008 香りと香害

中川 達昭

今回は「香り(におい)」について考えてみたいと思います。

季節もようやく進み、草花からさまざまな香りが漂ってくるようになりました。花の匂いから季節の移り変わりを感じられる方も多いでしょう。

さて、私たちはお寺でも家でも同じように、お勤めをする際にはお香や線香を使って香りを焚きます。どうして香りを焚くのでしょうか。

「香り」は華(花)とともに、仏に対する敬いのこころを、香こうや華(花)を捧げることであらわしています。また経典には浄土のありさまの一つとして「清らかで何とも言えない香り」がしていると説かれています。ですから仏壇には華(花)を立て、香を焚きます。香りをもって仏を荘厳し、浄土を、そして仏を憶念するのです。

ところで皆さんは「香害」という言葉をご存知でしょうか。私もインターネット記事を読んで初めてこの言葉を知りました。香水、洗剤、柔軟剤、芳香剤などが発する強い香りによって、頭痛、めまい、吐き気などの症状があらわれ、ひどい方は学校や職場にも行けず日常生活に大きな影響がでているのだそうです。

確かに現代は「良い香り」に満ち溢れています。テレビのコマーシャルでも「なになに臭」と言って、そのにおいが悪いことのように強調され、良い香りを謳い文句にした商品が紹介されています。最近はだいたいどこの家でもトイレには必ずと言っていいほど消臭剤や芳香剤がおいてありますし、かくいう我が家もそうです。

誰でも悪臭は嫌でしょう。しかし香害は、悪臭ではなく、私たちが“良い香り”とおもっているものが問題になっています。この点を私たちは考えないといけないのではないでしょうか。どうして「良い香り」がしないといけないのでしょうか?「良い香り」がしないものはダメなのでしょうか?「良い香り」とはいったいだれが決めるのでしょうか?いったいだれが「良い香り」を求めているのでしょうか?

そのようなことを考えるとき、香害だけではなく、すべての社会問題の根幹に通ずるものがあるように思えてなりません。香りを峻別する人は、必ず人間も峻別します。「良い香り」と「悪い香り」、「良い人間」と「悪い人間」、その両極端の価値観しかない世界に、いつの間にか我々は進んでしまっていないでしょうか。古来より人類は香りを生活の中に取り入れてきました。しかし「良い香り」を追い求めた結果、香害に苦しむ人を生み出してしまったという現実が横たわっています。

教えとは「良い香り」と「悪い香り」を峻別するものでありません。香りという縁をとおして我が身のありようを照らし、本願に目覚めさせていくものを教えといいます。そしてそのはたらきを本願力回向(=仏)といいます。

最後に香害で苦しんでいらっしゃる方々に心からお見舞い申し上げます。

(二〇一八年四月下旬 長島組・寶林寺衆徒)

007 出遇い

高科えりか

一九八四年、私は父の仕事でブラジルへ行きました。当時私は教育学部を出て、大阪の商社に就職していたのですが、外国に行きたくて決心しました。ブラジルは明るくて楽しい国で、友達もすぐに大勢できました。農場や教育関係の仕事をしながら、大学にもまた通って充実した日々を過ごしていました。

しかしある年のクリスマス、私はサンパウロ市内で目の前で銀行強盗に人が殺されたのを目撃してしまったのです。大変なショックでした。

この事件のために、私の心に大きな変化がおきました。世界が人間社会の真実のすがたを、私に見せつけたのです。残酷な暴力が生まれる無法社会と、無力な自分を心底実感したのに、これから一体何をすればいいのか分からないままでした。

そして一九八六年にサンパウロ市で東本願寺世界同朋大会が開催され、私はそこで能明院 大谷暢慶先生に出遇いました。ここから私たち家族がブラジルの大谷派サンガの中で、お育てに預かってゆくご縁が始まったのでした。

そして今、世界の潮流は経済第一主義の波となり、時代を押し流しています。その大きな渦の中、私の周囲にも病気や事故により、道半ばで亡くなっていった友人たちがいます。また日本では毎年三万人近い人が自ら命を絶っています。戦争をしていないのに、こんな国がどこにあるのでしょうか。この流れをなんとか止めようと一所懸命に活動している方々が、私の周囲には大勢おられます。

