田代賢治
あけましておめでとうございます。
年末の桑名別院本統寺の報恩講には、御同朋の皆さまのお力添えをたまわり、おかげさまで滞りなく厳修できましたこと、心より御礼を申し上げます。本年もまた、どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、この時期にふさわしくない話になろうと思いますが、今の私にお話しできることは限られておるのであります。それは、私の母親、田代秀子が去る一一月一五日に九一歳でお浄土に還帰したことであります。歳が歳ですから、父母はもちろんのこと、連れ合いも早く亡くし、兄弟姉妹もすでに亡く、友人・知人も少なくなっており、「寂しい」というのがここ数年の口癖になっておりました。
それで私は、もう限られた人たちとだけの、いわゆる「家族葬」でも良いのでないかと、二つ年上の兄に相談いたしました。兄は大分県のお寺に入寺しておりまして、それを聞くなり「それは、いかんダメだ」と叱られました。それで私は、ハタと気づいたのであります。
身内だけの葬儀では、母親のいのちを狭い世界のものとして貶めることとなり、母親が如何に生き、どれだけの人たちと関わりを結んできたのか、彼女の生きた証として、彼女が最後に出来る社会的使命と責任なのだと思い直したのであります。したがって、広く「広め」をいたしました。「家族葬」は止めて、いわゆる「一般葬」に切りかえたのであります。
母親のことを思ってそうしようとしたのですが、実はそのことによって、結果的に喪主としての私自身の社会的使命と責任を果たすこととなりました。
ふだんから、いのちは「公け」のもの、いのちは「私有化」してはならない、いのちは広くて深いものと話しておりました私自身が、このていたらくでした。僧侶として慙愧するしかない、お恥ずかしいかぎりであります。
それを、母親が死をもって、私に教えてくれたことでありました。危うく大きな過ちを犯すところでした。
(三重教務所長 二〇一六年一月上旬)
テレホン法話集「心をひらく」第三七集をお届けします。昨年(2015年)1年間の24人のご法話を収めました。
さて、4月に熊本で起こった地震は、被災された方々へ、様々な支援が行われています。私もお金を送るという形で支援をさせてもらいました。が、同時に、困難に直面している人たちとひとつになれない自分を感じます。
私たちは様々な課題を常に抱えているはずなのですが、時にそれを見ようとしない自分もいます。そのような中でこの冊子に目を通していただいた今、あらためて自分の課題に向き合うご縁としていただけたらと祈念しております。発刊にあたり関係者諸氏のご苦労に感謝申し上げます。
(社会教化小委員会 幹事 梅田良惠)
池田 徹
「経(きょう)」といふは経(けい)なり。経よく緯(い)を持ちて匹(ひつ)丈(じょう)を成ずることを得て、その丈用あり。(『観経疏』)
―お経というのは、経糸(たていと)です。経糸は、横糸をよく貫きたもち、布を織り上げ、その織った布には、それぞれのはたらきがあります。
善導大師は、「お経(教え)とは、経糸である」と言われます。私たちの人生を一枚の布に譬えられます。布は経糸をしっかり張ることによって、横糸を渡すことができるそうです。経糸がしっかり張られていないと横糸をどれだけ渡しても、その布は用きを成さない、完成しないということです。あらためて、自分には経糸が張られていないことを教えられます。その場しのぎの、一貫性のない人生であると、炙り出されます。
仏教では人間のことを「機」と表現します。それは、「はずむ」ということです。「縁を生きる」我々は、「はずみ」の存在です。どこへ転ぶか、どんな自分に出会うのかは分からないのです。だから不安です。そんな「私」の生きる主体となるものこそが、経糸としての「経」(教え)だと言われるのです。
また、その経糸(教え)は、同時に「よく横糸を貫き持つ」という用きがあるのです。横糸とは、私が刻んできた歴史であり、歩みであります。しかしその重ねてきた時間は、「いたずらにあかし、いたずらに暮らして年月を送るばかりなり」(『御文』)と教えられるように、重大なことがあっても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、毎日の生活に追われて、忘却し続けているのです。大震災も、原発問題も、大切な人の死も、すべて自己関心の中で「通過」させてしまうのです。無関心、個人性に終始してしまうのです。その「通過」の人生を立ち止まらせ、問題を思い起こさせ、課題として保たせる用き、促しこそ、経糸であるお経(教え)です。その、お経(教え)に出遇うことによって、個人性、閉鎖性を知らされ、関係性、人間性を取り戻していくのではないかと思います。
