カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2012年

007お念仏

折戸沙紀子

昨年、本山にて、(宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌御正当)報恩講が終わった11月29日に、阿弥陀堂御修復のための御本尊動座式が行われました。全国各地より、この御本尊動座式を参拝しようと、二千人もの方々が本山に上山されました。私も自坊より団体参拝させていただきました。

御本尊が動座されることは珍しい事ですから、私はどこかワクワクしながら、式が始まるのを待っていました。

阿弥陀堂での勤行が終わり、御影堂(ごえいどう)に御本尊が移されます。私は今か今かと、御本尊が自分の前を通過するのを待っていました。そのとき、前方に参拝されている人たちの姿が私の目に留まりました。その方たちは、目の前を通る御本尊に対して深々と頭を下げて合掌をしておられたのです。そして、そこからは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の声が起こり、そのお念仏の声は御影堂に響いていました。

私はこの時、自分が御遠忌というものを、ただのイベントとして見ていたことに気がつきました。御遠忌とは、たくさんの人が集まり、皆で念仏を称えるイベントであると。

しかし、今回、私自身が御遠忌に参拝をし、多くの方を通じて、いろいろな念仏の称え方があることを知りました。そして、私が称えていた念仏よりも、より深い念仏を感じることもできました。

今、改めて思うことは、私にとっての御遠忌とは、お念仏を称えることの意味を振り返るご縁であったのではないか、ということです。

2014年春、桑名別院での宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌が計画されております。

参拝にみえる方々は、性別も、年齢も、暮らす環境も、それぞれ違います。それぞれの方にお念仏に出遇っていただき、また、自分の称えるお念仏を振り返ってもらいたいと思います。

006相続

藤岡真

昨年末に近くのおばあさんが亡くなり、葬儀、中陰とお勤めさせていただきました。最初に息子さんから、「母は、ここに嫁いで来て最初に『正信偈』を覚えたと言っておりました。若いころは、なんとも思わずに聞いていたが、大事なことではないかと思うようになってきた」と伺いました。

亡くなった方は、お漬物作りが上手で、よく報恩講などに、「お参りの方に食べてもらってください」と届けてくださいました。お斎作りの手伝いに来られている人たちも、よく「味見」と称して、台所でいただいたものです。みんなが「役得よね」などと言いながら次々に食べるので、いつもおばあさんのお漬物は大半が台所でなくなってしまうのでした。

忌明けの法要では、「残念ながら、母の漬物の味を受け継ぐことはできませんでしたが、『正信偈』の教えだけは、受け継ぎ、伝えていきたいと思います」と息子さんが挨拶され、一同静かに聞き入っていました。亡き母が自分へと伝えてくれたことへの感謝を述べられたようです。

「人は法(教え)によらなければ救われないが、法は人によらなければ伝わらない」といわれるように、仏法は人から人へしか伝わらないものです。人に伝えるためには、まず自分自身がしっかりと受け止めねばならないことを、改めて教えられたことであります。

2月9日に三重教区・桑名別院宗祖親鸞七百五十回御遠忌委員会の第1回総会が開かれ、約2年後の2014年3月27日から3日間にわたってお勤めされる御遠忌の内容について話し合われました。

本山での御遠忌を終え、いよいよ地元や自坊での御遠忌が勤まりつつあるなかで、改めて自分自身が教えをどのように受け止めているかが確かめられなければならないと思います。

005サルから人間へ

大賀光範

冬の寒い時期は鍋がごちそうですよね。鍋奉行が取り仕切って、おいしく煮えた料理をみんなに取り分けたりして、楽しく時間を過ごせますよね。

ところで、鍋をみんなで囲めるのは人間だけだそうです。チンパンジーやゴリラなどの類人猿ならこういうわけにはいきません。ひとに食べ物を渡すなんてことはもってのほか。鍋の中のものを独り占めしようとして怒り出してしまい、楽しい時間などあり得ません。大分県の高崎山でのエサやりの時間は、まるで戦争のような状態です。どれだけ自分の食べ物を確保できるか、あちこちで取り合いのけんかが始まってしまいます。

人間とサルとでは、なぜこのように大きな違いがあるのでしょうか。

先日のテレビで、サルから人間への進化について紹介がありました。人間の祖先はアフリカのジャングルで生活していましたが、他のサルとの生存競争に負けて、草原で生活せざるを得なくなったそうです。森は食べ物が豊富な場所で、手を伸ばせば果物であれ木の葉であれ、何でも手に入りますが、草原ではそういうわけにはいきません。森で生活していたときのように、個人の力だけで自分のエサを探していたら、力の弱いものや小さいものが先に飢えてしまい、子孫を残すことはできません。食べ物が乏しい過酷な環境の中では、助け合わねば生き残ることができないのです。たまたま食べ物を平等に分け合うことができたグループだけが生き残り、サルから人間への第一歩を踏み出したということでした。

