カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2005年

027教信沙弥(きょうしんしゃみ)のこと 

西藤克己

6月でしたでしょうか、ぜひ一度行ってみたいと思っていた加古川市の教信寺というお寺を友人と共に訪ねることができました。親鸞聖人が深い尊敬の念と親しみを込めて自らの生活の手本と仰がれた、教信沙弥ゆかりの地です。

教信という方は、親鸞聖人より三百数十年も前の人でありますが、念仏によって往生を遂げたと言われた伝説の人です。河原の粗末な小屋で妻子と共に極貧の暮らしをし、村人に雇われて労働をし、旅人の荷物を運んで日々の糧を得るという生活を30年もの間送っていたとのことです。その間怠りなく「南無阿弥陀仏」と念仏を称え続け、小屋に居ては西の方角に向かって合掌していた往生人で、人々は教信のことを阿弥陀丸と呼んでいたとのことです。

また、自分の遺体は飢えた犬や鳥に与えてくれとの遺言に従って野原に捨てられた亡骸は動物たちが貪り食って頭だけが残ったということです。そのような言い伝えによるものでしょうか、開山堂の教信沙弥の木像は首から上の頭部だけのお姿のものでした。

親鸞聖人は「私は加古の教信沙弥と同類のものである」と常に仰せられていたと伝えられています。承元の法難によって越後の地で妻子と共に過ごした厳しい日々の中で感得された「僧に非ず俗に非ず。このゆへに禿の字をもって姓となす」という革新された念仏者、また「其閉眼せば、賀茂河に入れて魚にあたうべし」という遺言、まさに教信沙弥の生涯と親鸞聖人の生涯が二重写しに見えてきます。

教信沙弥ゆかりのお寺なんだから小さな草庵だろうという私の勝手な思い込みは完全に裏切られました。広大な敷地に阪神大震災後の大修復で綺麗に整備された立派なお寺でした。教信寺の参拝の帰り道、親鸞聖人を尋ねて本願寺を訪れる人たちの描く聖人のイメージとあの大伽藍は人たちの目にどう映るだろうかと、教信と親鸞の願いが、教えがどこで生きているだろうかと、ふとこんな思いに駆られました。

026遠く宿縁を慶べ 

渡辺勝美

テレホン法話の原稿の期日が迫ってきたある日、母がカゼをひいたのか咳をしている、熱もあるので病院へ行くことにしました。幾度となく通いなれた病院への道であるが、半世紀前のことが思い出されてきました。

当時、父が肺結核で自宅療養していて、時々薬をもらいに行く道でもあり、私も小学校6年生の2学期末に発病し、母に付き添われて通った道、あとは一人で徒歩や自転車で、通院していた頃のことが懐かしくよみがえってきました。

生活はたいへんであったであろう母からは、愚痴しかなかったように思います。その母が折に触れ念仏申しておりました。どうにもならないことという諦めの気持ちからかもしれません。そのことが私には、都合の悪いときの念仏だと、思い込んでいたことのように思います。

住職さんのお誘いで、同朋会に出させていただくようになりましたが、お寺などでお念仏を聞くと、なぜか母の称えていた念仏と重なって、不快な気分でした。

そんな折同朋会で、訓覇先生が「念仏(南無阿弥陀仏)申したら、申した南無阿弥陀仏は如来のものだ」と言われました。それは念仏に問題があるのではなく、念仏を不快としている、私が問題なのであると、知らされたのでした。それまでの私は、阿弥陀様とは、お寺の木像であり、絵像であり、名号であると。また、信心とは、それを信じることであると。どうしたら信じることができるのかと思っていたのです。問題なのは念仏ではなく、私なのだと気づかされたことでした。

回向(えこう)の信心は、本願であり、十八願であり、一心であり、他力の信心であり、如来回向の信心であると、傲慢な私に「遠く宿縁を慶べ」(真宗聖典149頁)と先生からのお言葉でした。