今年は戦後七〇年、この国の方向転換が行われました。しかし、またそのことも時間と共に忘れてしまう日常の中で、その課題を思い起こさせ、向き合い直す視点こそお経(教え)であります。
間もなく今年も終わります。皆様は、どんな歩みを刻んでこられたのでしょうか?年の瀬にあらためて、「教え」を聞き、仰ぐ、という生活の大切さを憶います。
(桑名組・西恩寺 二〇一五年十二月上旬)
訓覇 浩
師走に入り、戦後七〇年という節目の年も残すところあと一月となりました。この「戦後七〇年」という言葉は、日本においては七〇年間、戦争によって、一人の人も殺されず、一人の人も殺さなかったということを表します。このことは、この上なく稀有な、また尊いことであると言わねばなりません。
ではなぜそのようなことが私たちの上に起こりえたのか。
それは「日本国憲法」、とりわけ戦争放棄を謳う第九条が、日本にはあったからだと思っております。
この「日本国憲法」について、かつて、鈴木大拙先生は、「「日本国憲法」は世界の他の国々のものと違ひ、自国の人々と他国の人々との血を流して書き上げられたもの」であり、戦争放棄の条項は、「戦争中に言語に絶した苦しみ悩み惨めさを体験したその心理の結晶と論理の帰結とに外ならない(全集六巻)」と語られています。
この言葉からも、戦争放棄は、戦争でいのち奪われた方々の、苦しみと悲しみ、またいのちを奪ってしまったものの痛み、苦悩から、私たちが「与えていただいたもの」と受け止めることができるのではないでしょうか。日本国憲法という形となった「非戦への願い」が、戦争を欲してやまない、人間の闇を照らし続け、ぎりぎりのところで、奇跡的ともいえる七〇年を生み出したのだと思っております。
しかし、現在の状況は、日本においても、戦争がそこまで迫ってきていると言わざるを得ません。今年初めの日本人人質の虐殺は、生々しく人々の脳裏に記憶され、連日報道されるテロ事件と、それに対して、多数の国が軍事行動に参加するさまは、もはや世界戦争前夜の相を呈しています。それに伴い、人々のこころも荒廃し、憎しみは憎しみを呼び、テロへの怒りは、敵とみなす人間への怨みを増幅させ、ついには人のいのちを奪うことまで正当化し、人を殺すことの罪悪感さえ奪っていきます。戦争放棄に結実した悲しみの力を踏みにじった「安保法案」が成立し、ヘイトスピーチなど、そしりの言葉が巷にあふれています。人が人でなくなっていく過程を、私たちはまさしくいま歩みはじめようとしています。
「非戦」とは単に戦わないということではなく、人を人でなくす戦争というものの絶対否定です。いかなる理由があっても戦争を否定する。私たちは、いま、戦争でいのち奪われた方々からの「非戦の願い」に、いま一度「私の非戦の誓い」として応えていくことが求められているのだと思っております。
(三重組・金蔵寺 二〇一五年十二月上旬)
花山孝介
親鸞聖人は、今から七五〇年ほど前の弘長二年(一二六二)十一月二八日に九〇年の生涯を閉じられました。当時としては、破格の長生きをされた聖人ですが、その人生は決して順風満帆ではありませんでした。
無実の罪を背負わされたり、家族を持つ中で様々な心労や苦難を経験されました。「何故私だけが・・・」という愚痴が出たことも想像できます。しかし、そのような人生であっても、自分を見捨てることなく最後まで生き尽くされました。何故、その様な人生を歩めたのか。そこには法然上人との出遇いを通して、人生の灯となる「ただ念仏せよ」という真理の言葉との出遇いがあったからです。そして、私に呼びかける仏陀の言葉を聞き続けながら、人生を完全燃焼されました。
迷いの原因も知らず、ましてや深い迷いの中にいることさえも知らず、ひたすら自分の都合にあうご利益のみを求めたり、平生は仏の教えにも耳を傾けることもせず、不都合が起これば一喜一憂しながら、その場しのぎ的に祈っている私に対し、「本当に今のままでいいのですか?」「自分の人生を大事にしていますか」と呼びかけられている親鸞聖人の教えに、今こそ人生を尽くす道を聞き開いていく時だと思います。そのために、まず「聞法」の第一歩を踏み出すことが大事です。
