カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2015年

015 私と桑名別院「暁天講座」

伊藤たね子

今年で四九回目の暁天講座が終わりました。七月末の五日間、朝六時半から七時半の一時間桑名別院の本堂でいろいろな方のお話を聞きます。阿弥陀様に向かって座り、静かに耳を傾ける大切な時間です。

私は若い頃、農業をしながら三人の子育てに走り回っていた頃、不平・不満のつぶやきを親友によくこぼしていました。そしてさそって下さったのが別院の暁天講座だったのです。

その時の講師は、北陸の米沢英雄先生でした。日常の悩みや迷い、苦しみを仏法を通してわかり易く話されました。帰りには心も軽く明日への元気もわいてきて、こころが穏やかになっており、次回が待たれる講座でした。それ以後、なんとなく気後れしていたお寺へ行くのも、自然体で正面の阿弥陀様にきちんと正座して合掌することができるようになりました。

この暁天講座の出会いが今の私を支えるありがたいご縁となっています。本堂に集う様々な方を目にしますと、いつの間にか私はこれでよいのだろうかと、自分を見つめ、考えているのです。そしていつの間にか力がわいて来て「さあ、やろうか」と、一歩が出ます。

お寺は私にとって心の拠り所です。これからも一回でも多く手を合わせることが出来ますように、来年の暁天講座に出会えますようにと願っています。

(長島組寶林寺門徒 二〇一五年八月上旬)

014 そんかとくか 人間のものさし

藤﨑 信

先日、御門徒宅へ月参りをした際、お天気の話になり、「久しぶりに雨になりましたね」と話すと、「畑の野菜に水を撒かずに助かります」と喜ばれていました。

また同じ日に、別の御門徒宅へ月参りに行った際、同じく天気の話をすると、「草が伸びるので敵いません」と、今度は困ったと言われます。

どちらの言い分もごもっともなので、「そうですね」と返答をしたのですが、雨が降ったということに対して、人それぞれ考えが違うのです。

相田みつをさんの詩に、「そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし」と言う詩があります。

私たちは、自分の都合で、物の良し悪しを判断してはいないでしょうか。

仏教では「我執」といって、「我にとらわれている」「執着する」「自分中心に物事を考えている」ことをいいます。

普段、日常生活する中で客観的に物事をみること、少し立ち止まって執着する自分自身を見つめなおすことの時間が、私たちには必要ではないでしょうか。

(長島組・淨福寺住職 二〇一五年七月上旬)

013 今

渡邉憲明

生きている、とはどういうことでしょうか。僧侶としてお寺で生活し始めて今年で四年目になりました。決してなりたくてなったとは言えませんが、今の自分があるのは様々なご縁に出遇いがあってのことだろうと思います。

本格的に日頃のお参りに出て行くようになって一年くらい過ぎた頃でしょうか。段々と門徒さんのおうちの場所や名前を覚え、お経を読むことにも慣れてきて、毎日それなりに忙しく生活しておりました。その中で、私は目の前のことをやることにばかり目がいってしまって、自分が生きているということをすっかり忘れていたように思います。なんとなく無気力に、淡々と、毎日の予定をこなしていく日々が続いていました。阿弥陀様の前に座ることや手を合わせること、また、南無阿弥陀仏と唱えることが、習慣になってしまい、何も考えずに、ただただ、なにげなくしていた日々があったように思います。

ある日、いつもどおり月参りに出かけまして、いつものように挨拶をして家にあげてもらい、仏壇に手を合わせ、門徒さんと最近の近況について少し話をして、そして「じゃあおつとめさせてもらいますね」と言って仏壇の前に座りました。そこまではいつもどおり、なんとなく当たり前のいつもどおりでした。しかし、仏壇の前で手を合わせて、少し顔をあげ、阿弥陀様の顔を見た途端、不思議な気持ちが心に起こりました。

私はそのとき、「生きていた」と、「今の瞬間まで生きていた」と思いました。はっとしました。なんとなく、当たり前のように生きていた日々が、何故だか知らないけど生かされていた日々に変わった瞬間でした。その日はお経を読み終えた後、自然に手が合わさり、南無阿弥陀仏と自然に口から出たように思います。阿弥陀様と向かい合うことは、いのちと向かい合うことではないでしょうか。この法話している私も聞いている方も、今まさに生きています。考えてみるととても不思議なことです。