南無阿弥陀仏

025いつも今 

藤井恵麿

9月に入りましたが、日中は、まだまだ暑い日が続いております。振り返ってみると、今年も早くから全国各地で猛暑が続き、元気なのは蝉の声だけではないのかと思いました。私自身、暑いのは苦手で、人と会う挨拶の中で、何度も「本当に毎日暑いですね、昨年よりも今年の夏のほうが暑いのではないですか?」などと言い、それに続けて「早く涼しくならないか」とも言っておりました。

そのような中で8月末のある日、境内にたくさんの落ち葉が落ちていたので、久しぶりに掃除をしました。するとびっくりするほど大きくなった雑草も所々に生えておりました。それを見て「この猛暑の中でよくここまで大きくなったものだなぁ」と一瞬抜くのを躊躇したのですが、結局はすべての雑草を引き抜きました。

掃除を終え、綺麗になった境内に満足をしている時です。あれほどうるさかった蝉の声がいつの間にか遠くに聞こえるようになり、それに絡むかのようにバッタの鳴き声が近くで聞こえました。そして夜にはコオロギの鳴き声も響いてきます。なんだか急に静寂な秋の気配を感じ、寂しさのようなものが感じられました。

しばらくその感慨に浸っている時にハッとしました。以前はあれほど早く涼しくならないかと言っていたのに、いざ秋の気配が感ぜられると、寂しいと感じ、そこに落ち着くことのできない私は何処に立って生活をしているのか?この件に限らず、総てにわたり、いつも何かしら不満を抱え、一度も今という事実に立ったことがないのではないか。

「ああ無限にして真にあらず、寿夭(じゅよう)にして保ちがたし。呼吸の頃(あいだ)に、すなわちこれ来生(らいしょう)なり。一たび人身(にんじん)を失いつれば、万劫(まんごう)にも復せず。この時悟らずば、仏もし衆生をいかがしたまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を胎(のこ)すことなかれと」(真宗聖典183~184頁)のお言葉が静かに響いてきます。

024誕生日

藤岡真

8月も終わりを迎えましたが、まだまだ暑い日が続くようです。この時期に生まれた私は、子どもの頃から「お前は生まれる前から親不孝だった」と言われたものです。暑い夏の間中お腹の中にいたからというのがその理由だそうです。「生まれる前から」ということは、生まれてからも、そして当然今も親不孝だという意味なのだろうかと、釈然としない気持ちで誕生日を迎えたものでした。最も、どの日が誕生日であるかということは後になって教えられて、覚えたに過ぎないのであって、気がついた時にはもうすでに生まれていたというのが事実でありましょう。

そして、誕生日と同じように、この先、自分で知ることのできない、将来いつか必ず来る日に命日があります。今日、誕生日を重くして命日を軽くする傾向がありますが、かつての日本には命日を重んじて、誕生日を祝う風習は無かったそうです。それは、人は生まれただけではあまり意味がなく、どう生きたかに重みを置くことからきていると言われています。命日を大切にしたのは、亡き人との別れを通して、私の生き方を問い直す、それが法事に遇うという意味を持つからでありましょう。

また、人と生まれて人になるという言葉があるように、単に人と生まれても、自分自身に羞じること、そして他人に対しても羞じるということが無いならば、本当の意味での人とは言えないとも言われます。父母を縁として、生まれてきたのですから、父母は言うに及ばず、私が生まれ、今ここにあることについては、私が望むと望まないとに関わらず、無数の恩恵にあずかってきたに違いありません。その恩恵を忘れて生きている姿こそ羞じるべきであると、さらに、今に至るまで人になることを忘れて生きてきたことこそ、一番の親不孝だと言われているように思われます。

