カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2014年

027ハンセン病問題に学ぶ

鈴木勘吾

先日、「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」の総会があり、その中で、全国の療養所の回復者に行われたアンケートの紹介があり、入所者の約50%の方が「園名」を、現在も名乗られていると報告がありました。

「園名」とは、療養所に入所と同時につけられる「新しい名前」のことです。

「入所者をして社会内に存在することの許されないものとして自己認識を強いるもの」。と、2001年の国家賠償訴訟熊本地方裁判所の判決が示すように、それは、今までの名前を捨てさせ、療養所で暮らすことを覚悟させる、過去の生活、自分自身を捨て、一生を別人として生きてゆくことを強要する象徴でもあります。

「らい予防法」の廃止、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」、通称、ハンセン病問題基本法が制定され、国や地方自治体の政策が遂行され、啓発活動などが推進されています。が、これまで一世紀に及ぶ隔離政策は大きな壁を作り上げました。法律の壁、政策の壁、市民の差別・無関心の壁、中でも市民の差別や無関心の壁は、回復者の方たちに大きな不安とあきらめを与え続けています。

この差別の壁を取り除くことが、私たちの喫緊の課題です。

回復者の一人ひとりと出会ってゆくこと。相手の顔が見えるような出会いを創り出してゆくこと。

回復者は「特別な人」という状況から、「同じ人間」であるという関係を取り戻すことが願われています。

「あらゆる人々を同朋として見出す」

これは宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要に向けての「基本方針」の一節です。しかしこの言葉の背景には、何よりもあらゆる人々を同朋として見出せなかった長い時代があることを、私たちは忘れてはならないと思います。

ハンセン病問題に取り組むことは、同朋を見出し、ともに人間であることを回復する道を歩むことに他ならないと私は思います。

026一人と出会う

長崎 直

この8月に開催された「同朋ジュニア大会」に、私もスタッフとして参加してまいりました。

子どもたちの底なしの体力には当然かなうはずもなく、激しい消耗と筋肉痛を伴いながらでしたが、とても楽しいひと時を過ごし、忘れ難い思い出をたくさんいただいてきました。

「一人と出会う」というテーマをいただいて過ごした日程の最後、閉会式で「参加証」の証状を頂戴しましたが、その証状にはこんな文章が綴られていました。

「あなたは同朋ジュニア大会に参加しました。『一人と出会えましたか』これからも一人と出会うことを大切にして下さい。」

この、「一人と出会えましたか」という問いは、普段自分の都合でしか生きられない私たちに大切なことを教えて下さっています。

出会うということは、その数の多さに価値があるわけではありません。まして、その数を他人と競い、例えば友だちの数で勝っているなどと言って安心するような材料でもありません。

そんなことは当然だと思い込んでいても、誰にも替わることのできない一人が、今まさに私と出会ってくださっているという事実は、普段は薄められているような気がしてなりません。

出会いというものは、時に大きな喜びとして受け止められますが、はるかな懺悔として刻まれていくほど重く厳しいものでもあるはずです。それなのに、いわゆる嫌な事実には目を背け、遠ざけることで出会いを薄め、それによって一人を見失ってしまいます。都合ということで言えば、それこそ都合の悪い出会いなど出会いではないと思いたいからです。また、そうすることで、都合の悪くないことを、当たり前のことと置き換えて、喜びを切り離していきます。

先日80歳で亡くなられた俳優の米倉斉加年(まさかね)さんの著作に『おとなになれなかった弟たちに・・・』という絵本があります。故人を偲ぶ新聞の記事で紹介されたこの絵本の一節に心をとらわれました。

「戦争末期に生まれた米倉さんの弟に、お母さんは満足に母乳もやれなかった。配給のミルクが命の綱。だが、そのミルクを米倉さんは、ひもじさのあまり盗み飲みしてしまう。弟はやがて静かに息を引き取った。栄養失調だった」

(『おとなになれなかった弟たちに・・・』偕成社)

米倉さんは、自らのさるべき業縁と向き合いながら、深い懺悔の中で、尊い一人として弟と生涯出会い続けていかれたのでしょう。

私たちは、思いはからいの及ばないご縁をいただきながら私という人生を歩ませていただいています。それは、誰とも替わることのできない「私」が「私」となる歩みであり、一人ひとりが比べることのできない尊い歩みであると教えられます。

それにもかかわらず、私たちは、一人ひとりを自分の都合で、選び、嫌い、見捨て続け、あまつさえその事実を認めようともしません。

このような自分中心の世界が打ち破られていくことに「出会い」の本当の意味があるのではないかと、ジュニア大会の証状は問いかけてくださっています。

果たして、子どもたちは来年も会いに来てくれるでしょうか。そしておとなたちは来年も不都合な筋肉痛と笑顔で付き合えることでしょうか。出会うとは、出会い続けるということです。今から来年の大会が楽しみになっています。

025忘れない!

