024 私にとって「仏法聴聞」とは

池田 徹

二〇一七年五月に自坊で「親鸞聖人七五〇回会大法要」をお勤めさせていただきました。あらためて、私にとって親鸞聖人とは、念仏とは、仏法聴聞とは何かを考える機会となりました。

かつて学生時代に、「あなたは、なぜ親鸞聖人の教えを学んでいるのですか」と、問われました。「あなたの話を聞いていると、何も親鸞聖人の教えでなくても、いいのではないですか。要はこれだけのことを、〈知っている〉ということを主張したいのでは。だから、歴史でも、数学でも、よかったのではないですか」と。

持っている知識を披露する、自慢する材料としての親鸞聖人(仏法)ではないか、と問われました。念仏の教えを聞き学ぶ必然性が、あなたにあるのか? と問われた出来事でした。

たまたま浄土真宗の寺に生れた、という偶然の関係から「親鸞仏教」を知ったということであり、日蓮宗寺院に生れたら、私はたぶん「南無妙法蓮華経」といいながら、その流れの中で生きたのではないかと思いました。

「仏法」と言っても知識対象としての「文献」であり、「情報言語」でしかなく、自己正当化のひとつの手段であると知らされ、当時二十二歳の私は、「教え」を聞く必然性を尋ねることになりました。

その都度、「この問題に対して、念仏なのだ」、「この課題に対して、教えが必要なのだ」と、言ってはみるが、時間と共に、「私は本当に仏法を求めているのだろうか。私は教えを必要としているのか」、という思いが湧き上がってきたのです。

やはり「私は仏法を求めるより、我が意を通したい」そういう者でしかないことを知らされてきました。教えを聞く、聞かないにかかわらず、私の実相は、自己中心的に、「思い」に合う世界をひたすら求め、思いに合わない世界を嫌い、その「思い」が壊されることを畏れながら、その都度、落ち込んだり、浮かれたりを繰り返してきました。自己の評価を気にしながら主体を失い、時には横柄な態度に、時には周りに迎合しながら、仏法まで利用していく徹底した自己関心、自己保身、自己執着を生きてきました。

実は、この自己関心こそ、対立、不満、不安、孤独の原因であることを教えられてきたのです。

しかし、日常はこの自分(煩悩具足の凡夫)をいつも忘れて生活しています。仏法聴聞の場、生活の中での行き詰まりが縁となり、「教え」(呼びかけ)となって、私の閉鎖性、独善性を知らせてきます。

「教え」は外側から、私の迷い、「実相」を知らせると同時に、「他者の発見」という内実をもって私に届いてくるものです。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一七年十二月下旬)