渡邊浩昌
「彼岸」が私たち日本人の心の中から失われつつあるように思われます。それは、実態的な「極楽」とか「あの世」という「彼岸」の喪失ということではなく、私たち日本人があらゆるものを「自分という立場」のみでしか周りを見ず、また物を考えず、異なった立場に立って…ということが無くなったということです。
例えば「それが私にとってどんな意味があるのか」「それが私にとってどう関係あるのか」といった物の見方、物の考え方です。意味を求める生活は私自身においては高校時代の頃からではなかったかと思われます。「こんな受験勉強が私にとってどんな意味があるのか」「こんな仕事をしていて自分にどんな意味があるのか」と、現に今していることに空しさを感じ、しかも軽蔑すらもしていたかと思います。
そんな中で出会ったのがフランクルの言葉です。フランクルという人は『夜と霧』という作品で有名です。彼はアウシュビッツでの強制収容所の中で他の囚人たちが自ら命を絶っていくのを目の当たりにしました。その時、多くの人たちが残していった「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていない」という叫びに対し、「人生から何を我々はまだ期待できるのかが問題なのではなく、むしろ人生が何を我々に期待しているのかが問題なのである」と、その見る立場、考える立場の転回を力説しています。
『無量寿経』には、世自在王仏と法蔵比丘の出会いが表明されていますが「時に国王ましましき。仏の説法を聞き心に悦予(えつよ)を懐き…」
そこでは自らの立場でのみ物を見、物を考えることしかできなかった国王が、仏の説法を聞くことにより、初めてその呪縛から解き放たれたその悦びが表明されています。そして、求道者法蔵比丘としての新たな歩みの始まりが謳(うた)われています。
彼岸にあたって、私たちは「人生からの問い」「彼の土からの呼びかけ」に耳を傾けるべきではないかと思われます。
芳岡恵基
以前、NHKのテレビ番組『プロジェクトX』の中で放送された「ツッパリ生徒と泣き虫先生~伏見工業ラグビー部・日本一への挑戦」を観た時に、たいへん心を打たれました。主人公の先生は、元ラグビー日本代表の山口良治さんでありまして、教師としてはじめて伏見工業に赴任されたところから番組が始まるのですが、当時の伏見工業とは「日本一の荒れた学校」と呼ばれるぐらい事件や事故が絶えることはありませんでした。そんな中、ラグビー部の監督として生徒たちと向かい合うわけですが、当然部員たちからは猛反発を受け、まともな練習ができない状態で一年が過ぎる中で、初の公式戦である春の京都府大会を迎えることになりました。初戦の相手は、名門花園高校であり、日本中にその名が知られた強豪チームで、当然のように、一方的な試合内容になり、後半15分には、80対0とワンサイドゲームになってしまいました。
その時に山口先生の身体の奥から、堪えきれないものがこみ上げ、大粒の涙がこぼれ落ち、「この子どもたちは、今どんな気持ちなんだろう。めちゃくちゃにやられて悔しいやろな、歯がゆいやろなと思った時、俺は今まで生徒たちに何をしてやったんやと、初めて自分に目が向きました。そして、俺は元日本代表だ、監督だ、教師だと思い上がっていた自分に気づき、本当にすまんと思って、あの涙の中で生徒たちに謝っていたんです」と言われました。
私はこの言葉を聞いた時、山口先生がまるでお念仏されているかのような尊いお姿に出会わせていただいた思いでありました。山口先生はその後、生徒と心が通じ合い、ラグビー部は一年後には京都を代表するまでに育っていったようであります。
三浦統
ある峠道、自転車を押して山を越えようとしているおばあさんを、車で追い越しました。辺りはもう真っ暗です。不思議に思い、引き返して、何処まで行かれるのか尋ねてみました。するとおばあさんは「わからん」とおっしゃいます。「何処から来られたのですか」と尋ねてみても「わからん」とおっしゃいます。疲れもあったのでしょう。イライラしたり私におびえたような目をしたりと、私を信用して話をしてくれるまでにずいぶんと時間が必要でした。おばあさんは病院から親戚のお家へ向かう途中、完全に方向を見失い、いま自分が何処へ向かっているのか、自分が何処にいるのか全く分からず、ただただ不安をかき消すかのように目の前の道を正反対の方向とも知らずに、体力の限り歩いていたのでした。
ふと思いました。私は自分の人生の行き先と現在地を本当に分かっているのだろうか。目の前の道を一生懸命歩き、その一生懸命さに満足しているだけで、実は自分の立っている所も分かっていないのではないか。だとすれば、道に迷ったおばあさんのように、不安に押しつぶされそうになりながら、人を信用することもなく、ただ体力を消耗していくだけの人生になりはしないか。そう思い、少し怖くなりました。
