011心は我が身を知る機能、それが心の分限です

森 英雄

「差別をしてはいけない」「差別を無くす運動をしよう」というのは、もっともなことであると思います。しかし、それで差別がなくなったりするのでしょうか。うまく立ち回り、差別者というレッテルをいかにして回避してゆくかということにならないでしょうか。

「ある被差別部落内の寺院に行ったことがある」ということを話したところ、「御院主さん、あそこは怖いところやね」と言われるので、「怖いところがあるのか、怖いところと言っている我々がいるのかな」ということを聞いてみました。実体的な場所や人が問題ではなく、向こうを縁として、どういう身を抱えているかが問われているのではないでしょうか。

以前、池田勇諦先生が、「心は我が身を知る機能、それが心の分限です」と教えて下さいました。

我が心がどう思ったかは、それが良いか悪いかを問題にすることではなく、状況や人を問題にせざるを得ない自分自身を、善し悪しの分別心で乗り切ろうとする問題を抱えた身であること。そこに頭が下がることだけが要求されているようです。

その時、初めて、目の前の出来事や人から教えていただくことが始まり、窮屈に自分を守ることしか考えていない身が知らされてきます。こんなふうに相手を見ているのが自分かと、自分にあきれる時、自分の価値判断に用事がなくなり、深くハタラク智慧の眼(まなこ)を感じることが始まります。。礼拝から始まる生活の誕生です。

言い訳する時も、俺は分かっていると開き直る時も、仏様はじっと待っていて下さいます。

『歎異抄』後序の

まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。

(『真宗聖典』640頁)

の金言が身に響いてきます。

010仏法の要

王來王家眞也

『観無量寿経』の説法が終った時、仏弟子阿難は仏前にすすみ出て「今説かれた説法の要をいかに受け持つべきでしょうか」と仏に質問をしております。この問いによって、仏法の要とそれを受け持つ道が我々に教えられております。

そこでまず、仏法の要は「無量寿仏の名」つまり「南無阿弥陀仏」であるというのが仏の答であります。この「南無阿弥陀仏」は本願を原理として立てられた名号でありますから、「正信念仏偈」で親鸞聖人は「本願名号正定業」と教えられております。ですから本願の名号が仏法の要として立てられたことで、仏の仕事は終ったともいえるわけです。

それによって、その法の要を受け持つという我々の仕事が与えられるのであります。我々は家族あり仕事あり、その場の中で様々な苦しみ悩みを背負って生きる生活者であります。その生活者がいつでも、どこでも、誰でも受け持つ道を仏は与えられました。

その受け持つことのできる道について、親鸞聖人はこの「持」つことについて「たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり」と教えられました。ならいまなぶことは学習すること、ここには卆業(卒業)はありません。生命ある限りこの生活の場が学習の道場であります。その道場こそ我々の仕事場であり、そこで法の鏡にてらして自身を明らかにする。鏡に写さなければ自分の顔が見えないように、我々に鏡を与えるのが仏の仕事、鏡によって自身を明らかにするのは我々の仕事、ここに「聞法」する生活者の存在こそ仏道の証明者であると共に生きた仏道の歴史が輝くのであり、人生の根本課題があることを知らされるのであります。

009私たちの立ち位置

池田勇諦

このたび私たちの三重教区が桑名別院と共にお勤めする宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要に当り、一言私たちの立ち位置を確認いたしたく思います。

それについて聖人の晩年のお作である『正像末和讃』の第一首、「釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまう、正像の二時はおわりにき、如来の遺弟悲泣せよ」(『真宗聖典』500頁)と叫ばれていることが、どうしても注目されてなりません。

親鸞聖人の生きられた鎌倉初期は、時代社会の大きな転換期であり、戦いに明け暮れた波乱の時代でした。それだけに人びとは生きる依りどころを失い、また仏教は本来の使命からかけ離れ、ただ厄除け祈祷の具と化してしまった状況の中で、仏教の衰頽(すいたい)を歎く仏教徒は勿論いても、釈迦の昔に思いを馳せるか、第二の釈迦弥勒の出現に淡い望みをかけるかで、いずれも現前の自己を忘れたありさまでした。

このことは、そのまま今日の私たちの問題であります。よく“親鸞に帰れ”の声が聞かれますが、現在只今の自己を問題にすることがなければ、虚ろな言葉でしかありません。現実は開山聖人の昔に帰ることも、また第二、第三の聖人の出現を夢みることもゆるしません。