(員弁組 二〇一五年七月上旬)

012 いのち

加藤 弥生

つい先日、夜遅くに電話が鳴りました。寺での生活をする上で、夜の九時を過ぎたような時間にかかる電話の場合は「どきっ」とすることが多いのですが、案の定その電話も「S子が亡くなりました」と言う内容でした。しかし私は、今回の電話をいつも以上に驚きました。なぜなら、S子さんのお元気なお姿を、ほんの数日前に拝見したばかりだったからです。

S子さんは女人講に入っておられました。ちょうど一年ほど前から、月一度集まり、お参りをして、住職の話を聞く、という定例会を始めました。その集まりに、元気に来ていただいたばかりだったのです。次回の定例会もしっかりと予定に入れてくださって、元気に帰られました。

そんなS子さんが突然、それも、女人講の集まりがあった三日後に亡くなってしまったという事で、とても驚き、ただただ茫然とするばかりでした。私はその実感がどうしても持てず「ごめんごめん、びっくりした?」と笑いながら、S子さんが次回の女人講に来てくださるような気がしてなりませんでした。

ここ数年の間に、親しい人たちや、お寺に深くかかわってくださった方たちが、次々と亡くなっていかれ、とても寂しく、人の命のはかなさや無常をしみじみと感じています。改めて、ひとはいつ死んでもおかしくない身なのだ、と実感しました。個人の感情でどうにもならないのが「いのち」です。今日か明日か、ひとが先か、自分が先か。まるでわかりません。それなのに、私はあまりにも当然のように生きています。当然ではないのです。S子さんたちが、

「亡くなる」ことでいのちのはかなさを示してくださいました。そして同時に「亡くなる」ことでご縁を作ってくださいました。「いのち」について、考え学んでいきたいと思えるご縁をありがとうございます。

 

(員弁組・教願寺【坊守・加藤弥生】二○一五年六月下半期)

011 先輩との出遇い

折戸 沙紀子

 先日、中学・高校と部活でお世話になった先輩のおばあさんが亡くなりました。その先輩は、半年前にも父親を亡くされました。

先輩とは当時、部活だけでなく、とても仲良くしていただきました。しかし、先輩が高校を卒業してからは疎遠になってしまい、先輩のお父さんの葬儀で再会しましたが、その後も会うことはなく、おばあさんの葬儀で再び再会しました。

おばあさんのお寺参りの時に、いろいろお話をしていたのですが、帰り際に先輩が、「こんな時にしか会えないって、なんかね・・・」と、言われました。

本来、僧侶の立場であれば、「おばあさんから出会う機会をいただいた」と、言うべきなのかもしれませんが、私はその時何も言えませんでした。それは、私の本当の言葉ではないし、思ってもいないことだったからです。しかし、ただただ、寂しいような、情けないような、そんな気分でした。

どこか、自然と疎遠になってしまっている人がたくさんいます。でも、今その人たちとあのころのように触れ合えるかといったらできません。私たちはいつも何かに属していて、何かに属している誰かと接しています。先輩ともあの頃、学校・部活に属していて、接していました。一対一で、人とむきあっているか、そう自分に問うたとき、先輩とやっとむきあえたような気がします。

先輩からいただいた言葉から、自分を問うことができた。そして、その機会を亡くなった、先輩のお父さん、おばあさんからいただきました。

あの時言えなかった「おばあさんから出会う機会をいただいた」という言葉は、再会を意味するだけでなく、自分自身と出遇う縁をいただいたという言葉といただくことができました。

出遇うというのは、出遇ったその日が出遇いなのではなく、出遇った日から出遇っていくものなのだと感じました。

 

(南勢一組・法受寺【候補衆徒・折戸 沙紀子】二○一五年六月上半期)

010 宝の山のなかに居りながら

木村大乗

蓮如上人の仰せに、「宝の山にいりて、手をむなしくしてかえらんにことならんものか」(真宗聖典P八○五御文三)という言葉がございます。つまり、宝の山の中に本当は入って居るのに、それを知らずして、手を空しくして帰っていってしまうことを、例えをもって言われているのであります。