尾畑潤子

厳しい暑さの続いた8月。私の住まいする泉称寺では、この夏も村の子どもたちの「おつとめの練習」が、8月29日まで行われ、早朝のひと時を、50人ほどの子どもたちと共に爽やかな時間を過ごさせてもらいました。

本堂には、震災後に始めた福島原発事故の被災者支援のバザーとともに、2年前に95歳で亡くなられた泉称寺の総代、正木正明さんから私たちへの「遺言」を掲げています。

「―戦争は殺さなければ殺される。これほど悲惨なことはありません。やってはいけないのです。平和な日本を未来に!」

という言葉です。

二度と同じ過ちを繰り返さないためにと、小学生や中学生、そしてお寺においても戦争の悲惨さと平和の大切さを伝え続けて下さった正木さん。その時代に、地域と寺が一丸となって「お国のために戦ってこい」と送り出された経験を持つ正木さんは、「戦争は単なる人殺しでしかない。そのことを伝えるのが仏教徒である私の責任。子どもたちにいのちの大切さを伝えるのが村の寺の使命」そう言い続けて命終えていきました。その言葉を私は忘れません。

毎朝、子どもたちの元気な『正信偈』に唱和しながら、この子どもたちに、そして、この夏も放射能の汚染が続く福島から三重の地に保養に来た子どもたちに、未来を生きる全てのいのちに、私たちはどんな世を手渡していくのか。私の歩みが大きく問われていると思う夏の日々でした。

今、この国は、「特定秘密保護法」が成立し、今年7月には「集団的自衛権」の行使容認が閣議決定され、「戦争のできる国」がにわかに現実味を帯びる状況です。戦後の69年を「憲法九条」によって保たれてきた「平和」が、いま大きく揺らいでいます。

『大無量寿経』に「無有代者」(『真宗聖典』60頁)という言葉があります。だれもが他と代わることのできないかけがえのないいのちを生きています。私もいまかけがえのないいのちをいただくものとして、「非戦」の願いを受け継ぎ、原発再稼働についても黙認しない、もの言うひとりであり続けたいと思います。

024殺人の正当化

米澤典之

2020年に開催が決まった東京オリンピック。その招致活動の中で、日本の死刑制度に厳しい視線を送るEU(ヨーロッパ連合)への印象を配慮して、招致期間中の死刑執行を控え、開催が決まった途端に執行を再開したことが国内外から指摘・批難されています。

私たちの教団は1998年以来、国内で死刑が執行されるたびに「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を発表し、社会に発信してきました。

親鸞聖人の師である法然上人が出家された背景にこのような話があります。

役人であった法然の父は、夜討ちに遭って命を落とします。その死に際にありながら

われこのきずいたむ。人またいたまざらんや。

われこのいのちを惜しむ。人あに惜しまざらんや。

(『法然上人伝絵詞』)

と、つよく仇討ちを戒める言葉を遺したといいます。

それは、

この世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

(『法句経(ダンマパダ)』※1)

と遺した釈尊の教えではなかったでしょうか。やられたらやり返す、仇討ちが当然とされた時代のなかで、この遺言がゆくゆく親鸞聖人との出遇いへとつながっていったのです。

釈尊の言葉をいただく仏教徒としては、いかに国家や集団が「正義」の名のもとに「殺人」を正当化しようとも、その片棒を担がされることに異を唱えねばなりません。

殺人によっていのちを奪われた遺族感情をマスメディアに煽られ、死刑という殺人を黙って認め続けてきたことが、教えに反した態度であるということを確かめておかなくてはならないと思います。

集団的自衛権の行使を認めることで、集団殺人を正当化していく風潮がつくられていくなかで、私たちの意識が深く問われます。黙って認めることは、自分自身のいのちさえも奪われていくことを容認することになるのではないでしょうか。

戦争という集団殺人、死刑という殺人に対して、

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。

己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

(『法句経(ダンマパダ)』※2)

