027「彼岸」について

渡邊浩昌

「彼岸」が私たち日本人の心の中から失われつつあるように思われます。それは、実態的な「極楽」とか「あの世」という「彼岸」の喪失ということではなく、私たち日本人があらゆるものを「自分という立場」のみでしか周りを見ず、また物を考えず、異なった立場に立って…ということが無くなったということです。

例えば「それが私にとってどんな意味があるのか」「それが私にとってどう関係あるのか」といった物の見方、物の考え方です。意味を求める生活は私自身においては高校時代の頃からではなかったかと思われます。「こんな受験勉強が私にとってどんな意味があるのか」「こんな仕事をしていて自分にどんな意味があるのか」と、現に今していることに空しさを感じ、しかも軽蔑すらもしていたかと思います。

そんな中で出会ったのがフランクルの言葉です。フランクルという人は『夜と霧』という作品で有名です。彼はアウシュビッツでの強制収容所の中で他の囚人たちが自ら命を絶っていくのを目の当たりにしました。その時、多くの人たちが残していった「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていない」という叫びに対し、「人生から何を我々はまだ期待できるのかが問題なのではなく、むしろ人生が何を我々に期待しているのかが問題なのである」と、その見る立場、考える立場の転回を力説しています。

『無量寿経』には、世自在王仏と法蔵比丘の出会いが表明されていますが「時に国王ましましき。仏の説法を聞き心に悦予(えつよ)を懐き…」

そこでは自らの立場でのみ物を見、物を考えることしかできなかった国王が、仏の説法を聞くことにより、初めてその呪縛から解き放たれたその悦びが表明されています。そして、求道者法蔵比丘としての新たな歩みの始まりが謳(うた)われています。

彼岸にあたって、私たちは「人生からの問い」「彼の土からの呼びかけ」に耳を傾けるべきではないかと思われます。