005 「子供時代のあとに」

箕浦暁雄

イシグロ・カズオの小説『わたしを離さないで』のなかに、臓器提供するためだけに生まれてきた子供たちが全寮生活で特別の教育を受けて育てられ、大人になっていく世界が描かれています。寮生活が終わると別の場所で生活をして、やがては臓器提供者の介護に就き、後に自らも提供が始まります。小説のなかでは、だいたい四度の提供で命を終えていくという状況が描かれます。たいへん不条理な世界です。不条理でありながら、寮生活はどこか牧歌的に描かれます。子供たちはなんとなく疑問に思いながらも、その状況に甘んじ、本当はどうなりたいのかはっきりしません。人は不条理な境遇に慣れる。何に対しても慣れてしまう。不安になりながらなんとなく受け入れてしまう。こんな状況が完璧なまでに用意周到に描かれる小説です。

自分がいまどんな位置に立っているのかはっきりしない。将来もはっきりしない。それがいつのまにかゆっくりではあるけれども、自分の位置が徐々にはっきりしていく、だんだん将来がはっきりする。〈子供時代〉とはそういうものだと思います。

仏教徒たちは長い年月の間に仏陀の伝記をたくさんつくりました。仏陀の伝記には青年時代の姿すなわちゴータマ・シッダールタの姿が描かれています。国王であり父親であったシュッドーダナは、息子ゴータマが青年時代特有の悩みを持たないように〈保護〉して育てます。仏伝作者たちは、人の生涯のなかで〈子供時代〉というものが持つ意味をよくわかっていたと思います。一方、作家イシグロ・カズオは、人間というものを鋭く観察して、まるで仏教の課題が定まってくる背景にあるものをよく知っていたと言えるほどに、実に巧みに〈子供時代〉を描き出すことに成功しています。

ゴータマは苦悩する人がいかにして豊かに歩むことができるかを問いました。これが仏教の根本課題です。本当は何をしたいのか明確でない。かといって何も意思がなく、将来像がないわけでもない。何かぼんやりとした不安があり、そんな状況を受け入れながら、その境遇に慣れてしまう。我々の日常のこうした状況がまずあって、そのなかからいかに歩むべきなのかという問いが生まれてくるのです。

うちの子供たちは、仮面ライダー変身ベルトをつけて跳び蹴りし、長い棒をふりまわし、ものをぶん投げて、毎日怒られながら、皆に見守られています。こんな姿を通して、人が歩んでいくことの難しさについて考えています。

(桑名組・專明寺・住職 二〇一七年三月上旬)