ですから、自分の誕生日を人となって下さいと願われた日として、今まで受けてきた恩恵に思いをいたすならば、それも意義のあることではないでしょうか。

023お盆

高野昭麿

お盆とは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、逆さに吊るされている、本来転倒しているのが、我々人間なのだという意味です。この「盂蘭盆会」は、目連尊者(もくれんそんじゃ)の母親が餓鬼道に堕ちているのを救うため、釈尊に教えられて法座をたてたことに由来しています。それは、目連自身が仏法を聞く縁に遇って、亡き母を餓鬼道に墜としていた、我が餓鬼の根性に気づかされる尊い仏縁でありました。

ある方は、母親をとても軽蔑して育ったと言います。それは、小さい頃母親は金儲けにかまけて、育児は他人に任せっきり、軍人だった父が戦死しても、軍人恩給が入るので左うちわ。しかし、下士官の軍人恩給が戦後一時停止、預金は封鎖となり、急にお手上げの状態となりました。

当時6歳のその人に「お前だけが頼りだ」とすがりつく始末。今までの生活が閉ざされる中、自分の実家からも見放され、戦死した連れ合いの実家に身を寄せた母の姿は、子どもながらに凄く惨めに映ったようです。その惨めなまま昭和22年、母も亡くなりました。「死んでもあまり悲しくなかった。かえって縛られなくて済むくらいにしか感じなかった」と言われます。父親が立派で、母親が人間失格と思いながら五十年が過ぎ、あるところで仏法の縁に遇われました。

そして、惨めと映った母の姿は、自分たち子どもを何とかして食べさせてやりたいと、必死で生きる母の姿であったことを初めて知らされたそうです。初めて死んだ母に五十年ぶりに出会った気がしたそうです。「済まなかった、申し訳なかった」と今でも泣いて訴えられます。その時初めて母の姿ではなく、その母の心に出会ったと言われるのです。

外見ばかりが目に映り、格好でしか判断しなかった我が身の愚かさに、本当に頭が下がったと言われます。母を問題視し、嫌っていた自分が、一番問題であったと気づかれたようです。このような仏様からのメッセージに出会うことで、目連尊者も母親に出会い直されたのではないでしょうか。

真宗門徒として、自分自身に出会ったお心を大事にされましたら「お盆」も亡き人との出会いの場になりますし、家族の今を大事にする心に通ずるのではと思います。そういう意味で念仏申す「お盆」になればと思います。

022罪深く悪重き者 

泉智子

どちらかといえば楽観的な私は、文明や文化が進めば人間の知恵や技術で世の中が便利で豊かになり、また過去から学ぶことによって差別や争いの無い世界がそのうち来るだろうと、子どもの頃から空想していました。だから、人間が自らに対して「ホモサピエンス(知恵ある人)」とか「考える葦」とか「万物の霊長」とか、昔から様々に考えられてきた名前に何の疑いももたずにいたものです。そんな中、仏教では人間の存在を「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)」と捉えると教えられます。今になって、この言葉こそ人間に与えられた、最も相応しい名前ではないかと思われることです。

無数の生き物が共存し、それぞれがその生命を謳歌していたのはいつの頃までだったでしょうか。すでに、かつて存在した生き物の多くが姿を消しつつあるそうです。私の住む村の近くにオオタカが巣を作った時も「あんな鳥に気を遣って、山に道も造れんとはおかしな時代になったもんや」と悔し紛れに言われた方がありましたが、言うまでもなく、人間だけが住みよい環境を整えてきたことが、他の生き物の生きる条件を奪ってきたのでしょう。

多くの方がおっしゃることですが、人間以外の生物は必要以上に生命を奪いませんし、環境の破壊もしません。また戦争を始めたりもしません。

『歎異抄』に「罪悪深重煩悩熾盛(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)の衆生」(真宗聖典626頁)とありますが、それは今の私たち人間のことであり、また他ならない私自身のことなのだと改めて思います。今に至る私たち人間の危機とは「罪悪深重」という自らの存在に、無条件に頭が下がるという視点を見失ったことではないでしょうか。