わたくしたちは人間として、この世界に身を受け、その生涯をかけて本当にいただかなければならない、唯一の「真実の宝」があることを教えてくださっているのであります。そして、その「真実の宝」をすでに身の事実として本来いただいているにもかかわらず、その事実にまったく気づかず、目を覚ますことを忘れて、一生を空過に(空しく)終ってしまうことを悲しんで、蓮如上人は「後生の一大事」という一言にかけて、『御文』に記されておられるのであります。

さて、この、「後生の一大事」とはなんでしょうか。

わたくしたちは、誰しも、「何故自分は生まれてきたのか、何のために生きているのだろうかと」と、意識の深い根底に問いかけをいただいているといえましょう。そして生れてきたこの身は、必ず死すべくして生きていることを、誰もが知っていながら、その自分が最終的に無くなってしまうような、不安と恐れを、心の底に隠して、見ないように、触れないように、考えないようにして、むしろ尊い根本問題から逃げてしまっているのではないでしょうか。

では、わたくしたちは、どこから生れて来て、この形を受けた一生が終わる時、一体どこへ帰るのでしょうか。またわたくしたちの人類はじまって以来の祖先は、どこへ帰って往かれたのでしょうか。

この「一大事」ひとつに命をかけて求められ、明らかに聞き開いてくださった先覚者の御苦労の御恩の歴史のなかに、南無阿弥陀仏の永遠不滅の大悲のいのちのなかに、わたくしたちも、今、新しく深く、呼び覚まされて、生きて往きたいと願わざるをえません。

(員弁組・蓮敬寺)【住職・木村 大乗】二○一五年五月下半期)

009 私は仏教徒ですから・・(自らへの確認として)

泉 智子

私が数年前から毎週一度通っている外国語の教室があります。三十歳代から七十歳代の男女数名の小さな教室です。いつもテキストに入る前、前回からの一週間にあった出来事、私的な事、世の中で起った事件や事故など、楽しかったこと、興味深かったこと、驚いたことなどをできるだけ、習っている言語で話してみるよう、先生がたずねます。テーブルを囲んで座った数名のグループで会話しますから、最初は緊張しながらも、和気あいあい、ほとんど日本語になってしまうところを、先生に訂正されながら、話すことになります。

今年は年初めから、内外で心に重たいものが投げ込まれたような出来事が何度もありました。ISによる日本人人質殺害や、川崎の中学生殺害事件などが起きた時は、どうしても感情が先走った話になってしまいます。「あの人質が私の息子なら、国に迷惑をかける前に自分で死んでくれと思う」とか、「加害者が少年でも、あんなひどい事件を起こしたのだから、死刑にして当然だ」とか、いつもは気のいい人から出る言葉に、ちょっと戸惑って、何と言ったらいいのか、それも日本語ではなくて・・・。

ああそうだった、と思いついて、「私は仏教徒ですから、そのようには考えません」と言ってみます。「殺してはならない、殺させてはならない」と釈尊は言われます。だから殺していい、殺させていいって考えない。死んでいい、死なせていいなんて思わない。仏教徒なら当たり前、その場の空気に遠慮することはなかったんです。でもなかなか言い出せない。簡単なようで難しい課題です。

それぞれ個人のいのちは、自分の所有するいのちと考えてしまいますが、実は同じいのちそのものの世界、お浄土からいただいたいのちです。いのちそのものの世界から、一人一人に、皆等しく、如来様の本願といって、大きく深い願いをかけれられているのだと教えられてきました。そして、いのち皆生きらるべし、と。

かつて、長年お話を聞いてきた先生からいただいた葉書の最後には、いつも「おいのち大切に」とありました。ただのいのちではない、「おいのち」。

その言葉も大切にしながら、日々の生活の中でも、社会にあっても、空気は読んでも流されず、私は仏教徒ですから、と自分自身に問いかけながら、そして確認しながら暮らせればいいな、と思います。

(中勢一組・円称寺【坊守・泉 智子】二○一五年五月上半期)

008 お与えさま

桑原 克

自坊西恩寺の法座でよく聞かせていただいている前川五郎松という、聞法者の言葉があります。

『生き甲斐』というテーマで、「私たちは、様々な物や、人を当てにして、生きている。しかしその頼りにしていることや、私の〈生き甲斐〉にしていることが、次々に当てが外れていく」と問いかけ、「最後には、頼みの綱の、この身体が壊れてしまう。ご用心、ご用心」と警告されています。