ただ一度の人生を、本当に生きたいと願っている人に、私たちがいつもお伝えする言葉があります。

貴方は今、誰かを助けていますか。

助けたいと思っていますか。

人生は予測できないことが次々と起こります。時に耐え難い困難がきたとしても、人はそれを乗り越えていける存在なのです。その力の源は、誰かが誰かと支え合っているという実感です。苦しむ人や孤独な人が、最後まで本当に求めているのは、この温かい気持ちなのです。

ブラジルという広大な地で、日本仏教の真髄を具現されていた大谷暢慶先生。そしてブラジル別院のサンガの方々に私は教えられ、助けられてきました。今もこれからも、私の道をずっと照らしつづけて下さっています。

ありがとうございます。

(二〇一八年四月上旬 長島組・仁了寺坊守)

006 君信ず、故に我信ず

三枝 明史

看護大学で教えるお医者さんが二人の学生に次のようなレポートを書かせました。「手術への不安に怯える患者に『絶対大丈夫』と言ってあげるべきかどうか」。

学生Aさんは、世の中には「絶対」はないから言えば嘘になるし、言って失敗した時のショックは大きい。また、「絶対」という言葉を使わなくても患者に勇気を与えることはできるはず、と論理的にまとめました。

一方、Bさんは、かつて具合が悪くなった時に、医者から「絶対大丈夫」と言われて心底嬉しかった体験から、「絶対」ということがないことは分かっているけれども、あえてそう言ってほしい、と実感に基づいてレポートをまとめたそうです。

皆さんはどちらの意見に与しますか。やはり、テレビドラマの『ドクターX』みたいに「私、失敗しないので」と言われたいですか。

手術のリスクをまともに伝えずに「絶対大丈夫」と言うことと、リスクを伝えてその恐怖に震える患者を生んでしまうこと。その間に正解を求めることができるのか。これは最終的には「信頼(信じるということ)」とは何かという問題に突き当たる、とそのお医者さんは指摘しています。

※里見清一「医の中の蛙」二十八(『週刊新潮』二〇一八年二月八日号より)

昨年、母が手術を受けた際、私たちはその前々日に主治医に呼ばれました。先生はCGを使って、術部と術式と考えられるリスクとその対策について、それは懇切丁寧に説明されました。私は、先生の手術に関する論理的な説明よりもその人柄に信頼感を持ち、「母の担当がこの先生でよかった」と強く感じました。

そうなのです。私たちは論理的な根拠に基づいて対象を信頼していると考えていますが、実はそれは真逆で、先に信頼が生じてから、後から根拠が付いてきているのです。日常生活のどんな些細なことでも、「信じる」という作用はこのような構造を持っていることが多いようです。

親鸞聖人はこのことをよくお分かりになっていたのではないでしょうか。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

(『真宗聖典』六二七頁)

と言われています。

念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

(『真宗聖典』六二七頁)

というお言葉も残されています。

ここに、信頼の究極的なありようは自己のすべてを信じることに投げ出し任せることであることが宣言されています。その時、根拠も論理もリスクも結果も無用となります。そして、そこにこそ救いがあるのではないでしょうか。

彼岸から、

汝(なんじ)一心に正念にして直ちに来きたれ、我よく汝を護らん

(『真宗聖典』二二〇頁)

と喚(よ)ぶ阿弥陀の声と、こちらの世界で、

仁者(きみ)ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ねて行け

(『真宗聖典』二二〇頁)

と勧める釈尊の声に、我が身を投げ出す。その決定こそが信心であり救いであると善導大師は教えています。

お彼岸のこの時期にこそ、私たち人間の身に賜る「信じる」という感覚の不思議さを改めて味わいたいものですね。

(二〇一八年三月下旬 桑名組・空念寺住職)

 

005 志摩にきて

落合 りえ

私は一昨年の八月、志摩市の源慶寺に嫁いできました。そこはサーフィンの大会がよく行われる、きれいな国府白浜近くのお寺です。

お寺に訪ねてこられる近所のおじいちゃん、おばあちゃんたちはとても優しく話しかけて下さいます。「あんた、こんな田舎によう来てくれたなあ」と声をかけられると、「海がすぐ近くにあっていいところですね」と応え、あいさつをします。