との釈尊の教えを確かめ、法然上人から親鸞聖人に受け継がれた歎異の精神から、加害者にも被害者にもなりうる私たち一人ひとりが、教えに立った態度を表明することが求められてきます。

それはどこまでも私たちの信心の問題だからです。

※1 『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫一〇頁

※2 『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫二八頁

023大悲無倦常照我

中川和子

朝、慌ただしく出かけようとして、玄関にかけてあるカレンダーの法語に思わずギクリとなりました。

そこには、

拝まない者も

おがまれている

拝まないときも

おがまれている

(東井義雄『真宗教団連合二〇一四年法語カレンダー』)

と書いてありました。

何か今の私を言いあてられたようで、逃げるように家を出ました。そのとき思わず『正信偈』の「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」が頭に浮かびました。阿弥陀仏は24時間、倦みつかれることなく私を照らし続けてくださっているのに、その光が射し込むはずの私の窓はいつも閉まっていることが多いのだと思いました。

先日観た『2つ目の窓』という映画で、死にいく母を看取る16歳の少女に、老人が「永遠の里帰りじゃ」と温かく語りかける場面がありました。生者と死者の別れを歌ったといわれる奄美北部(映画の舞台)の島唄でみんなと母を送る場面も印象的でした。

[歌詞の一節]

(送る側)「やっぱり逝ってしまうのね?」

(送られる側)「どうしても遠い島に逝かなければならないの。でもきっとあなたを想い出して、戻ってくるからね。」

死はほんの一時の別れで、またすぐ遇えるという詞(ことば)を、私たちは自分の身ではなかなか受けとめられないことです。奄美に伝わる教えでは「いたみも安心もあたえられるもの」として、ただあるがままを受け入れていくだけだということを次の世代に言い伝えていく儀式が、特別で重要なこととして位置付けられていました。

身近な誰かが逝ってしまっても、あたりまえに日常は巡ります。そこに身を置く私たちのために、先人から私、私から次世代へと教えが伝えられていく約束の日として、お盆やお彼岸、お年忌等、亡き方のご命日にちなんだお参りの日はぬきさしならない特別な日なのだと思います。亡き方をご縁に、みんながそれぞれ日常のことをほっといて集まり、一緒に拝めて唱(うた)える大事な日です。

私たちが普段おつとめしている『正信偈』は、阿弥陀仏や、数限りない諸仏のはたらきに想いを馳せる暇(いとま)もないこんな私でも、見捨てずに既に摂めとられてあるのだよという大きな安心を、750年以上も長きにわたり語り継いできてくださっているのだとあらためて思わされたことです。

022骨の無い墓

伊東幸典

仏教の創始者であるブッダは『法句経(ダンマパダ)』で、

己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

(『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫二八頁)

と説かれています。

「苦しむ生命の側に自分の身を置いて考え、行動しなさい」という意味です。現在、ウクライナとパレスチナでの紛争は激化し、多くの人々が亡くなり、傷ついています。このような武力で殺傷し合う戦争やテロ行為には、それを正義とする正当な理由はありません。命令を出している統率者は、「己が身をひきくらべる」思いを見失っているのでしょうか。殺され、傷つけられている市民や兵士の恐怖に、共感することができないのでしょうか。

寺院の墓地に、太平洋戦争で戦死された方のお墓があります。遺族の方は、「幼かった私に父の記憶は残っていない。せめてお墓だけでも、という母の願いで建てた、お骨が収められていない父のお墓。私には、ただ名前が刻まれた石としか感じられない。だから、私は墓参りをして悼む気持ちになれない」と言われました。この方のお父さんは、南方の島で玉砕されたらしいということしか分かっていないそうです。今なお、お骨は見つかっていません。

昭和二〇年七月の桑名空襲で家族を亡くされた方のお話。「市内あちこちに爆弾が落ち、あっという間に火の海になった。逃げる途中で家族はバラバラになり、自分と弟は防空壕に入れてもらって助かった。空襲が治まってから、一晩中、二人で焼け焦げた町を歩き回って母と妹を探した。途中、何人もの人に尋ねたり、あちこちの避難所で名前を呼んだが見つからなかった。結局、母と妹は死んでしまった」とのことでした。この方のお父さんは戦地で亡くなられています。

私たちは、悲惨な歴史から平和を維持することの大切さを学びました。そして、憲法で平和主義を掲げ、戦争はしないことや戦力を持たないことを謳ってきました。戦争による惨禍は繰り返さないという決意表明です。今、内閣は「集団的自衛権」の行使を容認し、悲しい歴史を繰り返そうとしています。