そして、「私の考えている、生き甲斐というものの、底がぬけねばあかんと思う。ここが一番むずかしい。底がぬければ、お与えさまの一言に尽きる」、という言葉で、教えを聞き学ぶということの意味を指摘されています。

お念仏の教えは、この「お与えさま」という世界を知らされる、ということでないかと思います。この「お与えさま」という世界を、よく勘違いして、どうしたら「お与えさま」と思えるか。「どうしたら」という方法を探して、自分の結論・自分の仏法聴聞の答えにする、といことがあります。「答え」、「結論」としての「お与えさま」は、自分を保身して、そこに座り込んでいく事ではないでしょうか。

実は「お与えさま」は、「結論」ではなく、「いのちの事実」そのものであり、そこから主体的に生きる「出発点」であると教えられました。私のいのちも、私の境遇も一切が、私の考えより、先に与えられています。それは「今・ここ」の「事実」の深さ、広さに気づかせていただくことだと思います。「当たり前でないいのち」への驚きをいただくことだと思います。

しかし普段の私は、自分の思いで、その事実に対して、「善い悪い」を決めつけて生きています。「悪い」と思ったことに出会うと生きる力がなくなります。

仏法聴聞において「わが思い」のまちがいを、「間に合わぬ」ことを、知らされながら、「お与えさま」を生きることが願われています。

具体的にはいま、私が出会っているこの現実と対話していくことだと思います。

(二〇一五四月下半期 桑名組 西恩寺 門徒)

 

007 聞法を行動に ~旗日には佛旗を掲げよう~

岩田信行

福井市の三門徒派本山で「聞法を行動に」という法語に出遇いました。以来、「聞法を行動に」の、その一言が私に聞法の「証」を問い続けてきます。

ところで、品(しな)川(がわ)正(まさ)治(じ)さんをご存知でしょうか。「経済同友会」の終身幹事で、一昨年亡くなられました。八九歳でした。

品川さんは財界人でありながら、憲法9条改変の政財界の動きに真っ向から異議を唱え続けた方です。

爆弾の破片が体に埋まったまま、とにかく生き延びて終戦を迎えます。引揚船の中で戦争放棄の平和憲法が制定されたことを新聞で知ります。乗合せた戦友たちと咽び泣いたそうです。平和・人権、そして何よりも憲法9条の大切さを熱く語られる方でした。

国際開発センター会長でもあった品川さんは、世界の紛争国・貧困地域を歩き、世界中に民族や宗教の違いなどで紛争の種が尽きないことを目の当たりにして、紛争を戦争にさせない究極の手立てとして「憲法9条」の大切さをいよいよ実感します。そして、政財界の憲法改変の動きに抗して「たとえどんなにボロボロになっても憲法9条の旗を手放してはいけない」と訴えていかれました。

 

品川さんが語った「憲法9条の旗」。それは言葉の文(あや)、譬喩的・象徴的に語られたのだと私は単純に受けとめていました。

二年前、本山の報恩講の折、御影堂門前で「真宗大谷派9条の会」の方々とその日のビラ配りの終りがけ、京都のご門徒、南(みなみ)斎(とき)子(こ)さんが「佛旗の五色の色にはこんな意味があるって知っておみえでしたか?」と言って、手書きのメモをビラ配りの面々に配って「ごきげんよう」と去っていかれました。

品のいいおばあさまの南さんのその去り際にあっけにとられましたが、手渡された五色の色鮮やかな佛旗の絵にハッとしました。「あっ、これが『憲法9条の旗』だ」。仏教徒の旗印の「佛旗」こそ、品川さんが象徴的に言われた「憲法9条の旗」だと直感しました。

