022 金木犀の思い出

海野 真人

秋になるとうちの境内でも金木犀の花が何とも言えない芳醇な香りを放ちます。この香りを嗅ぐと、私は必ずこんな出来事を思い出すのです。

何年か前に私が年忌法要にお邪魔したお宅で、お参りに来ていた方が雑談の中でこんなことを言っておられました。「最近の金木犀はどうも匂いが薄くなった。前はもっと強く匂っていたのに」と。そして「これは酸性雨のせいだろうか?」とか「地球温暖化の影響だろうか?それとも知らない間に品種が変わったのだろうか?」等々いろいろな理由をあげておられました。でも、どうもスッキリしないご様子でした。それを聞いていたお相手の方が一言こんな風に言ったのです。「あんたなあ、それはあんたが年取って、鼻が鈍なっただけ!」と。その瞬間その方はパチッと手を打って「そうか!そういうことか!やっとわかった」と言われ、とてもスッキリとした明るい顔になられました。それを見て私は、「人が気づく」ということはこういうことだと思いました。

私たちは、日頃どういう訳か、知らず知らずのうちに「自分は変わらないし、自分は正しい」というつもりでいるのではないでしょうか。だから自分のことは棚の上において、いつも外に問題を見つけようとします。この場合で言うと「酸性雨や地球温暖化や品種」を疑うということです。自分に問題があるということには中々気づきません。しかし、今回「あんたが年をとって、鼻が鈍くなっただけ」という親しい方のキツイ一言で、問題が自分にあったと気づかされ、そして明るく解放されたのです。「年とって」の一言にカチンとくる人もいる中、この方は明るくスッキリした顔で「よくわかった」と感謝し、喜んでおられました。「気づかされる」ことによって明るく解放されるということを間近に見ることができて、こちらも思わず笑顔になりました。「報恩」というとつい難しく考えてしまいますが、意外と身近なところにあるのかもしれません。金木犀の香りが漂ってくると今もそのことを思い出すのです。

(中勢二組・法因寺住職 二〇一八年十一月下旬)

021 報恩講について

諏訪 高典

今年も報恩講の季節がやってきました。真宗門徒にとって最も大切で、最も大きな行事であります報恩講は、宗祖親鸞聖人のご恩に報いる仏事です。

聖人が亡くなられたのは弘長二(一二六二)年十一月二十八日、新暦では一月十六日。それ以来、親鸞聖人を偲び、毎月二十八日にお念仏の集まりがもたれました。講会として形式を整えられたのは聖人の曾孫にあたります覚如上人であります。覚如上人は親鸞聖人滅後の三十三回忌に『報恩講私記』をお作りになり、これに基づいて法要形式を定められました。今から七百年以上前のことであります。この『報恩講私記』が親鸞聖人のご命日に読まれるようになり「報恩講」と呼ばれるようになったとされています。

「報恩」という言葉はもともと中国で出来た言葉でその意味は「恵みに報いる」ということであります。特に中国では子どもを育ててくれた両親に対する報恩が強調されています。日本でも道元禅師や日蓮上人などは父母の恩を強調されました。

親の恩が尊いことは勿論ですが、親鸞聖人は仏恩と師恩を強調されたのであります。仏恩とは念仏一つで救ってくださる阿弥陀仏への恩。師恩とは親鸞聖人の師であった法然上人への恩であります。実際、聖人は法然上人滅後、報恩のお念仏、すなわち報恩講を営んでいたとされています。報恩の報は「むくいる」という意味、恩とは「なされたことを知る」です。講は「集まり、集い」ということです。したがって報恩講とは親鸞聖人のご恩に報い、一つの場所に話す人、聞く人が集い、そのご恩を明らかにするということになります。