いまこそ先達に導かれて「親鸞聖人かくれましまして、七百五十年になりたもう、正像の二時はおわりにき、聖人の遺弟悲泣せよ」と、現実への悲しみと、それゆえに「弥陀の本願信ずべし」(正像末和讃『真宗聖典』500頁)の大道を進むほか、私たちにどんな立ち位置があるというのでしょうか。

008それでいいのでしょうか

尾畑文正

2011年3月11日に、東日本大震災と、原発事故がおきました。いまもなお震災の復興も、原発事故による放射能汚染も収束できない深刻な状況にあります。

原発問題とはなんでしょうか。1つには、原発はいつでも巨大事故の可能性をもつということです。2つには、原発は必ず被曝する労働者を必要とします。3つには、原発によって発生する核廃棄物は処理することができません。現在だけでなく未来にも負の遺産をおしつけていく問題です。

現在も福島の事故現場では多くの労働者が被曝の危機の中で働いています。この人たちの犠牲の上に、私たちの今の豊かさと便利を求める生活があります。このような共に生きるべき「大地」を見失しなっている生き方が仏教でいう闇です。その私たちの闇が原発事故を通して厳しく問われています。

それでは闇を闇として知るとはどういうことでしょうか。親鸞聖人は仏さまの智慧と私たちの無明の闇との関係を、太陽の光と夜の闇になぞらえて、「日いでて、夜はあくというなり」(口伝鈔『真宗聖典』652頁)とたとえられたといいます。闇の自覚は光に出遇わなければ起きてこないのでしょう。

しかし、その光が見えない。否、見えないのではなく、光から逃げています。例えていえば、青空の下に居りながら、青空を見ないで、胸先三寸の我が思いの中で、ああなればいい、こうなればいいと、自分の思いが満たされることばかりを願っています。そういう自分に気づいて、ただ頭を上げれば、一面の青空です。自分の思いに固執するために、それができないのです。

自分の欲望の満足に固執して、共に生きる大地に立ち上がることを見失っています。そういう私たちの無明の闇が、今、3年をむかえた福島の現実を通して、まさに共に生きる大地そのものから、それでいいのかと問われています。その問いこそが闇を照らす光です。

007今、いのちがあなたを生きている

田代俊孝

ビハーラ活動をしていて臨床の場でとてもすばらしい言葉を聞かせていただくことがあります。たとえば、「私、病気して良かったと思います。今まで人生をとても粗末に生きてきたように思います。今、人生を二度生きた感じがします。病気は不運だけど不幸せではない…」「一日一日が尊い時間だった。生かされている貴重な日々が送れた」と。

これらは病名を告知され、仏法とご縁のあった方たちのコメントです。この方たちは、自分の人生に納得し、それを引き受けておられます。この方たちがこのようないのちの感覚を、いったいどのようにして持たれるようになったのでしょうか。

通常、私たちは、健康はプラス、病はマイナス、生はプラス、死はマイナスといった価値観を持っています。そして、生と死すらも、すべてが思い通りになると思っています。

しかし、誰一人として老病死から逃れることはできません。自身のありのまま、つまり、死を自分ごととして見つめたときに、思い通りにならないことを思い通りになると思っていた私の思いが破れるのです。その絶望を通して、生と死も、すべてが絶対他力の仏の大きなみ手の中にあり、本願に生かされていたことに気づかされるのです。

思いがけず生まれ、思いがけない人生を歩み、そして、思いもよらず死んでいくのです。思いを超えた大きな大きな働きの中に生かされているのです。仏教では思いを超えたことを不可思議といいます。南無不可思議光仏としての念仏は義なきを義とし、不可称不可説不可思議の世界を私たちに気づかせてくれるものです。ところが、その仏の大きなみ手の中にいながら、はからいをもって自分で自分を苦しめているのです。科学を絶対とする小ざかしい現代人にはなかなか気付けない世界です。科学の向こうにあるいのちの世界。それが、「共なるいのち」「つながるいのち」「涙のでるいのち」なのです。そういういのちが、今あなたを生きているのです。

006本願の大地に帰す

木村大乘

この度、3月27日より30日にかけて、三重教区・桑名別院におきまして、「共に大地に立たん」のスローガンの下に、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修されます。

