024誕生日

藤岡真

8月も終わりを迎えましたが、まだまだ暑い日が続くようです。この時期に生まれた私は、子どもの頃から「お前は生まれる前から親不孝だった」と言われたものです。暑い夏の間中お腹の中にいたからというのがその理由だそうです。「生まれる前から」ということは、生まれてからも、そして当然今も親不孝だという意味なのだろうかと、釈然としない気持ちで誕生日を迎えたものでした。最も、どの日が誕生日であるかということは後になって教えられて、覚えたに過ぎないのであって、気がついた時にはもうすでに生まれていたというのが事実でありましょう。

そして、誕生日と同じように、この先、自分で知ることのできない、将来いつか必ず来る日に命日があります。今日、誕生日を重くして命日を軽くする傾向がありますが、かつての日本には命日を重んじて、誕生日を祝う風習は無かったそうです。それは、人は生まれただけではあまり意味がなく、どう生きたかに重みを置くことからきていると言われています。命日を大切にしたのは、亡き人との別れを通して、私の生き方を問い直す、それが法事に遇うという意味を持つからでありましょう。

また、人と生まれて人になるという言葉があるように、単に人と生まれても、自分自身に羞じること、そして他人に対しても羞じるということが無いならば、本当の意味での人とは言えないとも言われます。父母を縁として、生まれてきたのですから、父母は言うに及ばず、私が生まれ、今ここにあることについては、私が望むと望まないとに関わらず、無数の恩恵にあずかってきたに違いありません。その恩恵を忘れて生きている姿こそ羞じるべきであると、さらに、今に至るまで人になることを忘れて生きてきたことこそ、一番の親不孝だと言われているように思われます。

ですから、自分の誕生日を人となって下さいと願われた日として、今まで受けてきた恩恵に思いをいたすならば、それも意義のあることではないでしょうか。