真宗各本山で行われる報恩講を「御正忌報恩講」と呼びます。御正忌とは祥月命日のことで、大谷派は昔通り十一月二十一日から二十八日まで御正忌報恩講が勤まります。本願寺派、高田派などは新暦に改めて、一月九日から勤まります。「仏恩を知り、仏恩に報いる生き方ができる人間になろう。それが幸せな人生を生きる道である」と説かれました。

真宗門徒にとって最大最高の恩人は親鸞聖人に外なりません。往生浄土への道をお説きになられた聖人のご恩に報いるためにも、本山だけでなく、各寺院にもお参りし、さらに各家庭においても報恩講をお勤めさせて頂かねばなりません。それが真宗門徒にとって大切なことであり「報恩講」は個人の信仰から地域社会への固い絆へと浸透していくのであります。

(二〇一八年十一月下旬 桑名組・了嚴寺住職)

020 こおりおおきに みずおおし

入野 由美

冷え込みが厳しく氷が張る冬は身にこたえます。しかし春になり、その厚い氷が水になると、田畑を肥えた土にしてくれる。昔から言われていることです。

こおりおおきにみずおおし

さわりおおきに徳おおし

(『真宗聖典』四九三頁)

親鸞聖人がのこされた言葉ですが、還暦を迎え私のこれまでを振り返ると、本当にその通りだと思わずにいられません。

母や、主人の父母の死病に寄り添い、苦しんでいる姿に何もできない自分や周りの人にいら立ち、眠れない日々を数年過ごしました。

姑を見送った一年後に、自分にも癌が見つかり、肺を一部切除する手術を受けました。

集中治療室から一般病棟に代わってからの日々は、今でも鮮明に覚えています。初めて経験する身の置きどころのない痛み、高熱、胸の水を抜く時の激痛、息をするのが苦しく痛みで眠れないまま、まっ暗な闇の中で、看病していた家族のことが頭によぎりました。こんなにも苦しく不安な中で過ごしていたのか。心細くつらかっただろうな。気遣ってあげられず申し訳なかったなと。本当に身を持ってやっと知り得たことでした。

私の病は八年が経過し、検査は続いていますが、家事仕事ができるまでに回復しました。腰や膝が痛んだり、物事が思うようにいかなかったりすることもありますが、以前より気に病むことが少なくなったように思います。

入院中、家族の支えや看護婦さんの優しさを有難く嬉しくおもいました。退院してからも、心配しながらお世話して下さる周りの方々に、勇気づけられる日々でした。家族の看病に明け暮れ、自分までも大病をした「さわり多き」日々を経験したことは大切なことでした。人の温かみ優しさに感謝し、当たり前の暮らしの貴さを思い、他の人の痛みや苦しみを感じるようになりました。

これからの人生も何があるか分かりませんが、毎日毎日を感謝しつつ過ごしていきたいと思っています。

(二〇一八年十月下旬 員弁組・了雲寺坊守)

019 お育て

川口 信隆

我が身に出て来て下さるお念仏はまさに「お育て」であると気づかされる事がありました。

私が懸命にダイエットに励んでいる時のことです。ある七十代の父親を亡くされたご家庭の満中陰の御法事です。お経を勤め、法話も終えたところ「どうぞ会食していってください」とのことでした。親族の方々とお話しをしながら御膳を頂き、そろそろ失礼させて頂こうかと考えていたところに、その家の娘さんが、大きなお皿に山盛り一杯の「おはぎ」を持ってこられたのです。私はダイエット中でしたが、観念して小皿に一つ「おはぎ」を取らせて頂きました。よく見るとその「あん」には何か混ぜ物をされているようで、少し緑がかった「あん」でありました。頂いてみるとあまり甘くはなく美味しかったのですが、独特の風味が残っておりました。そこでわたしはその娘さんに聞いてみたのです。「このおはぎはあまり甘すぎずに、おいしゅうございました。しかしあんの中には何か混ぜ物をされておられるんでしょうか」と。

