カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2015年

005 自慢

松下至道

先日、少々体調を崩しまして、近所の病院に行ってきました。病院内は親子連れもいたんですが、ほとんどが高齢者の方々でした。私の座った席の横には三人のお年寄りがおられて、いろいろお話をされています。その会話が耳に入ってきました。昨日はここの病院に行ってきた、ここの具合が悪いといった、病気や怪我の話をされています。みなそれぞれを気遣って話をしておられました。長年使ってきた体ですから、具合が悪い場所もでてくるだろうな、年を取るとはこういうことなんだなと思って聞いておりました。

「あなたはまだいいですよ、わたしなんか」ということを一人が言い始められました。今度は自分がどれほど重い怪我、大きい病気をしたか、どれだけ辛くしんどいかの話になってきました。まさに不幸自慢になっていったのです。一人の方が診察室に呼ばれてその会話が終わりましたが、いろいろ考えさせられました。

「自分よりましだから落ち込まないで」そう励ましたくて言った言葉でしょうが、裏をかえせば自分より不幸な人間はいないと、不幸であることをもって人より上に立とうとしているのです。まさに「慢」です。どんなことででも人と比べて勝ろうとしているのです。たとえ相手が「そうですね」と同意して、慰められたとしてもそれによって苦しみや悲しみから解き放たれることはありません。もちろん言った当人も。

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当り苦楽の地に趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。

(『真宗聖典』六〇頁)

という言葉が『仏説無量寿経』の中にあります。

人は皆それぞれの人生を、それぞれの身をもって生きていくしかありません。代わってもらうことなどできないのです。どの人もみんな同じなのです。本当は比べる必要がないのに自他を比べて、傷付け、傷付いていく。そこから解き放たれることを願いながら。

真宗の教え、お念仏の働きは、そういう私たちの愚かさを照らして、寄り添ってくれる働きであり、その働きを受け取った時、自分が本当に愚かで罪深い存在であったと頭が下がり、自分も他者も尊い存在であることが明らかになる。そこに初めて苦しみや悲しみから解き放たれる道が開けてくるのだと、わたしはそう聴聞させてもらっております。

(伊賀組・圓明寺住職 二〇一五年三月上半期)

004 私の思いを超えた尊いお念仏

山田有維

お寺で生まれ、お寺で育ち、両親、祖父母、ご門徒さんが阿弥陀さまに手を合わせ、「なまんだぶつ、なまんだぶつ」とお念仏を称える姿を見て、それを真似てお念仏をいただくようになりました。

この娑婆の世界で生きていくことは、自分の思い通りにいかないことばかりです。自分の思うように事が進まず、執着という壁にぶちあたって身動きがとれなくなることが多々あります。

そんな時、必死にお念仏を称えて、自分の都合の良いようになることを願っている自分にはっとします。お念仏は仏恩報謝ではなかったのか。こんなお念仏でいいのだろうか。このお念仏は本当のお念仏ではないのかもしれないと、あれこれ考えて分からなくなってしまいます。

称える側にどういう意図があろうとなかろうと、名号に託された願いというものの意味が変わるのか

(「信とは何か-浄土真宗における信の意味」公開講座「信巻」講義録 講述 藤場俊基)

とあります。

この文章を読んで、うなずくことができました。称える私がどうであろうと、「なまんだぶつ」の願いや意味は絶対に変わることはありません。私が悩むことではないのです。私の思いをはるかに超えた尊いお念仏であります。

「自力の念仏、そのまま他力とわかる時がくる」(『法語カレンダー』木村無相)これは、二〇〇四年九月の法語カレンダーの言葉です。

自分の都合の良いことばかりを追い求め、お念仏までもその手段に利用してしまっている私にも「他力とわかる時がくる」のです。それは阿弥陀さまが絶えることなく私にはたらき、呼びかけてくださるからなのです。そのはたらき、呼びかけに気づいて頭が下がっても、次の瞬間には忘れて、またお念仏を手段にしている私なのです。その繰り返しの中で、阿弥陀さまは倦むことなくはたらき、呼びかけ続けてくださり、私は真実に出遇っていけるのです。

(二〇一五年二月下半期 三重組・西覚寺住職)

003 報恩講に導かれて

伊藤一郎

今年も昨年に続き、桑名別院報恩講法要のお手伝いをさせていただくご縁を仏さまからいただきました。

十二月二十日より二十三日まで四日間厳修され、二十三日は御満座法要、例年の如く境内の駐車場係のお仕事をいただきました。二十三日は、寺町商店街の三八市が催され、年末を控えて大入りとなり、多数のご門徒さま又近在の方々の車両で境内が満杯となった上、年末のお墓参りのご門徒さまも加わって、境内はさらに混雑いたしました。

そのような状況の中でしたが、池田勇諦先生にいただくご法話が屋外スピーカーを通して、屋外の私たちにも聞かせていただけるよう配慮されておりました。そういった場で、「気がつけば、民がゆるさぬ国となり」池田勇諦先生の迫力一杯の堂内のご法話が屋外の私たちの側にも伝わって参りました。