自分のものをひとへ分け与える行為を、仏教では「布施(ふせ)」といい、大切な修行と位置づけています。食べ物や知識、大切な智慧など、自分の持っているものをひとへ与えること、これが「布施行」です。

昨年の大震災の時、日本中の人たちが義援金や救援物資を被災地へ送りました。みんなで力を合わせて助け合いたいという心が表に現れ出ての行動ですから、これは布施行の実践ができたことになるのです。

自分さえよければいいという変わり方、相手を突き放すような冷たい生き方から、助け合い、「絆」を深めあう暖かい人間の生き方へ、大震災という悲惨な出来事が縁となり、私たちの生き方をあらためて方向付けしてくれたのではないでしょうか。

004千両蜜柑(みかん)

岡田寛樹

古典落語の中に『千両蜜柑』という噺(はなし)があります。

心の病を患った若旦那は、食事も取らず床に伏せてばかり。大旦那は普段から仲の良い番頭に頼み、若旦那の悩みを聞き出します。聞いてみると蜜柑が食べたいとのこと。番頭は蜜柑を買ってくると約束したものの、季節は真夏。番頭は必死の思いで蜜柑を探し出し、一つ見つけたものの、問屋では「この蜜柑、一つ千両」と言われ、そのことを大旦那に伝えると「息子の命が助かるなら…」と千両出して一つの蜜柑を受け取り、若旦那に差し出します。蜜柑を手にした若旦那は大事そうに食べるのですが、その傍らで番頭はこの親子の様子に呆れかえってしまいます。そして、蜜柑を食べている若旦那を見ながら「あの蜜柑の皮だって五両はするんだ。そして、一袋は百両だ」と番頭は思い始めます。若旦那は三袋残し「これを両親とお前に」と番頭に渡します。渡された番頭は「一袋百両…、いま手元には三百両。どんなに奉公したってこんなお金は手に入らない。旦那さまには申し訳ないが…」と蜜柑を手に店から姿を消してしまうという噺であります。

恐らく、この番頭の行動は番頭自身、真剣に考えた末の行動なのでしょう。しかし、その話を聞いている客、また演じている噺家はことの愚かさに気づいているのであります。

本来の価値を見失い、勝手に価値を付けてしまうが故の出来事は、バブル経済と言われた時代の地価、土地の値段にも表れています。ついこの前までは「この土地五千万円」だったのが、いつの間にか五百万円となっており、あの時に付いた価値は何だったのだろうということもありました。今でもこうしたことは繰り返し続いていており、本来そこにはない価値を付け加えてしまうことで、有り難がってみたり、誇らしげに思ったり、喜んでいる姿があります。それはモノや数字のことだけでなく、地位や名誉、肩書でも同じことが言えるのかもしれません。

「浄土和讃」の中に「無明の闇(あん)を破するゆえ 智慧光仏となづけたり」(真宗聖典479頁)と出てきます。

阿弥陀さまのからの光は、迷いや苦しみを破ってくださり、智慧を授けていただき、本当のことを分からせてもらうみ光となって私に届くのです。本来ないはずの価値に振り回されるのではなく、そこに色々な価値を付け加えるのでもなく、目の前にあるそのものをそのまま見る、真を見る目であれ、と智慧の光に照らされて、初めて気づかされることが分かるのです。

003悩みごとはないですか?

佐々木治美

先日境内の掃除をしていると、一人の女性が入って来られました。そして、「子育てで何か悩みごとはないですか?」とおっしゃいました。突然のことで呆然としている私に、「どんな悩みごとでも解決してくれる先生が来るんです」と続けます。私は、少し意地悪な気持ちで「どんな悩みごとでも解決してくれるなんて凄いですねぇ」と答えました。すると、「悩みが起こらない、起こってこない方法を教えてくれるんですよ」という返事が返ってきました。悩みが起こらない?そんなことはありえないでしょ?と思いながらも、返す言葉を失ったまま、その女性の後ろ姿を見送りました。

私にとって“悩み”という言葉でまず頭に浮かんでくるのは、20年程前のことです。その頃、私の母は更年期障害で苦しんでいました。あちらこちらの病院へ通いましたが、一向に症状は改善されません。最後に辿り着いたのは、少し遠くの医大病院でした。そこの医師からまず聞かれたのが「何か悩みごとはないですか?」という言葉だったそうです。そこで、母は「長女(私)が、結婚しないことです」と答えたと言うのです。

娘の目から見ても決して楽ではなかったであろう母の半生を考えて「もっと他に悩みはあるでしょう?!」と反論すると、「だって、他のことは悩んでもどうにもならないから」ときっぱり言い返されました。確かに、私が思う母の苦は、悩んだところでどうすることもできません。只々受け入れるしかないのです。