すると娘さんは答えられました。「はい、このおはぎのあんには、父が生前に育てておりましたそら豆をすりつぶして入れさせて頂きました。お口に合いませんでしたか」と心配されながら、さらに続けられました。「父が畑を耕し種をまき、こやしをやり水をやって、そら豆が実をつけました。父の作ったそら豆はこれが最後となりました。しかし父は私になくなることのない実をお育て下さいました。それはお念仏です。小さな時から朝な夕なと、私を抱きかかえ、ひざの上に乗せては一緒に手を合わせ「お念仏しようね。ナマンダブ、ナマンダブ」と私の心を耕し、お念仏の種を植え、お念仏のこやしを、水をやり、私の口にお念仏の実がこぼれでるようにお育て下さいました」と涙ながらにお話しされたことであります。

共々に「お育て」の身を喜びお念仏申させていただきましょう。

ナマンダブ、ナマンダブ。

(二〇一八年十月上旬 伊賀組・浄蓮寺衆徒)

018 普通というものさし

服部拓円

私たちは世間で求められている「普通」に生きようとしています。

そして特別優秀でもなく、特別劣悪でもない当たり障りのない「普通」でありたいと思っています。

「普通」とは「あまねく通ずる」広く通用することを指すようではありますが、よくよく考えると大変困難な生き方のように思います。

まるで全ての人に通じる個性を「普通」として錯覚しがちですが、実際は個性や自分らしさといったものではなく、世間が作り上げた「普通」でしかありません。

世間で言われる「普通」でいようとする為には、周囲を気にして自分らしさを抑えるだけでなく、自身を変えたり、つきたくもない嘘をついて窮屈な思いをすることとなります。私たちそれぞれに違うはずの「普通」を、広く通用する「普通」が忌み嫌うからではないでしょうか。

私たちは日常会話の中で「普通」を一見当たり障りの無さそうな表現として無意識に使われる事が多いかと思います。

例えば「普通そんなこと言いますか?」といった表現があります。

自分の思惑通りでない相手の言動に対して、「普通」という言葉を使うことで、自分の立場の正当化を図ると同時に、相手への非難をより強める言い方と言えます。

また「普通の生活を満喫できれば」といった表現では、一見謙虚に見えて、本心では今より水準の高い生活をおくりたいといった要求をしているように感じ取れます。

広く通用する生き方・言葉としての「普通」とは、実のところは世間から求められる「ものさし」であったり、私の求める水準の「ものさし」であるといえます。それに私たちは苦しめられたり、相手を苦しめたりしてしまうのです。

しかしながら「ものさし」は価値観であり、世間を生きていく上ではなくてはならないものです。ですから、私たち人間は、それを捨てることは出来ません。

「ものさし」を手放せない私たちは、自身を飾ったり嘘をついたりと四苦八苦するばかりです。

はかることを必要としない「ものさしのいらない世界」を「阿弥陀さまの世界・浄土」といいます。浄土に目覚めなさいと、常に阿弥陀さまはよびかけておられます。

「ものさし」を持たずにはいられない。そうして持つことによって人を傷つけずにはいられない。そうした私たちの本当の姿は、「ものさしのいらない世界」に出遭うことでしか気付けないのです。

(二〇一八年九月下旬 三講組・圓福寺住職)

017 届けられたお念仏

小幡 実穂

毎月二十八日、西光寺の本堂に歌声が響き渡ります。ご門徒の皆様と亡き母で作り上げられた女性同朋会。雨の日も寒い日も忙しい合間をぬって皆様が本堂にお集まりくださいます。正信偈のお勤めをし、仏教に関する文章を読み、お菓子を食べてお喋りして、仏教讃歌を歌います。沢山の曲の中でも「なんまんだぶつの子守歌」は毎回必ず歌います。