明治を生きた仏教者、清澤満之先生は、「我々がこの世で生きていくためには、必ずひとつの完全な立脚地がなくてはならない。もしこれなしにこの世で生活し、何事かを行うとするなら、それはちょうど浮雲の上で技芸を演じるようなもので、転覆を免れることができないのはいうまでもない。ではどのようにして我々は完全な立脚地を獲得するべきであろうか。おそらくは絶対無限者にたよる以外にうつべき手はあるまい」と、教えてくださっています。
絶対無限者、つまり阿弥陀仏をたよるほかに、迷うことなく人生を歩いていくことができない私なのです。そんな私の事実を、改めて確認させてくれた、おばあさんとの出遇いでありました。
松下至道
終戦記念日の夕方、墓参りに行った時に見た光景です。家族連れで来られていたんですが、ヤブ蚊が多くて蚊をたたく音が聞こえてきました。家族連れに、まだ30才前後の若いお母さんと、4、5才の男の子がいたんですが、その子が持ってきていた殺虫剤を、蚊のいそうな所に吹きかけ始めたんです。近くにいたおばあさんらしい人が、その子に対して、「あっちにも吹きかけな、こっちにも吹きかけな」と言って、蚊のいそうな所を指して、殺虫剤を吹きかけるのを勧めていたんです。すると、男の子の横にいた若いお母さんが、男の子を捕まえて優しく叱ったんです。「刺されてたたくのなら、まだ仕方がないけど、刺していない蚊まで殺すのはやめなさい。蚊にもいのちがあるのよ。まだ生きているんだから」
私は隣のお墓で、そのお母さんの声を聞いて、何か感動に似た思いをもちました。自分だったら、あのお母さんのように言っただろうか。ふとそう考えた時、ゴキブリやムカデなど、見た瞬間に殺そうとしている自分の姿が浮かびました。別に危害を加えられたわけでもないのに、ただ気持ち悪い、かまれたらどうしようというだけで…。
現在、イラクでは日常的にテロが起こり、毎日何十人ものいのちが奪われています。そもそもイラク戦争をアメリカが起こした理由は何だったのでしょう。「大量破壊兵器を持っているから、事前に危険を摘み取るため」でした。私には、蚊のいそうな所に殺虫剤を吹きかけていた男の子、それを勧めるおばあさんの姿がアメリカとアメリカに追随する日本の姿とだぶりました。人間は、人間相手でもそういう姿で対しているんだと。それは、私自身の姿とも重なったのです。
終戦記念日にお墓で、若いお母さんから聞いた言葉は、いのちの尊さを考えさせられる良いご縁となりました。「(われ)当(まさ)に世において無上尊(むじょうそん)となるべし」というお釈迦様のお言葉があります。このお言葉には、自分自身の命は何ものにも比べられない尊さがあるのだということを教えてくださっています。他と比べて尊いのではないのです。比べられない尊さなのです。南無阿弥陀仏というお念仏も、その何ものにも比べられないいのちの尊さにうなずいて生きて欲しいという仏様の願いのこもった言葉なのではないかと思います。
田切忍
日頃、あまり物事を深く考えない自分が、今年は「生老病死(しょうろうびょうし)」について真正面から向き合って、考えていかなければならないような出来事に出遇いました。
一つは、1月に起こりました父との死別、もう一つは、私自身の病気での入院です。
父の死については、かなりの高齢で持病もあり、何となく考えないこともありませんでしたが、現実の死を目の当たりにして、なかなかその事実を受け取れない私がありました。
また自分の入院についても、いつまでも若く病気とは無縁であると思っていましたから、大変ショックであり、何かの間違いだ、誤診じゃないかと感じている傲慢な私がありました。医者から「今すぐ、入院しなさい」と言われても「都合がついたら、今度入院します」という滑稽で、返事にならない返事をしていたのです。
生きている上で、悲しいこと、嫌なこと、望ましくないこと、いろいろな出来事に出遇います。そして、今まさに現に起こっている事実を事実として引き受けていかねばならないのですが、私の思いに振り回されて、なかなか本当に納得して、事実を事実として受け取っていけない私というものがあるなあと、前の出来事から感じさせられた次第です。
藤井信
毎日新聞社が発行した『日本のスイッチ』という本をパラパラとめくってみました。「見えない日本が見えてくる」と書かれたその本は、多くの人が携帯電話などを用いて、様々な質問に対して二者択一で回答した結果が載っています。例えば「お盆にお墓参りは」に対して「します」「しません」というように。ちなみにその質問に対しては「します」が49%で「しません」が51%でした。多くの人はそう考えるのか、なるほどなあと感じながら、私の答えが少数意見であることも多々ありました。別にそれならそれでいいのでしょうが、たまに多数意見に鞍替えしたことがありました。やはり多数意見に身を寄せた方が何となく心が落ち着くということでしょうか。
私たちは他人からよく思われたい、悪く思われたくないという心をもっています。この心があるがままの自分でいるよりも、自分が他人からどう評価されているか、軽蔑されてはいないかといつもびくびくさせるのでしょう。