それでは、人は自分の力で解決できそうなことで悩むのでしょうか。私自身、今年の4月には長男と二男がそれぞれ高3と中3になります。いわゆる受験生です。私がいくらヤキモキして「勉強しなさい」と怒鳴ったところで、本人たちがやる気にならない限り成果は上がらないでしょう。その事実を受け入れられず悩むこともあるのです。

こんな身近な悩みから、昨年の東北を襲った未曾有の被害、その復興の遅れと、また、いっこうに脱原発へと動き出そうとしないこの国のあり様も、悩ましい限りと感じる私がいます。

なぜ、人は悩むのでしょうか。それは、私たちが無明の闇を生きているからでしょう。その闇を照らすのは、やはり「法(真実の教え)」しかないのです。人が生きていく上で、悩みがなくなることはありません。その度に仏法に依って、我が身を知らされていく、その繰り返しではないでしょうか。新年に当たり、ますます聞法の必要性を感じています。

002御遠忌に遇う

林政義

みなさん明けましておめでとうございます。私は桑名組明圓寺の門徒です。僧侶でない私が法話というおこがましい話はできませんが、私なりに宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要に出遇い、感じたことを話させていただきます。

昨年3月11日に東日本大震災が起こりました。8日後に控えた御遠忌はどうなることかと心配しておりましたところ、本山から連絡がございました。取りあえず第一期法要は取り止め被災者支援のつどいとして、四月第二期法要から始め、五月第三期法要とし、御正当報恩講を御遠忌法要として勤められるとのことでした。

いよいよ4月19日から御遠忌法要が厳修されました。私たちは、28日の御満座法要に役職参拝としてお参りさせていただきました。初めて坂東節の勤行に出遇わさせていただきました。身体を大きく横に振り、前後に振りながらの勤行でした。親鸞聖人が流罪で越後へ流された時、舟の中で波に揺られながら勤行されているお姿と聞きおよんでおります。なお、11月の御正当報恩講の御満座にもお参りするご縁をいただきました。50年に一度の尊いご法要に二度も遇わせていただいた宿縁を大切にしたいと思っています。

御遠忌に出遇い、日頃、信心の浅い私ですが、親鸞聖人のお念仏の教えをさらに聞き深めていきたいと思いました。ある住職から「真宗の寺はお参りするだけではない。聞くところである。即ち聞法の場である」と、お聞きしました。

この御遠忌に出遇えたご縁を大切に、なお一層、聴聞に精進し、お念仏の暮らしをしたいと思います。

001年頭所感

木嶋孝慈

初春を寿(ことほ)ぎ、新年のご挨拶を申し上げます。本年も、旧(きゅう)に倍(ばい)しましてのご指導をお願い申し上げます。

さて、昨年は私ども真宗門徒にとりまして、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」をお迎えするというたいへん重要な年でありました。みなさま方も、宗祖としての親鸞聖人にお遇いいただくことができましたでしょうか。

第一期御遠忌法要が勤まります数日前の3月11日、東日本で大震災が起こり、大津波によって未曾有の大災害が発生いたしました。今なお多くの方々が行方不明になっておられます。そして、多くの方々が不自由な避難所生活をされておられます。加えて、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染も深刻化を増す中、「想定外」という言葉が脚光を浴びました。政治家や、政府関係者も次々に「想定外」という言葉を使い、様々な見直しを進めておられるようでございます。

一見いいように思いますが、「想定内」であれば、すべていいのでしょうか。

お釈迦さまは、今から二千五百年以上も前に「無常」という道理の一つに気づかれました。「諸行無常」であります。「この世の現実存在はすべて、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない」ということであります。しかしながら、その本質に気づかないまま、我々人類は幸せになりたいと思い、浅はかなありとあらゆる知識でもって、未だに自然を破壊し、幸せを獲得しようとしているのではないでしょうか。

親鸞聖人は、天親菩薩が著された『浄土論』の「観仏本願力(かんぶつほんがんりき) 遇無空過者(ぐうむくかしゃ)」(真宗聖典137頁)をいただかれて、

本願力(りき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし(真宗聖典490頁)

と詠われました。

「空過(くうか)」とは、「むなしく過ぎる」ということですが、「本願力という仏さまの智慧の働きに遇うことができれば、むなしく過ぎることはない」と言い切っておられるのであります。

我々は、仏さまの智慧の働きというものがどのように及んでくるのか、なかなか分からないことでありますが、素直に敬う、素朴に感謝するという気持ちを今一度、取り戻す必要があるのではないでしょうか。

弥陀をたのみて御たすけを決定(けつじょう)して、御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、そのうれしさに念仏もうすばかりなり。すなわち仏恩報謝なり。(真宗聖典857頁)