なんまんだぶつ おじいちゃんのお念仏 お前はひとりじゃないんだよ 親鸞様もいなさるよ

なんまんだぶつ おばあちゃんのお念仏 いただきますありがとう 忘れず大きくなっとくれ

なんまんだぶつ 小さな子供と手を合わす 数えきれない人たちに願われ生まれたお前だよ

何度歌っても、胸が熱くなるのです。

先日、お孫さんを二人連れてご門徒さんがお寺にみえました「この子達、念仏したいっていうから連れてきたの。悪いけど本堂でお参りさせて」導師はおばあちゃん。キン役は七歳のお孫さん。ちょっと独特な節回しの正信偈が本堂に響きます。お孫さんも変わったところでキンを打ちます。でもとても楽しそうです。三人は満足げにニコニコ笑顔で帰っていきました。

偶然にもその日は児連キャンプから帰ってきた日でした。女性同朋会に来て頂いている方のお孫さんが参加してくれたのです。キャンプ中、おばあちゃんから渡されたお念珠を手にし、赤本を開いて一生懸命お勤めしていた姿がとても印象的でした。

こうやって次の世代にお念仏は伝わっていくんだなあとしみじみ思うのです。『財産遺(のこ)して銅メダル 思い出遺して銀メダル 生き方遺して金メダル』という言葉があります。「南無阿弥陀仏」を伝えることはまさに金メダル級に値するのではないかと思うのです。

そして、簡単に南無阿弥陀仏と称えていますが、実はこのお念仏は、お釈迦様の時代から海を越え、様々な苦難を乗り越えて、沢山の人の願いと共にこの私にまで届けられたものだ、ということに改めて気付かされるのです。

(二〇一八年九月上旬 南勢一組・西光寺坊守)

016 仏法と向き合う

新野 和暢

この夏に入って四〇度を超えるような暑い日が続いております。豪雨などの自然災害が頻繁に起こる日々にあって、最近私は、これまでにも増して天気予報や地震情報など、今後予想される状況を確認するようになりました。

観測する科学技術が発達し、これから降り出す雨を予測することが容易になったり、スマートフォンのアプリには、地震の規模をいち早く伝え、何秒後に私が居る場所が揺れ出すのかということまで教えてくれたりするものもあります。いつどこで見舞われるのか分からない自然災害に備えたい気持ちを持っているのです。しかし、よくよく考えてみますと、どれだけ情報を集めても想定内に納まることの方が珍しいのではないでしょうか。それは、親鸞聖人が生きた時代も例外ではありません。

聖人が関東に御滞在されていた一二一四(建保二)年の二月には、幕府の置かれていた鎌倉で大地震が起こったことが記録されておりますし、大雨による洪水や飢饉も頻繁に起こっていたようです。そうした自然災害に対して向き合った一つのエピソードが伝えられています。それは「衆生利益」の為に、お経を一〇〇〇回読もうとなされたことです。

佐貫という場所におられた四二歳の聖人は、自然災害で苦しむ人々を目の当たりにして、「何とかできないものか」と案じて、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)を読もうとなされました。当時は、お経の功徳で願いが叶ったりするといった迷信が広まっており、まじないのようにお経を何度も読むことが民衆に受け入れられていたようです。聖人もそれを請われて、多くの人々の利益になればと考えたのかもしれません。

ところが聖人は、四・五日ほど読み続けて中止しました。なぜなら「名号の他に、何事の不足があって経を読むのだろうか」と思い返したからです。名号とは「南無阿弥陀仏」のことです。「南無阿弥陀仏」の教えに事足りていないような向き合い方をしてはいまいか、という身の事実に気づかれたのです。

我々は、あらゆることを予見して克服しようとします。しかし、その一方で、想定外の出来事が起こると、目に見えない力をも期待してしまいます。自分にとって都合の悪い出来事や、認めたくない事実は沢山あります。思い通りになることよりも、思い通りにならないことの方が多い毎日です。自然災害を伝えるニュースを見聞きする度に、自分も何か出来ることがないかと考える一方で、目を背ける私も居ます。このエピソードはそんな私に、阿弥陀仏の願いの確かさを伝えてくださり、私にとっての仏法とは何かという問いを突き付けているのではないでしょうか。