私たち「真宗門徒を憂い、日本国を憂い、そして、全人類を憂いて救済してやまない仏さまの願い」が外気の寒さにも負けない先生の言葉となって伝わって参りました。

ご法話の詳細は屋外の為、分かりませんでしたが、私にはそんな受け止めができたような気がいたしました。「私も遅ればせながらいただいた自らのご縁を人生の糧として、精一杯生きていく覚悟でございます。

節(ふし)に芽の出る如く人も又節あるごとに幸せぞ増しける‼

(読み人不詳)

節一杯の私がここにいます。一層のご指導をいただければ幸いです。

(二〇一五年二月上半期 南勢二組・道專寺門徒)

002 心を映す鏡

山口晃生

皆さんは鏡をよくご覧になりますか。 鏡には「姿を映す鏡」と、もう一つ「心を映す鏡」があるようです。

私事で恐縮ですが、四代前の先祖に「大高(おおだか)兵蔵(ひょうぞう)」という人物がおりました。幼少の頃から武芸を好み、十八歳の時、江戸に出て「心形刀流(しんぎょうとうりゅう)」を、更に「直心影流(じきしんかげりゅう)」を極め、免許皆伝となり、三十歳の時、故郷(こきょう)に帰り道場を開きました。集まる門人、三百有余人を数えたと伝え聞いております。

その「直心影流兵法免許」表紙の裏に「丸に明鏡(めいきょう)」と書いてあります。又、古い『真宗聖典』表紙の裏には本物の「鏡」が貼り付けられ、しかも対面するように次のページに「心」と書かれています。この二つの鏡、共通点があるようなのですが、一体どんな意味があるのでしょうか。

「二河白道(にがびゃくどう)の喩え」で有名な 善導大師は、「経教(きょうぎょう)はこれを喩とうるに鏡の如し、しばしば読み しばしば尋ぬれば、 智(ち)慧(え)開(かい)発(ほつ)す」即ち お経に説かれている仏さまの教えは、喩えるなら鏡のようなものだと言うのです。

鏡はその前に立つものを偽りなく映すように、お経も何度も読み返しそのお心を尋ねるならば、偽りない心と身の事実をつぶさに映し出す。それがお経のはたらきであり、仏さまの智慧、と教えてくださいました。

お経はお釈迦さまの教えであります。それが七高僧により時を越え、国を越え、はるばる日本へと伝えられました。そして親鸞聖人は多くの経典の中から、

それ、真実の教を顕(あらわ)さば、即ち『大無量寿経』これなり。

(『真宗聖典』一五二頁)

と、『無量寿経』こそ、真(まこと)の教えであると受け取られました。

私たち真宗門徒は、親鸞聖人の教えを聞く事がいちばん大事な仕事であります。何度も何度も聞き続けることにより、鏡に映る自分の姿が見えるように、我が身が照らされ、我が心が顕かになる。それが明鏡であり鏡の意味ではないでしょうか。

釈尊の教え、親鸞聖人の教えこそ私の心を映し出す鏡であったのだと善導大師により気づかせていただきました。

(二〇一五年一月下半期 三重組・蓮行寺門徒)

001 自力作善

田代賢治

新年明けましておめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、たくさんの方々のお力添えをいただき、心より感謝申し上げます。

本年も三重教区と桑名別院本統寺をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、このたびは「自力作善」のことについてお話ししたいと思います。

「私は真宗の門徒である」「だから、お念仏に生きる者は親鸞聖人の教えによって生かされているんだ」と言えば、それは当然のことで、当たり前ではないか。でなければ、私は今、このテレホン法話も聞いてはいない、と言われる方もおられることでしょう。

しかし、それは、あくまで前提でしかないということであります。この前提というものは、問い直されないというところに問題があります。一度立てたら問い直さずに済ませてしまうのが前提というものであります。

私の兄から聞いた話ですが、第十九願で言われる「自力作善」のことを、平野修先生が「話せば分かる、分かれば変わる」という表現で教えてくださったということであります。

そうですね、私たちは他人(ひと)に対して、「話せば分かる。聞けば分かる。分かれば変わる」という前提をもって、接していますが、果たして皆さんはどうでしょうか。この前提が曲者(くせもの)で「自力作善」のことだと言われるのであります。

ややもすれば私たちは、教えから遠く離れ、周りの環境と私自身とを分けて、自分の思いや分別で生きています。いつのまにか、日常は自我意識でもって生きています。思い通りに事が運べば、意気軒昂(いきけんこう)とし、思い通りに運ばなければ、意気消沈(いきしょうちん)する、浮きつ沈みつの毎日であります。

この身の事実を、改めて問い直し、私たちの前提を問い直すことによってお念仏を中心とした生活に変わる道こそを見出したいものであります。

(二〇一五年一月上半期 三重教務所長)