すべてのものは暴力に脅えている。すべてのものは死を恐れる。我が身に引き当てて、殺してはいけない。殺させてはならない。(129)」

すべてのものは暴力に脅えている。すべてのものにとって、いのちは愛しい。我が身に引き当てて、殺してはならない。殺させてはならない(130)」。

釈尊の『ダンマ・パダ(真理の言葉)』です。お釈迦さまの教えを依り所として生きる仏教徒の旗印である「佛旗」こそ「憲法9条の旗」そのものです。

自坊の同朋の会・「しんらん塾」の面々と、「聞法を行動に」の命題に応答して、今、「旗日には佛旗を掲げよう」を合言葉に憲法と仏法を学び合っています。

想像してみてください。国民の祝日にはどの家(うち)にも佛旗がはためいている光景を。あなたの家にも、かつて日の丸を掲げた金具が残っていませんか。今、仏教徒の証、真宗門徒の証が問われています。今、できることをする。誰でもできることのひとつ。仏壇屋さんで「佛旗をください」と相談してみてください。「この国のあり様に危惧する心ある仏教徒よ、旗日には佛旗を掲げよう。そして、声を上げましょう」。

「社会」は「外なる自己」、「自己」は「内なる社会」です。社会に起こる様々な人為の問題は信心の課題です。そして「聞法を行動に」の一言は、私に常に聞いたことの証を問いかけてきます。

(二〇一五年四月上半期 南勢二組 道專寺住職)

006 右から? 左から?

右から? 左から?

岡本寛之

まことに私事ですが、小学二年生になる長男が入学と同時に剣道を始めました。

始めた理由は本人いわく「保育園のお友達が習っていたから」とのことですが、私が思うに幼少時に映画村で目にしたお侍さんの殺陣がきっかけだったと思われます。

もう二年ほど続けておりますが、最近になって、ようやくチャンバラの域を脱してきました。また、剣道をはじめ武道は、「礼にはじまり礼におわる」といわれており「少しでも礼儀作法を身に付けてくれれば…」という親の身勝手な願いはどこへやら、そちらの方はなかなか成果が表れてくれないのが現状です。

私自身も中学高校と剣道部に所属しておりましたので、今では時々親子揃ってお世話になっております。

毎回、稽古の始まりと終わりには礼式が行われます。

先生と子供たちが向き合って座り、姿勢を正して目を閉じて黙想、続いてお互いに礼をし、道場の正面にある神棚に一礼。稽古終わりの際には、そのあと先生が稽古の総評など色々なお話をして下さいます。

先日は剣道の所作についてのお話しでした。要約しますと

「着座の際には先に左膝を着き、あとから右膝を下ろす。座礼の際も先に左手を着き、あとから右手を着く。歩を進める際は右足から歩み出す」など、剣道における所作は右側が主となる様です。

剣道の起源は江戸時代の後期、剣術の鍛錬が始まりで、着座や座礼で右側を残すのは何時でも刀に手が伸ばせる様に、言い換えれば何時如何なる時も油断をしないという武士の心構えの名残なのだそうです。

因みに正面への座礼の際は、神を斬りつけることは有り得ないので両手を同時に出すそうです。

経験者なのに知らないお話で、大変興味深くお聞きしておりましたが、家に帰り子供と一緒に復習しながら少々戸惑いを感じたのを記憶しております。既にお気付きの方も居られるかと思いますが、私たちが普段しております所作とは全くの正反対だったからです。

私たち大谷派の儀式作法の中に「左(さ)進(しん)右(う)退(たい)」という言葉があります。

内陣や外陣での出仕や退出の時、前進時は左足から歩み出し、後退時は右足から退きます。着座の際は先に右膝を着きあとから左膝を下ろし、基座の際は先に右膝を立てて立ち上がります。

足裁きだけではなく、御経や御文などを手に取る際も先ず左手で取りそのあとに右手を添え、納めたあとには右手から離しそのあとに左手を戻す。など読んで字の如く左から進み右から退くという意味です。

左進右退の起源は諸説あり、同じ仏教でも各宗派によって作法は違ってきます。宗教上の作法においては大半の宗派が右と左でどちら側が上の位にあるかということに起因しているようです。

武道と宗教、また各宗派によって諸作法の違いはありますが、何よりも大切なのは古来より脈々と受け継がれてきている伝統を守り続け、次の世代に受け継いでいくことなのではないでしょうか。

今から何年か後、長男が大谷派の儀式作法を学んだ時、私と同じ様に混乱する姿が目に浮かびます。

(二〇一五年三月下旬 長島組・源盛寺住職)