親鸞聖人の生き方を通じて、日々の生活の中に息づく仏教とは何なのかと、あらためて考えてみてはいかがしょうか。

(二〇一八年八月下旬 員弁組・泉稱寺住職)

015 病院でのできごと

竹林加代子

夫が眼の手術をした時のことです。その日、同じ手術を受けるという七十代くらいのお母さんと付き添いの娘さんが、私たちのいる手術前に待機する部屋に入ってきました。初めのうちは、四人はそれぞれの思いを抱き無言でしたが、看護師さんが度々訪れて手術前の処置をするうち、名前も知ることになり少しずつ言葉を交わすようになりました。しかしお母さんだけは無言でした。

やがて昼食が運ばれてきました。お母さんはほんのわずかを口にしただけで、箸をおきました。とてつもなく大きな不安と緊張の中にいることがよくわかりました。何とか声をかけ、少しでも気持ちを軽くしてさし上げられたらと思いましたが、それは私の思い上がりだと気づき、言葉をのみこみました。

夫の手術が始まり、順番を待つお母さんは、娘さんと離れて手術室の前に移動しました。その時、がっくりと肩を落として、うなだれていたその姿を見て、娘さんが小さな声で、おずおずと私に「あのう、すみませんが私の手を握っていてもらえませんか」と言いました。思いもよらないその言葉に驚きましたが、素直で率直なその申し出を「いいですよ」と受けて、両手で娘さんの手を包みました。見守るしかできない娘さんも、お母さんと同じように、いえ、それ以上に不安と緊張の中にいるのでした。とてもとても長く感じられる短い時間が過ぎました。その間に娘さんがポツリポツリと話しはじめました。「うちのお母さんはすごく心配性で、私には言わないけどきっと、二、三日前から眠れていないと思う」と。話すことで自分を落ち着けようとしているのかなと感じました。「そう、そう」という言葉だけ返し、手をさすりました。

しばらくして手術を終えた夫が戻ってきました。「心配やろうけどな、痛いこともあらへん、すぐに終わる、大丈夫や」と娘さんに声をかけました。その後、半時間足らずして、お母さんは娘さんの許へ戻りました。この時の二人の安堵はどれほどだったでしょう。娘さんの手は自然と私の手を離れ、お母さんの両手を包んでいました。

ひと息ついた後、今日初めて会った人に、あれやこれやと喋ってしまってと、娘さんは少々気恥ずかしそうでしたが「お互い無事に済んでよかった。明日もお会いするかも分からないけど、お大事に、お元気でね」と声を掛け合って別れました。少しは娘さんの心の手当てをさせていただけたかなと、思いながら我が家に向かう私でした。

(二〇一八年八月上旬 中勢二組・超泉寺坊守)

014 転(てん)

酒井 誠

仏教とはどのような教えなのか? 聞いてみますと無常とか涅槃という言葉を思い浮かべる方が多いようです。

では無常とはどのようなことでしょうか。人の死、移ろい変化してゆくことが無常であると言われます。その通りですが、それではあまりにも常識的すぎます。

無常、無我ということは、常や我という、私という存在を根拠づける、常にあって変化しない実体はない、ということです。他宗教では、私がここにこのようにして在るというありかたの根拠に創造神などの実体を立てますが、仏教はそういう実体を否定します。つまり私の存在には根拠がないのです。

そこで思い起こされるのは親鸞聖人の和讃

本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

(『真宗聖典』四九〇頁)

です。空しくすぐるということは、空っぽのまま終わってゆくことです。

私たちは、空っぽのままの人生や根拠のなさに耐えられません。ですから名誉や財産、家族などを手に入れては充実した人生であると思い込ませています。或いは歴史のある血筋や皇国史観を支えにします。しかしそういうものに価値をおいてもどこか満たされないのではないでしょうか。