ご門徒さんの中には漁師さんや趣味で釣りをされる方もいます。時々釣った魚やなまこをいただくこともあります。ですが、私はなまこが食べられないだけでなく触れないですし、魚も触れません。ご門徒さんは調理ができるものと思って下さるのでしょうが、「ハマチが釣れたからどうぞ」「なまこがいっぱいとれたよ」と生きた魚を持ってきて下さいます。最初はびっくりしましたが、断るのは申し訳ないと思い、お義母さんにお願いして調理してもらっていました。新鮮なお魚をいただいても毎回お義母さんに調理をお願いするのも申し訳ないと思い、次第にお断りするようになりました。

気を悪くされないようにお魚を受け取るのか、どうにもできないからお断りするのか、どちらがいいのだろうと考えました。

小さな村だから皆さんと仲良くしたいですし、なるべくならご門徒さんと気まずい関係になるのは避けたいです。たくさんお魚を持って来て下さると、気にかけていただき、とても有り難いのですが、魚など活きているものは本当に困ります。

志摩に来る前、一人暮らしをしていたのですが、お隣さんやご近所の方とは、あいさつや会話をする程度の関係でした。ましてや食べ物や生ものをいただいたり、差し上げたりすることもなく困ることもありませんでした。

志摩に来てお寺に身を寄せて、ご門徒さんと接しながら生活していると、自分の思いだけではどうにもならないことがよくあり、そこから「共に生きる」と言うことの意味が問われているのだと感じています。

(二〇一八年三月上旬 南勢一組・源慶寺坊守)

004 別離がひらく「更なる出会い」

尾畑 潤子

毎年、友人たちと岡山県にあるハンセン病療養所「長島愛生園」を訪れるようになって二十五年になりました。その訪問を通して、深くご縁をいただいてきたお一人に三重県出身の田端明さんがいます。田端さんは、強制隔離の法である「らい予防法」によって、戦争の最中、一九四〇年に二十一歳で「長島愛生園」に入所しています。それから七十七年の日々を短歌、俳句、詩など、折々に紡いできた言葉の数々を『石蕗の花』シリーズとして発表し、私も出版のお手伝いをさせてもらってきました。

田端さんの作品には、ハンセン病とわかった時の無念の涙、断ち切られる思いで故郷を後にした離別の涙。入所して五年、一夜にして視力を失った絶望の涙。やがて『歎異抄』との出会いによって、死から生を見つめていく人生に変わっていった歓喜の涙。涙を軸として田端さんの歩みが綴られています。そして、次のように詠っています。

舌読の点字経典血に染めて わが人生の未来を探る

(『ハンセン病の苦悩と信心』田端明著)

病気の後遺症によって指先の感覚がなくなって、舌で点字の経本を読み続けてきた日々。教えとの出会いから、田端さんは生涯のご用として「ハンセン病を正しく理解していただくために一分でも一秒でも長生きしたい」と。その言葉そのままに、各地での講演や多くの作品を通して、私たちにハンセン病に対する正しい認識と理解を語り続けてきました。

その願いを、私はどう受け止めてきただろうか?そう問い返されたのは、東本願寺発行『同朋』(二〇一七年二月号)誌の、歌人永田淳さんの言葉です。

俳句や短歌は自分だけで完結するのではなく他者と出会う場で初めて成立する「座」の文芸だと。その言葉に私は大きな衝撃を受けました。「長島愛生園」に入所を余儀なくされた田端さんのうたは、「らい予防法」廃止から二十二年、今なお、正しく理解されているとは言い難い私たちの社会のありようを問い、閉ざされたから、なお、開かれていきたい・・他者と共に開かれ続けていきたいという田端さんの「呼びかけ」がうたになっていたのです。

昨年十二月四日、田端さんは九十八歳の命を終えました。

「まだまだこれからですね」

笑顔でそう言った田端さん。別離からの更なる出会いが、今ここに開かれている。あらためてそう思う日々です。

(二〇一八年二月下旬 泉稱寺衆徒)

003 ある日の法事から・・・

泉 有和

少し前の法事で、全ての次第が終わり、皆で食事をいただいていたときですが、そのときの法話から連想されたのか、そのお宅のご親戚に「私は無宗教や」「先祖が仏教を大事にしてきたというが、それが何故かわからん」と言い出された方がおられました。その言葉が呼び水となって、回りの方もいろいろ話されだして、にぎやかな場になりました。