ところで、この「共に大地に立たん」というテーマになった背景には、どのような願いが込められているのでしょうか。

私たちは誰にも代わることのできない身を受け、この世界の中で自分が一番可愛いという愛着心を我としています。そして、誰にも譲ることのできない自分を根本的に満足したという深い欲求を生きているといえましょう。それ故に関係存在として世界の中に在る私たちは、解け合える人間関係の構築を願いながらも、利害損得の対立意識が起これば、時に敵意を感じ、その存在さえ「居なくなればいい」という想いさえ起ってきます。そして、優劣という価値意識に煩悶(はんもん)し、良し悪しの心に翻弄されながら、どこかで取り残されていくような寂しさ、言い知れない空しさを感じながら、そしてこのままで人生が終わっていくのかという底知れない不安と孤独を生きている存在といえましょう。

しかし、幸いにも私たちに先立って、この生死苦悩の根本問題を一筋に道に求め、聞法のご苦労の歴史に身をささげてくださった本願念仏の歴史があったのです。

親鸞聖人の主著『教行信証』には、阿弥陀の大悲の本願を「大地」に喩(たと)えて

悲願は、…なお大地の如し、三世十方一切如来出生するが故

(『真宗聖典』202頁)

と表されています。

驚くべきことに、私たち一切衆生の宿業(しゅくごう)煩悩の苦悩の大地は、そのまま不可思議にも、時空を超えて、如来久遠の大悲の願心の中に限りなく深く、甦(よみがえ)って来る未来がすでに開かれているといえましょう。

005共命を生きた人

伊藤英信

桑名別院では、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が、「共に大地に立たん」というスローガンの下に勤められます。生きとし生きるすべての人々と共に生きんとする自分自身の広やかな開かれた心を改めて問われているのが、この法要の大切な主旨ではないかと思っております。

昨年末に亡くなられた南アフリカのネルソン・マンデラさんの自伝『自由への長い道』を改めて読ませていただきました。1割余の白人が8割余の黒人に対して、学校・病院そして乗り物から道路まで隔離するアパルトヘイトの社会は、黒人にとって侮辱と屈辱に虐げられた日々でありました。その状況を変えようと戦ったマンデラさんは捕らえられ終身刑の判決を受け、ロベン島で27年間にわたって石を砕く刑に服したのです。この苛酷で孤独な長い年月の中で、彼の白人に対する激しい憤りの目は、次第に自己の内面に向けられたようです。彼は自伝の中で「抑圧された人々が解放されるのと同じように、抑圧する側も解放されなくてはならない。抑圧される側も、抑圧する側も人間性を奪われている点では変わりない」と指摘しています。そして、「自由になるということは、自分の鎖を外すだけではなく、他人の自由も尊重し支えるような生き方をすることである」と述べています。

互いが憎しみ合うことの無意味さに気づかれ、共なるいのちの大地に心の目が開かれたマンデラさんを米国の大統領は「歴史上の巨人」と称えましたが、私自身も自伝を読んで深く頭の下がる思いをいただきました。

004悲願

花山孝介

今年の3月27日より30日にかけて、三重教区・桑名別院では宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤められます。この御遠忌を迎えるに当たり、教区では「共に大地に立たん」というスローガンを掲げました。私たちは、このスローガンをどのようにいただけばよいのでしょうか。

今日、人間関係が希薄になっているといわれて久しいのですが、その反面、私たちは他者との関係を大切にしたいと思っています。しかし、私たちが求める関係性は、自分の都合に合う関係性を求めていますので、自分の思いに添わなければ何時でも他者を排除していきます。では、どこで真の人間関係が成り立つのでしょうか。

宗祖に「他力の悲願はかくのごときのわれらがため」(『真宗聖典』 六二九頁)という言葉があります。この「悲願」に、このテーマを確かめる大事な視点があるように思われます。それは、自らの思いや価値観に立つ限り、自他の関係は傷つけ合うしかなく、そのような自分を残念ながら自ら知ることはできません。阿弥陀仏の願いを「悲願」と宗祖が押さえられたのは、自他の関係性を傷つけながら生きようとしている人間の在り方が、仏に悲しまれている存在であると頷かれたからです。