(員弁組・遍祟寺住職 二〇一五年十二月下旬)
渡辺浩昌
先日、名古屋にて薪能を観劇しましたが、以前にも歌舞伎は観たことがあり、同じように分かりにくいものかと思っていました。しかし、その能楽がはじまる前に「分かろうとしないで下さい。感じて下さい」という説明がありました。
演目は『船弁慶』でしたが、観ていると、鼓、太鼓、笛等の楽器、そして謡(うたい)の発声、更には舞と大変迫力のあるものであり、本来変化するはずのない能面の表情がそれらの楽器等によって様々に変わるのです。語られる言葉は分かりませんでしたが、表現しようとするものが目や耳、肌を通して伝わってきました。事前の説明にあったように、日本の文化は頭で分かろうとするものではなく、感じるものかと思いました。
後日、名古屋にある能の歴史や伝統などを伝える能楽堂で多くの能面を見学する機会を得ましたが、その中でも『姥捨て山』を演じる時に使用する姥の面に心を惹かれました。その表情は微笑んでいるようにも見え、悲しんでいるようにも見え、老人ホームに入っている私の九七歳の母親の顔にも似ていました。能面とは見る者自身の心を写し出すものかもしれません。
ある本には、「姥捨て山」の伝説は単に老婆を捨てるということだけでなく、人間が生きていく上で作らざるを得ない罪業性を象徴していると書いてありました。
他の能楽は観ていないので分かりませんが、能楽とは古来より人間が生きる上での歓び、悲しみを多くの人々に表現してきた歴史をもつものでないかと思いました。
昨今はかつてない仏像ブームともいわれ、京都やら奈良のお寺へ足を運ぶ人が多くなっているといわれます。ひょっとしたら、仏像、菩薩像に見失いがちな自分自身を取り戻そう、感じ取ろうとしているのかもしれません。
(員弁組・西願寺前住職 二〇一五年十一月上旬)
海野真人
私たちは、普段忙しさに紛れて生活していますから、いつの間にか「生きていて当たり前。今晩寝たら必ず明日目が覚める。」と疑わずにいます。ですから、私たちが人間の身を持って今ここに存在していることの裏には大きな背景がある事を忘れてしまいます。私を支えてくれる背景を見失ってしまうと、すべてが当たり前になり、思い通りを求める自己中心的で独りよがりな考えになってしまいます。
たとえば、私の胸では今心臓が動いてくれています。これが止まると私の命も終わります。でもそのことを意識することはまずありません。黙々と動いていてくれることに感謝する事もあまりありません。人間の体は六十兆個の細胞で出来上がっているそうですが、その一つ一つがどんなはたらきをしているか、頭では把握もできません。でも、それぞれがそれぞれのはたらきをしてくれているお陰で、こうして存在することができています。
体が健康であっても、私を取り巻く環境が整ってなければ生きてはいけません。私たちがいるこの地球は、太陽から絶妙な位置にあるおかげで空気や水をはじめとして、生きていくのに不可欠な物が揃っています。もし、太陽がなくなったら五分と生きてはいられないでしょう。こうして一つ一つ挙げていけば切りがない、とてもすべてを見通すことのできない無数の条件によって私達は存在していられるのです。まさに吹けば飛ぶような命です。米沢英雄師にこのような言葉があります。
「吹けば飛ぶこのいのちを生かすのに 天地宇宙総がかり」
と。私が今ここにこうして人の身を持って存在していることの背景はこんなにも大きいのだと、知らせていただける言葉だと思います。しかし、背景といい、お陰さまといい、表には出ないのですね。あくまで「背中」であり「陰」なのです。自分の背中は鏡がないと見えません。陰は光がないと陰だと気づきもしません。鏡も光も自分の中にあるものではありません。鏡のはたらき、光のはたらきをしてくれるのは仏様の智慧のはたらきです。
仏様の智慧のはたらきを実感できるように、これからも聞き続けていきたいと強く感じています。
(二〇一五年十月下半期 中勢二組法因寺住職)
種村茂
私はこの十月で六十四歳になります。在家の者で現在家族は妻と娘そして知的障害の妹と四人で暮らし、息子は社会人となって県外で一人暮らしをしております。私は六十歳で会社を退職し身軽の身となりました。今の生活は早朝の静かなひとときに、今までのいろんな方から教わった体操などを一時間くらいかけてゆっくり行い、そのあと趣味のクラッシックギターを弾いて楽しみます。普段は諸用事をこなしつつ空いた時間が出来たりすると、しゃがんで草抜きや庭先の畑で少しの家庭菜園や園芸をします。