そして、更に思うことは、このようなことを承知しつつも、なお他人事としている自分があること、また教えの言葉を読みとばすだけで、身にこたえようとしない自分があることです。

今こそ聞法の時かと思います。

021仏法聞き難し 

石見孝道

それは、今から10年ほど前の出来事です。あるところで同朋会があり、法話の後に座談会となりました。その時参加されていたのは、よくお寺参りをして仏法を何十年も聞いてこられた方ばかりでした。

そんな中、1人のおばあさんが言いました。

「やっぱりお寺参りをして、仏法を聞かせてもらわんといかんね。真宗の教えを聞いとらん人とは、もう話にならんもんね。自分のことだけしか考えておらんというか、だいたい人の話を聞く耳をもっとらん」

それを黙って聞いていた、別のおばあさんが一言言いました。

「あんた、そんなら聞かんほうが良かったね」

真宗の教えを聞いたということによって、聞いていない人が愚かに見えたりするのは、本当の意味で聞いていない証拠なんでしょう。その時、すでに真宗の教えは自分を善人にする道具となっているのでしょう。「聞く」ということの難しさを思います。

ある先生は「仏法を聞くということ、それは私の思いが破られる経験です」と言われました。つまり、仏法は私の思いを固めるためにあるのではなく、私の思いを破るはたらきとしてあるんだということなのでしょう。

私たちはこれまでに様々なものを利用して、私という立場を固めてきました。しかし、そこにはいつも「不安」というものが隠れついているのではないでしょうか。

ある先生は「不安こそ如来なんですわ、如来が不安という形ではたらきかけておるんだ」と言われました。それは、私のものではないものを私のものにし、本当でないものを本当だとしている私たちにあり方が、不安という形で問われているのでしょう。誰でも命を終わるときにはすべて置いていかねばなりません。家族も財産も地位も名誉も、そしてこの身も、実は全部が借り物なんです。そのことが深く頷けた時、初めて仏法を聞かせていただいたと言えるのではないでしょうか。

020性分

加藤淳

渡辺哲雄さんが『老いの風景』という本で次のような話を紹介しています。
ツルとカメという名前のめでたさに加え、双子の姉妹が揃って百歳の長寿を達成した珍しさで、誕生日には多くの報道陣が二人が住む養護老人ホームに詰めかけた。

「如何ですか?こうしてお元気で百歳の誕生日を迎えられた感想は」という質問に「いかがも何も長生きしすぎたせいで、夫や子どもには先立たれるし、孫はたまにしか面会に来てくれせんし、正直言うていいことは一つもありませんナモ」とツルは答えたが、カメの方は「わたしゃあ、夫や子どもの最後の世話もこの手でできたし、孫は思い出したように面会に来てくれるし、幸せすぎて涙が出ます」と深々と頭を下げた。

「施設の暮らしはどうですか?」という質問には「こまごまとした決まりがようけあって窮屈なもんですわ。狭い二人部屋で気兼ねはせんならんし、風呂は二日おきにしか入れえせんし、ええことは一つもあれせんナモ」と、怒ったように眉を上げるツルに対し「同じような年寄りが一緒にいてくださるので、ちっとも淋しゅうはないし、お風呂も二日に一度は入れてもらえるし、幸せすぎて涙が出ます」と、カメはまた頭を下げた。

「最近の世の中をどう思われますか?」とマイクを向けられると「ほうやのう、空気は悪いし、人はとげとげしいし、政治家は悪いことをするし、物価は高いし、ええことは一つもあれせんナモ」と、ツルが表情を曇らせるのに対し、カメは「皆さんに親切にしてもらった上に、年金までいただいて、幸せすぎて涙が出ます」と目の高さで合掌してみせた。