また、あるがままを受け入れない心は他人にも向けられます。もう亡くなられましたが、いつも朗らかで陽気なおばあさんがみえました。お参りに伺うと、いつも楽しくお話をしていましたが、自分のお家が傷んできたので建て直しをされてから、急にいつもの元気がなくなりました。「何をするにも気力がない」と言うのです。私は家を建て直すという大変な仕事をされたので、疲れが出たのだろうと思っていました。しかし、何ヶ月経っても同じことを言われるので、「あまりそんなことばかり言わないで、気力を出さないといけませんよ」と言ってしまいました。
結局、お身体が重い病気に冒されていたことが原因であったのに、私はそのことが分からなかったのです。更に私は元気のないおばあさんを受け入れず、元気なおばあさんばかりを求めていたのです。
私たちは自分に都合のいい思いばかりを大事にして、事実を事実として受け取ることができないでいるのではないでしょうか。自分を本当の自分以上に勘違いしたりして、あるがままを受け取れないから苦しむのでしょう。しかし、あるがままを受け入れることは自分の力では容易なことではありません。鏡に譬えられる教えに謙虚に聞いていくところに、そのような私の本性が知らされてくることを今更ながら感じさせられました。
木名瀬勝
不安はどうして起こってくるのでしょうか。私の心が未熟であって、経験が乏しく、日常生じる問題に対処するだけの能力が備わっていないため、人間関係や社会関係において思うように立ち振る舞うことができないため、だから不安が起こってくるのだと思っていました。ですから、人に負けない自分、強固な自分を早く作らねばならない、社会のしくみを分析して、うまく適応できるようにしなければならない、そうすれば思い通りに安心して生きていけると思っていたのでした。
ところが、なかなか望みどおりの自分にならない、落ち込んだり、失敗する、そういう自分を認められなくなります。こんな筈じゃないと思う苛立ちが、周りの人たちへの憎しみとなって争ったり、あるいは不安を忘れるために目先の享楽だけ求めるようなことを繰り返してきました。しかし、年を重ねて経験を積んだつもりでも処世術を身につけても、不安は相変わらず起こってくるし、しっかりした自分というものができないのであります。その上、不安を忘れようとすることが逆に虚しさをどんどん募らせるのです。何故そうなってしまうのか、どうしたらいいのか、手がかりがありませんでした。
そんな時、ある先生が「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意(ほんい)」と『歎異抄』(真宗聖典627頁)の言葉を引かれ、間違った生き方をしている私たちを真実に引き戻そうとする働きが本願であり、間違った生活をしているから不安や、虚しさが生じるのである、と教えてくださいました。どうして間違った生き方をしているかというと、偽りの自分を「わたし」と思い込んで、その偽りの自分を満足させようとしているからだというわけです。このような自分を拠り所にしている限り、不安から離れることはできないことや、その不安に向きあわなければならないことを教えられました。
森英雄
今が一番いいんよ
あの時こうだったらというものはない
今ここに この時に永遠の命がある
いつも 今 全力投球
大石法夫
現在に安住できる浄土真宗のみ教えは、過去においては一切の後悔というものを残さない。未来については一切の不安がない。だからこそ、この現在に全力で生きることができる。もう少し余力を残していこうとかそういう計らいが人間を暗くする。それは、人間にまだ夢を見ているからだ。人間の思いは幽霊のように足がない。足がないということは、現在位置がはっきりしていないということ。東京へ行くのに「あなたは今どこにいますか」と聞かれて「さあ、どこでしょう」と言っていては道を歩めないでしょう。人生にはいろいろな落とし穴があり、誘惑もあり、回り道もあるでしょうが、そこに迷ったことも自分自身の本当の姿が見出されれば、無駄ということもなくなります。仏教の基本中の基本は「汝、自己を知れ」という一言であります。「仏の本願を信じ」ることが、仏のご本願が建てられたその理由が、他でもないこの自分自身の全体を知らせんが為であったと思い知らされることが肝心です。仏によって見出されたこの自分は何者かというと「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(真宗聖典627頁)「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(真宗聖典634頁)という身だということです。だからそこに仏のご苦労が偲ばれるわけです。ただ惚れ惚れと仏のご苦労を偲び、この業の身をいただいたことの深さが感じられてくるわけです。
初めてこの人生に対する姿勢が決まってくる。人生に何かを期待するのではない。人生が私に何を願っているのかという声が聞こえてきて、初めて道を歩むことが始まります。もう一度大石先生のお言葉を繰り返します。
今が一番いいんよ