021人はなぜ過ちをくりかえすのか

星川佳信

近頃西の鈴鹿連峰から東にジェット機やらヘリコプターがやたら飛び交う、深夜もお構いなし。何のための飛行なのか。轟音の向こうで今何がおきているのだろうか。

今、政府は積極的平和主義を標榜し、集団的自衛権行使を憲法解釈で可能にしようとしています。自衛隊が米国の戦争に加担することを可能にする法律です。

人類は、平和を求めたゆまない努力をしてきました。しかし、戦争は止むことなく、血で血を洗う憎しみの連鎖は地球上を覆っています。

かつて日本は戦争の大義をアジア諸国の平和のためとし、太平洋戦争に突き進んでいきました。あれからもう69年の歳月が流れようとしています。

誰しもが戦争や差別はだめだと声高らかに言います。しかしその一方、時代の閉塞感は徴兵制を望み、戦争や差別を肯定するかのような声が公然とささやかれる時代となってきています。

人は何故同じ過ちをくりかえすのだろうか、と自問します。

『歎異抄』には、

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

(『真宗聖典』634頁)

と教えられています。つまり縁がもよおせば人は、百人千人も殺すことがあるのだと、しかし縁がなければ人ひとり殺すこともできないというのが人間だと。

平和を願いながら、そこにひとつになれない。人間の共通する願いが真実(まこと)であっても、その歩みにおいて分裂するのです。もっと言いますと人間の思惟(理想)には限界があるという事なのでしょう。

安田先生は、「仏教で言う願は理想を求めるのでなく、かえって現実に呼び返す願です」と述べておられます。

人は、歩みにおいてバラバラであっても「願いを共有する」ことはできるはずです。業縁に動かされる私どもを真実(まこと)の道に引き戻す、そのはたらきが念仏だと思います。

020無言館

梅田良恵

皆さんは長野県上田市にある無言館という美術館をご存知でしょうか。その美術館では第二次世界大戦中、志半ばにして戦場で亡くなった画学生たちの残した絵画が展示されています。2年ほど前、私は母親とその美術館を訪ねました。作品を見ていく中で母は一枚の絵の前に立ち止まり、そのままその絵に見入っておりました。私がそばに寄っていくと、母はぼそっとした声で、「私の兄もこのバシー海峡で死んだ」と言いました。展示されている作品には作者名と戦死した場所などが記されています。バシー海峡というのは台湾とフィリピンとの間にある海峡で、太平洋戦争後半には、そこで25万人もの命が奪われました。母は兄が出征するときの様子を話してくれたのですが、母が兄を慕っていた気持ちが強く伝わってきました。

先日、内閣は憲法九条の解釈を変更し集団的自衛権を行使できるよう閣議決定しました。このままでは日本はこれから先、戦争ができる国になってしまうということです。他国の人を殺すだけでなく、日本人が日本人を殺してしまうのが戦争だ、ということも母をはじめいろんな人から教わりました。相手が攻めてきたときには自分を守るために戦わざるを得ないというときもあるでしょう。しかし、そうしないための智恵が憲法九条だったのではないでしょうか

仏教では「不殺生」を説き、むやみな殺生を禁じています。しかし日露戦争以前の明治時代に、わが宗門は「一殺多生(いっせつたしょう)」、つまり一人殺すのは多くの日本人を生かす、という考えを持ち出し戦争に加担しました。「不殺生」の教えを捻じ曲げ、僧侶自身が門徒さんを戦地に送り出しました。日中戦争のとき、竹中彰元という大谷派の僧侶は「戦争は罪悪である」と発言したため投獄され、大谷派からは布教使の免許を取り上げられてしまいました。そのような事態が再び起こらないために、今私たちに何ができるのかと考えます。

母は言います。「若い人、結婚したばかりの人が、どんどんどんどん、戦争に行って死んでしまった。今声を大にして言いたい、戦争ができる国にしてほしくない」と。今私は、私の二人の息子といっしょに、この母の気持ちを考えていきたいと思っています。

019不便な生き方

箕浦彰巖

私たちは、家庭の暮らしの中で親子、兄弟、姉妹等、様々な関係を持って生活していると思います。

私も親子という関係、そして2人の弟の兄という関係をもって今日を暮らしています。

そんな兄弟関係を振り返りますと、勝気な三兄弟であるので、しょっちゅう喧嘩をしていたように感じます。

しかし、その原因を改めて振り返ると、間違ったことをしている弟に対して、「兄として言い聞かせてやろう。」という私の根性があり、それに反発する弟に対して、「兄の言うことが聞けないのか。弟のくせに生意気な態度を取るんじゃない。」と、横柄な態度を当たり前のように取っていたように思います。