その時出た話に関わって、もう三十年ほど前になりますが、教えられて、自分なりに深くうなずいたことがあったので、その方々と次のような話をしました。

我々の日常の生活だけでは、何かもう一つ満足できない。こういう生活を生涯送って、そして終わっていく、そのことの為に生まれてきたとは、どうしても思えない。もっと確かな生き方、「あっ、そうだったのか。私はこのために生まれてきたんだ」という、そういう本当の生き方を願う、それを宗教心というのではないかと。

私たちは宗教とか宗教心というと、日頃の生活や意識とは違う、何か特別な宗教的な心情や意識、そういうものを思い浮かべてしまうけれども、実は、宗教を求める心というのは、そういう特別な心ではないんじゃないか。

私たちは、生まれてから今日までずっと生きてきて、今日も生き、また明日も生きていく。そしてそのことを、別に不思議とも何とも感じない。「生きるといっても、大体こんなもんやぜ」「人間とは何年生きてもこういうもんかなあ」と、日常の心、普段の心で思い込んでいるが、実はそうではないと思う。

宗教というと、何か特別で特定の宗教を一筋に信じなければならないとか、すぐそういうことになるが、そうではなくって、それよりもっと前の、我々が特別に宗教とも感じないような、私たちの根っ子にいつもある、「確かないのちを生きたい」、「本当のものに出会いたい」という、人間であるならば必ず願わずにはおれないという根源的な要求じゃないか。そうだとすると、私たちはすべて宗教的存在だと思う。

だから、親鸞聖人が「浄土真宗」とおっしゃるのは、そういう万人に共通する、「私は無宗教だ」と言っておられる方にも働いている、我々の最も根っ子にある「確かな生を求める心」です。決して、世間に多くある、何教だ、何宗だ、というものの中の、一つの宗派ではありません。云々。

その日一日、その時の会話を頭の中で反芻しながら、人間として生まれた以上、いかなる者も、国家を超え、民族を超え、思想を超え、政治的立場を超え、イデオロギーを超え、そしてあらゆる宗教を超えて、願わずにはおれないもの、それを親鸞聖人は「浄土真宗」というのだ一切のいのち生きる者が願わずにおれない世界を「浄土」というのですと教えられたことを、あらためて思い出したことでした。

(二〇一八年二月上旬 円称寺住職)

002 生かされて生きていく

林 恵美子

こんにちは 私は現在六十五才。元気なおばさんと云われています。

私が仏法に触れていて、よかったと思ったのは四十八才でガンを患った時です。全く青天の霹靂「えー。私が?」ガンの家系でもなく「なんでー?」という思い。そしてこれからどうなるんだろう…という不安。

二ヵ月入院していましたが、がんセンターでは死は日常茶飯事でした。同室で親しくなった人の容態が急変し個室に移され、翌日には亡くなる。またある人は治療の成果が出ず、どんどんつらい治療に変えていく…。「ここは死を待つ道場か」と思いました。

両親も健在、祖父母も長生きで病院には無縁の環境にいた私には全く別世界で、想像以上の恐怖でした。

その時、頭に浮かんだのが「他力本願」という言葉でした。自分の力ではどうしようもない事は、阿弥陀さんにお任せしよう。私はできるだけ、前向きに生きる事を心がけようと思いました。

いろいろな副作用もありましたが、今こうして元気でいます。

仏教讃歌に「生きる」という歌があります。

生かされて、生きてきた

生かされて、生きていく

生かされて生きていこうと

手を合わす 南無阿弥陀仏

(『生きる』作詞 中川静村)

この歌には忘れられない思い出があります。当時、教区合唱団に参加しており、退院して三ヵ月後、桑名別院の報恩講に私も出演しました。

この「生きる」を歌っていた時、ふと前を見ると本堂の一番前に座っていた父が目頭を押さえていました。その後本堂の後方を見ると同じように母が涙をふいていました。私も思わずこみ上げるものがあって、うつむくと楽譜に涙がポタッポタッと落ちました。それを見た両サイドの人ももらい泣き。順々に連鎖していきました。

この曲を知った事、そして一緒に涙して回復を喜んでくれる家族や友がいる事…。私はなんて幸せなんだろうと感謝しました。

病気になっていなかったら、分からなかった事、知らなかった事がいっぱいあります。「ここいらへんで、こいつは病気になった方がよかろう」という阿弥陀さんの計らいなんでしょうね。おかげさまで、今を幸せに生かせてもらっています。