今思えば父は施設・病院と六回くり返し、その都度検査して、そして六年前に病院で亡くなり。母は、その後しばらくして施設に入ってもらって、三年前に施設で亡くなりました。私は母が亡くなる頃から十キロくらいやせだし、私なりに大変な時期がありました。今ではぐっすり眠れるようになり、とても有難く目覚めの時は感謝です。また自宅での朝夕のお勤めは都合でできない時もありますが、ほとんど毎日のごとく称えております。
今振り返ってみると、私が三十代後半の頃お手次の住職に声をかけていただき、その流れのまま仏法の場へ行って推進員となり。聞法の場では講師の先生をはじめ先輩や同年代の方々との出会いがあり、そのおかげで仏法の場が広がりました。今も手探りで迷いつつ今しかないという気持ちが仏法へと聴聞出かけております。
(二〇一五年十月上半期 浄泉寺門徒)
山崎信之
私が生活している多気町土屋というところは、過疎化が進み、高齢の方が増え、若い方が少ない地域であります。となりの松阪市内まで出るには車でおよそ三十分かかり、何をするのにも不便な地域なのです。ですので、仕事のため出ていかれた若い方々は外で所帯を持ち、帰って来られる方もとても少なくなり、現在生活されておられるほとんどの方が年金生活を送られている方になります。
そんな環境の中でも、これまでのようにとご門徒と協力しながらお寺をなんとか支えていますが、お寺の役員をお願いできる方も近年では、お寺の役以外に地区の様々な役を重ねて引き受けられるというのが現状で、例年通りしてきたことが徐々にできなくなり、お参りに来られる方も少しずつ減少傾向にあります。
しかしそんな中でも、お参りはさせていただきたいとお寺に足を運んでくださる方もおられます。その根底には、親鸞聖人より有縁の方々を通して私達へと本願念仏のみ教えが届けられているというまぎれもない事実があるのだと思います。
御同朋御同行の言葉の通り、念仏申す者、親鸞聖人の教えに学びたい者、各々が自分の関わり方でお寺に関わって下さる。それがお寺という場を実現し続けているのだと私は感じます。
現在、私のお寺には『同朋の会』と言える集まりはありませんが、一緒に歩んでくださるお同行の方々と、苦労を共にしながら、お寺を中心に、この過疎化した地域で生き抜く道を歩んで生きたいと思います。
(二〇一五年九月下半期 南勢2組 福壽寺住職)
伊藤誓英
本堂を新築して約十年になります。それが今年の六月頃より鳩が来るようになり、虹梁(こうりょう)と呼ばれる横柱などにとまりだしました。その結果、おびただしい量の糞害です。鳩の糞にはたくさんの病原菌が含まれているそうで、お寺にご参拝されるご年配の方々に健康被害が及ぶことも考えられますし、小さな子どもを連れてお墓参りに来られる方もみえますので何とかしなくてはなりません。
それまで鳩との間に何の利害もなく、私にとってはよく見かける動物の一種であり、犬や猫を見かけるのと同じでした。しかしこの時より、私にとっての鳩は駆除すべき存在になりました。別に私は鳩を殺すつもりはなく、ただ鳥除けが取り付けられるまでの間、竹竿で追い払っているだけですが、もし卵を見つけてしまったらどうするかです。保護しても、人工的に孵化させ、育てるのは困難だそうです。見逃せばきりがない、でも生まれてきた命。仏さまの「不殺生」という教えが耳に痛く感じます。
昨今、「いただきます」という言葉が失われつつあると聞きます。一般家庭だけではなく、学校給食でも不要ではないかと言われる事があるそうです。どうしてそのような問題が起こってくるのでしょうか。それは他のいのちを奪うことで、自分のいのちが保たれていることに目を背け、大切な事実を伝えていくことをやめた結果ではないでしょうか。
「不殺生」や「いただきます」など、私に届けられている大切な言葉があります。しかし、それに背き、忘れてしまう現実があります。その事実に気づかされた時。その狭間で「申し訳ない」と痛む心に、常に照らしてやまない仏さまの大悲の心が見えてくるのだと思います。常にあるべき在り方、生き方を忘れるなとのメッセージではないでしょうか。
(二〇一五年九月上半期 桑名組明圓寺住職)
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