そんな時、私の父は常に私に言い聞かせてきた言葉があります。

それは、「お前は、誰のお陰で兄になっているんだ。」という一言です。

仏さまの教えには、私達の存在は、「遇縁の存在」であると説いておられます。「縁」に遇っていく存在。それは私の力で選び取る存在ではなく、選ぶことができない「縁」によって明らかにされてゆく存在であるということです。

父の一言は、後に生まれるというご縁を頂いてくれた弟がいるから、私は兄にさせてもらっているという関係を、仏さまの教えを通して教えてくださったのです。

しかし、そういった事実を教えられていても兄弟喧嘩は絶えず、その度に「弟くせに生意気だ。」という心が沸き起こってきます。

親鸞聖人は、『御消息集』の中で、

煩悩具足の身なれば、こころにもまかせ、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいうまじきことをもゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうらんこそ、かえすがえす不便におぼえそうらえ。

(『真宗聖典』561頁)

と、おっしゃっておられます。

自分の想いを中心にした考え方、生き方は、煩悩に振り回された「不便」(気の毒なこと。心の痛むこと)な姿である。つまり、私のことで言えば、「年下」、「弟」を下に見て、下に見ている存在は、「未熟なもの」という偏った考え方と、それで間違いないという執着の姿は「不便」であると、おっしゃっておられるのです。

そういった「不便」な生き方をしている私たちに、

親鸞聖人は、『歎異抄』の後序で、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

(『真宗聖典』640頁)

と、お念仏の道を勧められておられます。

018ふくろうとの出会い

佐々木顯彰

5月5日は子どもの日です。その日、境内を掃除していましたら、私の目の前に一羽の産毛のふくろうが落ちてきました。

今まで経験したことのない出来事だったので、その時の気持ちは、「餌が欲しい、助けて」と言っているような泣き声に聞こました。そのため、驚きと共に直感的に野に帰すのではなく、ペットとして飼育してみたいとの気持ちで一杯になりました。

このような動物との出会いは、自分以外には多分経験されないだろうとの思いも起こり、証拠写真も撮りましたが、後になって親鳥がいないか、探していないかと気にしながら過ごした3日間でした。

飼育するなら先ず「ふくろうの生態」や「飼育方法」を最初から勉強しようと思い、様々な資料で勉強を始めました。しかし、そこには私の「飼育したい」という思いを拒否するかのような様々な言葉が並んでいました。

先ず「CB固体」、「WC固体」。「CB固体」は、飼育下で繁殖した固体を表し、「WC固体」は、野生の状態で捕獲された個体を表しているそうです。そうなるとこのふくろうは「WC固体」になります。更に、ふくろうは肉食の猛禽類なので、マウス(ねずみ)などを捌い(さば)て与えること、トイレなどのしつけなどは不可能であること、慣れる(なじむ)ことはあっても、馴れる(なつく)ことはないなど、人間の方がふくろうに合わせた、ふくろう優先の生活を考えるべきであると教えられ、更に夜行性のため、就寝時間帯の泣き声が気になる。ワシントン条約で制限されている希少種ですから、野生の捕獲は生態系に大きな影響を与えることになることなど、様々なことが分かりました。

この学びを通して、分かったつもりでいた自分が、全く分かっていなかったことを教えられたように感じました。

7日の午後、行政に引き取っていただきました。

『日めくり法語』の中で竹中智秀先生が、

私たちはいつでも自分の都合を中心にして、えらび、きらい、見捨てる。

(『いのちにめざめる』山科東御坊)

とご指摘下さっています。

3日間のふくろうと私との関係を思い返すと、自分の思いを中心にした、私の姿を教えられたように思います。まさに自分の都合ばかりを考える「我執」の姿がそこにありました。

ふくろうは、暗闇でも思うように行動できる鳥です。その理由は、高い視覚と聴覚をもっているからだそうです。

私たち人間にはそのような能力はありません。しかし、自身が無明の闇の中にいることを、教えられる光明に出遇うことは、聞法生活によって導かれるではないでしょうか。

親鸞聖人もその光明に出遇うことで、自身の姿を教えられたのではないかと思います。