私たちは、どこまでも「悲願」からの呼びかけを聞き続けていくほかありません。宗祖は、どこまでも真理(まこと)の言葉に自身を尋ねながら、その在り方が、痛ましい・悲しいものであると教え、呼びかける仏の声に、まさに「愚者」なる自分を教え続けられる生き方を貫かれました。それは、私の計らいが破られ続け、どこまでも自らの在り方に懺悔(さんげ)することにほかなりません。だからこそ私たちは、どこまでも「仏願に導かれながら生きるものになれ」と呼びかけ続けている声に耳を傾け、その願いを自らの志願として歩むところに、共なる世界を生きる道が開かれると思います。

003時(とき)の重み

伊東恵深

お正月のテレビ番組で、歌舞伎役者の市川海老蔵さんを取材した特集が放送されていました。その番組の中で、市川家には江戸時代から得意としてきた演目、「歌舞伎十八番」という18のお家芸があるのですが、現在、その大半が演じられなくなっており、それらを海老蔵さんが精力的に復活させようとしている様子が紹介されていました。

インタビューで、「なぜそんなに急いで『歌舞伎十八番』を復活させようとしているのか」という質問に対して、海老蔵さんは、「市川家は短命の家系である。初代も早い、3代目も20代で亡くなっている・・・祖父も56歳。父である第12代市川團十郎も、去年66歳で亡くなった。だから私もせいぜい生きて、そんなものだろうと。だからそれまでに片づけないといけない。あとは倅(せがれ)がやってくれれば、それでいい」と答えていました。

伝統を守り、それを後世に伝えていく。海老蔵さんは私と同じ36歳ですが、歌舞伎という世界に生きる者の覚悟を垣間見た気がしました。

翻って、私たちはどうでしょうか。三重教区・桑名別院ではこの3月に、宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌法要がお勤まりになります。一口に750年といいますが、その間、一体どれほどの先達が、親鸞聖人のみ教えに出遇われ、その歓びと感動を後世に語り伝えてくださったことでしょうか。

私たちはともすれば、すぐに「伝える」ことの重要性を説きます。しかしその前に、まずは自分自身が、後世に伝えていきたいと思う、伝わっていってほしいと願う教えに、本当に出遇えているかどうか、ということが問われているのでしょう。

御遠忌をお迎えして、750年という「時の長さ」を、「教えの重み」として、あらためて親鸞聖人のみ教えにお遇いしたいと念じております。

002父に似てきた私

山口晃生

40代半ば迄、仏縁の無い私でしたが、70を過ぎた今「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」という遇い難いご縁に遇わせて頂けること、本当に有り難いことだと感謝しております。振り返りますと色んな事がありました。

「ご院住(えん)さん、今日は仏華活(はない)けてるなぁ、法事の準備をしているなぁ」と、私の家(うち)からお御堂(みど)がよく見えます。寺の近くに住んでいる関係か、代々寺役も頂き、父も責任役員や組門徒会員を引き受け、会議や奉仕上山へとよく出かけておりました。家でも毎朝、夜明け前には起床し、大きな声で『正信偈』を勤めます。早朝の静まり返った中、父の声だけが近所に響き渡り、目覚まし代わりになったと言う人もいたくらいです。当然、寝床の中の私の耳にも聞こえてきますが、当時は「朝っぱらからウルサイナぁ」としか受け取ることが出来ない私でした。

万事が「お内仏中心」という父(ひと)でしたので、「お寺さんのことはオヤジに任せとけばええんや」と私も全く無関心、そんな念仏三昧の父に反感すら持っておりました。

しかし、私が46歳の時、母が急死、それがご縁となり特伝を受けることになりました。そして聞法会や報恩講に参るようになると、老いた父は我がことの様に喜んでくれました。そんな父もいつしかお浄土へ帰り、気が付けば私も「組門徒会員」を長年引き受けている。そして父を知る人から「お父さんによく似てきたね」と言われるようになったことを内心喜んでおります。

そんなご縁で、この度別院の御遠忌を迎えますが、気を付けることは「御遠忌という大きな法要」は得てして「イベント」として捉えてはいないか、イベントなら済んでしまえば「やれやれ」とそれで終わりになってしまう。そうではなくご縁を頂いた後、宗祖に出遇えた慶びを後世へ伝える為に、私は何をするべきかが、大事なのではないでしょうか。この御遠忌を機に改めて真宗門徒としての生き方を問い、聞いていく、お内仏中心の生活をする、そうすれば子や孫も必ずや親鸞聖人に出遇い教えを引き継いでくれるものと信じております。

南無阿弥陀仏

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。