あの時こうだったらというものはない
今ここに この時の永遠の命がある
いつも 今 全力投球
折戸芳章
「過ちを改めざる、それを過ちと謂う」ということわざがあります。まさに年金未払いで知らん顔をしている国会の先生方に送りたい言葉です。しかし、私たちの日常生活の中でも自分の行動や発言によって、人に迷惑をかけたり嫌な思いをさせていても、そのことに気づかずにいることがあります。私の心の中に流れている「絶対に私が正しい」と決めつけてしまっている思い、そして、その思いは真の事実を突きつけられても改めようともせずにいます。そのことこそが一番の過ちでありましょう。
親鸞聖人は、そういう心の存在を我が身の上に顕(あきら)かにされたからこそ、自らを愚禿(愚かな私)と名告(なの)られたのでしょう。
人は誰でも過ちを犯してしまいますし、過ちを犯さない人なんて何処にもおりません。大切なのは、過ちに気づかされた時に素直に認める心でしょう。
『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』に「たとい、なき事なりとも、人、申し候(そうら)わば、当座に領掌(りょうじょう)すべし。当座に詞(ことば)を返せば、ふたたびいわざるなり」(真宗聖典877頁)と教えてくださっているように、人が私に注意してくれたら、たとえそうでなくても素直に聞き入れることだ。もし「私は間違っていない」と反論すれば、その人は二度と注意はしてくれないでしょう。
私に注意をし、叱ってくださる人がいるということは、本当にありがたいことです。
平野法祐
自力で生きているということは、自分が生きている、俺がやっている、俺が食べている、念仏も俺が称えているというように、何でも「俺が」が付いてしか、我々は意識を起こせない。その「俺が」という思いを破られるのが「無碍(むげ)の光明(こうみょう)」であろう。しかし、その「無碍の光明」に触れることはそんなに容易なことではない。
「俺が」という以前に我々は生きている。だからこそ「俺が」と言えるのではないかと自問自答していたところ、3才の外孫が、母親と2人で夕方遊びに来た。今までもお兄ちゃんや、母親とは何度も泊まっていったことがあるので、「今夜独りで泊まっていくか」と言ったところ、やや沈黙があって、朝になったら死んでいるとか何とか訳の判らないことを言う。それで、さらに詳しく尋ねると、「寝ている時は死んでいて、朝になると母親が生き返らせてくれている」と思っていたらしい。その辺りが子どもながらも、どうも不安だったようだ。
こんな3才の子どもでも、いのちに対する無意識の感覚を持っていることに驚き、寝ている時でも、ちゃんと仏さんは息ができるようにしてくれているのだよ。「仏さん、ありがとうと言わねば」と教えたところ、「そうなんや」と納得したように「仏さん、ありがとう」と、うれしそうに言った。
この時、「俺が」を離れた「いのちの感覚」との出会いをいただいた。いのちそのものは両親から生まれているけれども、「誰がくれた」とは到底いえないものです。このいのちのご縁に出会うということは、まことに不思議としかいいようがない。
いのちは自分以外のものと自分を、はっきりと見分けていく力をもっている。これも不思議な働きだ。そして、「自分とは何か」ということを、いのち自身はどこかで判っているようでもある。だから「俺が」というのは、いのちの後からついてきた人間の妄念ということがよく判る。
『親鸞聖人血脈文集』に「自力(じりき)と申すことは、行者(ぎょうじゃ)のおのおのの縁(えん)にしたがいて、余(よ)の仏号(ぶつごう)を称念(しょうねん)し、余(よ)の善根(ぜんごん)を修行(しゅぎょう)して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身(しん)・口(く)・意(い)のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御(おん)ちかいの中に選択摂取(せんじゃくせっしゅ)したまえる第十八願の念仏往生の本願を信楽(しんぎょう)するを、他力と申すなり」(真宗聖典594頁)とあり、また『恵信尼消息』には「風邪(かざ)心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、…臥して二日と申すより『大経』を読むことひまもなし。…名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして…人の執心、自力の心(しん)は、よくよく思案あるべし…」(真宗聖典619頁)とあり、親鸞聖人が自力の執心が如何に強いかを表白されている。
「俺が」の意識は何処からきたのか、何故だかよく判らないが真(ほんとう)の意味で、この自我に気づいていくことが「無碍の光明」に触れる根ではないかと思う。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。