そう言ってしまうと非常に暗い話になってしまいます。ですが無根拠なる存在である私が、空しく終わることのない人生を歩むことができるのです。なぜなら一人ひとり法蔵菩薩の魂、求道心を発す可能性を宿しているからです。

その手掛かりは親鸞聖人のご生涯にあります。親鸞聖人は自己を語らない人だと言われています。自分の血筋、手柄などは語りません。親鸞聖人の生き方は、そういう「もの」を頼りとしたのではありません。むしろどのような出来事をも人生にとって意味のある「こと」と受け止めてゆく道でありました。

辛く悲しい出来事に遭遇するのが人生です。当然愚痴も出ることでしょう。しかし意味のある出来事、尊い「こと」としていただいてゆく、そういう道が親鸞聖人はじめ念仏者によって既に開かれています。いつでも初事なんだよと受け止めていかれた先生方の姿も思い起こされます。大切なのは「もの」ではない。「こと」なのだ。そう受け止めなおさしめる力、本願力に触れるとき、既に功徳の宝海がこの自分自身に満ち満ちていると感じます。

ナンマンダブツと念仏するとき、教えに触れるご縁となった亡き祖父母や、よき師よき友の姿が思い起こされてきます。

(二〇一八年七月下旬 南勢一組・道淨寺住職)

013 「お寺」という場所

白木 俊正

最近、自坊の役員会の席である門徒さんから言われた事がありました

「住職、お寺でなにか催し物でもしたらどうかな?」

この門徒さんは、これから参詣の方が減っていくことを心配されて、私にご意見を下さったのです。私は住職になって四年程経ちますが、その前年に本堂を立て直させて頂きました。そういった経緯もあり、門徒の方々には〝お寺にたくさんの人に足を運んでもらいたい〟という願いがあるのだと思います。

近年ではお寺に興味を持ってもらう為に、本堂でバザーやライブ、落語といった様々なイベントを開催している寺院が増えているようです。確かにお寺に縁遠くなっている方を、お寺に気軽に来ていただけるきっかけとして、大切な機縁であると思います。

けれどただ、集まってそれだけでは終わってしまっては、お寺の教えを聞くところ、所謂、聞法道場としての場所の本来のあるべき姿が失われてしまうのではないでしょうか。

蓮如上人は『御文』の中で、お寺の御命日のお参り(寄合)について

そもそも毎月両度の寄合の由来は、なにのためぞというに、さらに他のことにあらず、自身の往生極楽の、信心獲得のためなるがゆえなり。

さらに、

ことに近年は、いずくにも寄合のときは、ただ酒飯茶なんどばかりにて、みなみな退散せり。これは仏法の本意には、しかるべからざる次第なり

(『真宗聖典』八二八~八二九頁)

と当時の状況を伝えておられます。

この蓮如上人の『御文』のおことばから、お寺に来ても飲み食いだけして帰ってしまうのではなく、自分自身の在り方が聞法をして顕かにされていく為にお寺にお参りするのだ、と教えて頂いているように思います。つまり、お寺で開く催し物も教えを聞いていただくための重要なきっかけではあります。けれどそれだけにとどまらず、聞法の場として、お寺に出遇っていただいてこそ、様々なイベントの意味も、さらには「お寺」の存在意義が、見いだせるのでは、ないでしょうか。

最後に、今回、ある門徒さんの一言から「お寺」の住職として、どのような場所にしていくのか、新たに自分自身の問いをいただけたように思います。それは、難しい問いではありますが、反面、住職にとって幸いなことです。この時代に私達「お寺」がどのような場所や時間を皆様に提供していけるのか、蓮如上人のお悩みも、現代の私達に通ずるものがあると思います。これからの時代に、またそこに生きる人々に合った「お寺」の在り方を今日も楽しく悩んでいきたいと思います。

(二〇一八年七月上旬 長嶋組・了清寺住職)

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。