、あなたのままでいいのだ」というフレーズを耳にします。これは故赤塚不二夫さんのアニメ「天才バカボン」に登場するバカボンのパパが、話の最後に必ず言う名セリフ「これでいいのだ」を引用しているのですが、「バカボン」とはインドの言葉で、世尊つまり仏さまの尊称を表しています。

私たちの生活の基盤は、名誉、貧富、健康など、世間でいうところの価値観の中に存在し、そして、その価値観が、時には他を傷つけ、自らを苦しめることとなっているのです。世尊は、そんな私たちに物差しで人の価値観を測ることの愚かさを説き、そして、常に私たちに寄り添い、人間はその存在こそが尊いと、「あなたはあなたのままでいいのだ」と教えられているのです。

さて、先程の歌の中の「自然」という言葉を「自由」という言葉に置き換えてみましょう。

自由に生きてるってわかるなんて なんて不自由なんだろう…

自由ということを、自然と捉えるのではなく、思い通りとするところに私たちの苦しみがあるのです。

006常陸(ひたち)国の親鸞聖人

荒木智哉

先日、茨城県を中心とした、親鸞聖人のご旧跡を訪ねました。

聖人は越後での流罪を赦免された後、家族と共に常陸(ひたち)の地(現在の茨城県)に移り生活を始めます。言葉も文化も異なる中での生活はたいへんな苦労があったと思います。聖人の生きた鎌倉時代は土木・灌漑の技術が発達しておらず、一度大雨が降ると川が氾濫し、人家はおろか田畑まで壊滅的な被害を受けました。その繰り返しのため、人々の暮らしはいつも不安と隣り合わせでした。一定量の食料が収穫できないということは生死にかかわる問題です。

その不安は大蛇という形を取って当時の伝説や説話に多く現れてきます。大蛇とは氾濫を繰り返す川の象徴であり、人々は自然の脅威を前にどうすることもできず、大蛇に対してその怒りを鎮めるために供物を捧げ、時には生贄を捧げるといったこともありました。恐らく聖人自身も関東での教化活動で立ち寄った村々でそのような出来事を見たり、聞いたりしたと思います。その一つの出来事の様子が、高田派に伝わる『親鸞聖人正明伝』の中にも出てきます。

聖人は若い頃比叡山で学ばれました。当時の比叡山では中国大陸の最先端の学問を学ぶことができました。今でいう総合大学の機能も備えていました。当時その中には土木・灌漑の技術も含まれており、聖人は多くの最先端の知識と越後での流罪生活での経験をもとに、関東の地で民衆に対して多くの技術を教え、伝えたのではないでしょうか。

伝説や挿話は近代歴史学においては軽んじられる傾向にありました。しかし、そのような伝説・挿話の中にこそ、その時代を生きた人々の様子がありありと描かれているのではないかと私は思うのです。

常陸の人々にとって、聖人はお念仏の教えを説くだけではなく、一緒に田畑を耕し、作物を育て、苦楽を共にしていった、たいへん身近な存在であったと思います。日々の交流を通して、お念仏の教えは自然に人々の生活の一部分となっていき、そして、その生活は今日まで綿々と受け継ぎ、伝えられてきたのです。

ご旧跡を巡る中で、人々に教えを説く聖人と同時に、人々とその生活の中に共に生きていった聖人という、二つの聖人像を感じました。優しいまなざしの中に秘められたどっしりとした力強さ、「となりの聖人」という人物像を私は感じずにはおられません。

あるご住職が言われた「私たち常陸の国の門徒は」という言葉が印象的でした。

005人生を思う

山﨑滿之

「時代という大きな流れの中で世の中全体が変わってしまう、人生や人の心までもが変わっていく」今日この頃であります。

私は過疎が著しく進む山間の小さな寺を預かる年老いた者であります。私が大人になった頃は「向こう三軒両隣」といったような言葉がり、助け合うという心がお互いの安心を支え、平和で豊かな村であったように思い出されます。今では住民の大半はお年寄りで、若者は生活の場を求めて村を離れ、したがって子どもも少なくなりました。時代という大きな力に流されていく淋しさを痛感しております。

平和と言われるようになり、日常生活には何一つとして不自由のない昨今でありますが、私たち人の生き方はこのようなことで本当の幸せと言えるのでしょうか。私には何か心の中を吹き抜けるすきま風のような淋しさが感じられてなりません。

今の時代は、品物が豊かにある一方で、人間として一番大切な心が失われている時代だと言わざるを得ません。信じ難い言葉でありますが、人間崩壊、家族崩壊と言われる時代であります。テレビや新聞報道などを目にいたしますと、本当に信じられないような事件の数々が、それも自分の欲望を満たすため、親が我が子に、子が親に対し手をかけるといったようなことが起きているのが現実であります。

心の無い人のことを「あれでも人間か」とか「畜生のような人」と言います。畜生にも動物の本能があって、我が子を危険から守るという心があるように思えます。人が心を失えば、他の動物とあまり変わりがないか、それ以下ということになってしまいます。だから、人には心が一番大切なのでしょう。

私たち人間は自分たちをこの世の中の万物の霊長と思い、宇宙の全てを支配しているかの如くに思い上がっています。今こそ、全ての生物の命を犠牲にし、その上に生かされているということ、縁によって生かされているということに目覚めなければならないと思います。「今、いのちがあなたを生きている」と。

今日でも、お年寄りの人たちと会話していると「ご縁をいただいて」とか「お陰さま」という言葉が話の中に出てまいります。このような言葉が無くならないよう、仏法を耕してまいりたいものであります。

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。