005 自慢

松下至道

先日、少々体調を崩しまして、近所の病院に行ってきました。病院内は親子連れもいたんですが、ほとんどが高齢者の方々でした。私の座った席の横には三人のお年寄りがおられて、いろいろお話をされています。その会話が耳に入ってきました。昨日はここの病院に行ってきた、ここの具合が悪いといった、病気や怪我の話をされています。みなそれぞれを気遣って話をしておられました。長年使ってきた体ですから、具合が悪い場所もでてくるだろうな、年を取るとはこういうことなんだなと思って聞いておりました。

「あなたはまだいいですよ、わたしなんか」ということを一人が言い始められました。今度は自分がどれほど重い怪我、大きい病気をしたか、どれだけ辛くしんどいかの話になってきました。まさに不幸自慢になっていったのです。一人の方が診察室に呼ばれてその会話が終わりましたが、いろいろ考えさせられました。

「自分よりましだから落ち込まないで」そう励ましたくて言った言葉でしょうが、裏をかえせば自分より不幸な人間はいないと、不幸であることをもって人より上に立とうとしているのです。まさに「慢」です。どんなことででも人と比べて勝ろうとしているのです。たとえ相手が「そうですね」と同意して、慰められたとしてもそれによって苦しみや悲しみから解き放たれることはありません。もちろん言った当人も。

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当り苦楽の地に趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。

(『真宗聖典』六〇頁)

という言葉が『仏説無量寿経』の中にあります。

人は皆それぞれの人生を、それぞれの身をもって生きていくしかありません。代わってもらうことなどできないのです。どの人もみんな同じなのです。本当は比べる必要がないのに自他を比べて、傷付け、傷付いていく。そこから解き放たれることを願いながら。

真宗の教え、お念仏の働きは、そういう私たちの愚かさを照らして、寄り添ってくれる働きであり、その働きを受け取った時、自分が本当に愚かで罪深い存在であったと頭が下がり、自分も他者も尊い存在であることが明らかになる。そこに初めて苦しみや悲しみから解き放たれる道が開けてくるのだと、わたしはそう聴聞させてもらっております。

(伊賀組・圓明寺住職 二〇一五年三月上半期)