(二〇一八年一月下旬 明圓寺門徒)

001 新年を迎えて

大町 慶華

新年あけましおめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、たくさんの方々にお力添えをいただき、心より感謝申し上げます。

本年も三重教区と桑名別院をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、今から六十二年前、宗祖親鸞聖人七百回御遠忌をひかえて、宮谷法含宗務総長が、「宗門各位に告ぐ」として宗門白書をだされました。その白書に示された内容は現代においても、わたしたちに呼びかけられているようでなりません。この白書の一部を引用します。

この憂うべき宗門の混迷は、どこに原因するのか。宗門が仏 道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからではないか。今日宗門はながい間の仏教的因習によって、その形態を保っているにすぎない現状である。寺院には青年の参詣は少なく、従って青壮年との溝は日に日に深められてきているではないか。厳しく思想が対立し、政治的経済的な不安のうずまく実際社会に、教化者は、決然として真宗の教法を伝道する仏法者としての自信を喪失しているではないか。寺院経済は逼迫し、あやしげな新興宗教は、門信徒の中に容赦なくその手をのばしてきている。教田の荒廃してゆく様は、まさに一目瞭然であるが、われらは果してこの実情を、本当に憂慮し、反省しているであろうか。まだ何とかなるという安易をむさぼる惰性に腰かけているのではないか。大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいながら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を覚える宗門になってきているのである。

(中略)

宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発すべき関頭にきている。懺悔の基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心である。混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、生々溌溂たる真宗教団の形成を可能にするものは、この懺悔と求道の実践よりほかにない。

(『宗門各位に告ぐ』宮谷法含一九五六年『真宗』四月号)

と宗門の現状を訴えかけています。

この白書を受けて同朋会運動が、提起され「家の宗教から個の自覚へ」とスローガンを掲げて同朋会運動をすすめてきたことです。しかしながら、今日の現状をみれば、六十二年前にだされた白書の内容と何も変わっていません。世の中は経済至上主義の中、人間関係の希薄化、自殺者の増加、いじめ、核家族化、独居老人の孤独死、過疎化など現代社会が抱えている闇に、なかなかお寺が対応できない現状であります。なんとかこの現状を打開するために、教区では『「一ヵ寺・一ヵ寺」の活性化を願って、<一人と出会う>』をテーマに教化委員会で検討しています。現代社会が闇に包まれているならば、まさしく宗祖は本願念仏の教えこそが「無明の闇を破する」と示してくださっています。大変な時代であるからこそ、一人でも多くの方に、お念仏教えが伝わるよう努力をいたしていきたいと思います。宗門白書の内容を常に、怠惰な自分への忠告とし、聞法精進してまいりたいと思います。

宗門は二〇二三年に、親鸞聖人御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年慶讃法要を、厳修憂する予定であります。先の御遠忌が住んで十二年後のことであります。この法要に向けて様々な計画が、現在宗務審議会で検討されていることであります。今年五月には答申され、内局方針が示され、内局巡回がおこなわれる予定であります。内容がしめされたならば、どうかご意見をくださるようおねがいいたします。

(二〇一八年一月上旬 三重教務所長)

024 私にとって「仏法聴聞」とは

池田 徹

二〇一七年五月に自坊で「親鸞聖人七五〇回会大法要」をお勤めさせていただきました。あらためて、私にとって親鸞聖人とは、念仏とは、仏法聴聞とは何かを考える機会となりました。

かつて学生時代に、「あなたは、なぜ親鸞聖人の教えを学んでいるのですか」と、問われました。「あなたの話を聞いていると、何も親鸞聖人の教えでなくても、いいのではないですか。要はこれだけのことを、〈知っている〉ということを主張したいのでは。だから、歴史でも、数学でも、よかったのではないですか」と。

持っている知識を披露する、自慢する材料としての親鸞聖人(仏法)ではないか、と問われました。念仏の教えを聞き学ぶ必然性が、あなたにあるのか? と問われた出来事でした。

たまたま浄土真宗の寺に生れた、という偶然の関係から「親鸞仏教」を知ったということであり、日蓮宗寺院に生れたら、私はたぶん「南無妙法蓮華経」といいながら、その流れの中で生きたのではないかと思いました。