さて、皆さんはこの話を聞いてどう思われましたか?一体私は何を生活の中心にして生きているのだろうということを考えさせられました。私は幸せになりたいということを望みながら生活をしています。しかし、それとは逆に不幸な目にあったり、悩みがあることも私の人生です。いいことばかり経験していくことだけが私の人生ではなく、見たくないこと、経験したくないこともまた私の人生だと受け止めていくところに、カメさんの生き方があると思います。カメさんは百年の人生で何に出会ったのでしょうか?本当に私が願っていることは何かということを考えていきたいと思います。

019深い悲しみ 

岡田豊

昨年、あるおばあさんが亡くなりました。夫を太平洋戦争で亡くされた方でした。葬儀の後、息子さんがお内仏の引き出しを整理していると、父の髪の毛が出てきました。「父は戦死したので、遺骨が戻ってこなかったのです。母のお骨と父の遺髪を一緒にお墓に納めたい」とおっしゃるので、そのようにしました。「これでやっと親父とお袋が一緒になれたなぁ」という言葉が印象的でした。

靖国神社の写真と、遺髪の納められたお内仏と、軍服姿の父の遺影の下で営まれた家族の生活はどのようなものだったのだろう。覚悟していたとはいえ、幼い子どもを抱えて残された妻の悲しみ、苦しさ。軍人と崇められ、名誉の戦死と称えられていたのに、戦後一変してしまったという悔しさがあったはずです。しかし、お寺の住職も含め、私たちはこの悲しみに目を向けてこなかったのではないかと、その時思いました。

今日の小泉首相の「靖国参拝」の根底には「誰も分かってくれなかったじゃないか。靖国神社だけが慰めてくれる場所だったんだ」というような遺族の方々の感情があるように思えます。そして一方「あなたたち日本人は、日本の軍隊が我々にもたらした苦悩を本当に分かっているのか。分かろうともしていないじゃないか」というのが湧き起こるアジアの人々の声ではないかと思います。

つまり、私たちは隣の家族の悲しみの声にも、アジアの人々のうめき声にも、聞く耳さえもたず、戦後の自らの平和と繁栄を追い求めてきたということです。もちろん、人の悲しみを我が悲しみとすることは簡単なことではありませんが、このことに思いをいたすならば、悲しむべきことを悲しむことができず、また、自らの課題なのに、なかなか課題にならないという、いつの間にか自己充足して傲慢となっている私たちの姿が照らし出されてきます。

018相手の身になる 

折戸芳章

JR福知山線の脱線事故から、2ヶ月が経とうとしています。107名の尊い命の犠牲者と数百名の負傷者という大惨事となり、経営するJR西日本鉄道の利益優先、縦割り管理運営体質に世論の非難が浴びせられました。

今回のJRの事故対応の不備を見ながら、松竹新喜劇の藤山寛美さんの芝居の一場面を思い出しました。寛美さん演じる建設会社社長が、一流大学建築学科卒で一級建築士の息子の設計図と、長年その会社の建築現場で責任者として汗水を流し独学で一級建築士になった人の設計図のどちらで建築するかという場面で、長年現場で責任者をしてきた方の設計図を選択しました。悲しむ息子に父である社長は「お前はセメント一袋の重さを知っているか、柱一本の重さを知っているか、お前は現場での苦労を何ひとつ知らない、ただ知識だけで描いた設計図だ。それに比べてセメントや柱の重さを熟知している者が、運ぶ現場の者の身になって描いた設計図とでは、現場で働く者はどちらが工事をしやすく、意欲的に働けるかは明らかだ」と説明しました。蓮如上人は「われは、人の機をかがみ、人にしたがいて、仏法を御聞かせ候う」(真宗聖典876頁)と仰せのように、相手の身になってその人の境遇や性質・個性によってその人に合った教えの説き方を心がけておられました。

JR西日本の管理職が、毎日利用いただく乗客の皆さん、現場で働いている運転士、車掌の身になって会社を運営していれば、この大惨事は防げたのかもしれない。