「仏法」と言っても知識対象としての「文献」であり、「情報言語」でしかなく、自己正当化のひとつの手段であると知らされ、当時二十二歳の私は、「教え」を聞く必然性を尋ねることになりました。

その都度、「この問題に対して、念仏なのだ」、「この課題に対して、教えが必要なのだ」と、言ってはみるが、時間と共に、「私は本当に仏法を求めているのだろうか。私は教えを必要としているのか」、という思いが湧き上がってきたのです。

やはり「私は仏法を求めるより、我が意を通したい」そういう者でしかないことを知らされてきました。教えを聞く、聞かないにかかわらず、私の実相は、自己中心的に、「思い」に合う世界をひたすら求め、思いに合わない世界を嫌い、その「思い」が壊されることを畏れながら、その都度、落ち込んだり、浮かれたりを繰り返してきました。自己の評価を気にしながら主体を失い、時には横柄な態度に、時には周りに迎合しながら、仏法まで利用していく徹底した自己関心、自己保身、自己執着を生きてきました。

実は、この自己関心こそ、対立、不満、不安、孤独の原因であることを教えられてきたのです。

しかし、日常はこの自分(煩悩具足の凡夫)をいつも忘れて生活しています。仏法聴聞の場、生活の中での行き詰まりが縁となり、「教え」(呼びかけ)となって、私の閉鎖性、独善性を知らせてきます。

「教え」は外側から、私の迷い、「実相」を知らせると同時に、「他者の発見」という内実をもって私に届いてくるものです。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一七年十二月下旬)

023 独立者の共同体・僧伽の建立の願い

訓覇 浩

「独立者の共同体」、私がこの言葉とはじめて出会ったのは、学生時代、同朋会運動の願いについて学ぶ中で、僧伽建立という言葉と合わせて教えられた言葉です。また「独立者と独立者は感応道交する。その世界が同朋社会」だとも教えられ、私の中でもっとも大切な言葉の一つとなっていきました。そして、結婚式のスピーチなどを頼まれた時は、理想の夫婦像ということで、この言葉を得意になって紹介し、私自身もそういう関係を生きたいと願ってきたように思います。

しかし、寺に戻って五年の月日がたち、あえぐように日常を送る中で、私は、この言葉を、たいへん安易にとらえていたのではないかといま感じています。安易にというより自分勝手にとらえていたのではないか。私にとって独立者というのは、たとえ夫婦といえども、相手に縛られずに自分勝手に生きるということ、そして共同体というのは、でも困ったときには助けてくださいね、というようなものであったのではないかと思い知らされます。

では、私の上には、独立者の共同体というものは、無縁のものなのだろうか。それどころか、他者とつながって生きるということそのものが成り立つものだろうか、そういう疑念が強くなってまいります。

そのような時、朝日新聞の「折々のことば」という欄に、次のような言葉が紹介されているのが目に入りました。

なぐさめるのでも、抱きかかえるのでもなく、互いに共有しえない闇の、その共有しえないということの重さを共有していくということ

つながって生きるということについて語られた、七〇年代にウーマンリブ運動を闘った田中美津さんの言葉です。ここの「重さ」には、私は「悲しさ」という意味もこめて読ませていただきましたが、相手の存在を否定し、自分を正当化する、我の主張と依存のなかに生きる私のうえに、もし、相手とつながるということがあるとすれば、つながれない悲しみを共有する、そういうことなのではないかと。そして、そこで感覚させられる悲しみこそ、本願の方から私に向けられる、僧伽建立の願いの力によるものではないのかと感じさせられました。僧伽の建立という願いをわが想いでつかもうとした時、それは本来の願いとは全く異質なものとなってしまうのではないでしょうか。

現在、三重教区においても、一ヵ寺・一ヵ寺の活性化、本来化に向けての取り組みが始まっておりますが、その課題が、本願の方から向けられる僧伽建立の願いであるということを見失い、人間的願望や欲求のうえに見てしまった時、仏法に似て非なるものを仏法としてしまうという、もっとも大きな過ちをおかすことになる、そういうことをちかごろ思わせてもらっております。

(三重組・金藏寺住職 二〇一七年十二月上旬)