018 普通というものさし

服部拓円

私たちは世間で求められている「普通」に生きようとしています。

そして特別優秀でもなく、特別劣悪でもない当たり障りのない「普通」でありたいと思っています。

「普通」とは「あまねく通ずる」広く通用することを指すようではありますが、よくよく考えると大変困難な生き方のように思います。

まるで全ての人に通じる個性を「普通」として錯覚しがちですが、実際は個性や自分らしさといったものではなく、世間が作り上げた「普通」でしかありません。

世間で言われる「普通」でいようとする為には、周囲を気にして自分らしさを抑えるだけでなく、自身を変えたり、つきたくもない嘘をついて窮屈な思いをすることとなります。私たちそれぞれに違うはずの「普通」を、広く通用する「普通」が忌み嫌うからではないでしょうか。

私たちは日常会話の中で「普通」を一見当たり障りの無さそうな表現として無意識に使われる事が多いかと思います。

例えば「普通そんなこと言いますか?」といった表現があります。

自分の思惑通りでない相手の言動に対して、「普通」という言葉を使うことで、自分の立場の正当化を図ると同時に、相手への非難をより強める言い方と言えます。

また「普通の生活を満喫できれば」といった表現では、一見謙虚に見えて、本心では今より水準の高い生活をおくりたいといった要求をしているように感じ取れます。

広く通用する生き方・言葉としての「普通」とは、実のところは世間から求められる「ものさし」であったり、私の求める水準の「ものさし」であるといえます。それに私たちは苦しめられたり、相手を苦しめたりしてしまうのです。

しかしながら「ものさし」は価値観であり、世間を生きていく上ではなくてはならないものです。ですから、私たち人間は、それを捨てることは出来ません。

「ものさし」を手放せない私たちは、自身を飾ったり嘘をついたりと四苦八苦するばかりです。

はかることを必要としない「ものさしのいらない世界」を「阿弥陀さまの世界・浄土」といいます。浄土に目覚めなさいと、常に阿弥陀さまはよびかけておられます。

「ものさし」を持たずにはいられない。そうして持つことによって人を傷つけずにはいられない。そうした私たちの本当の姿は、「ものさしのいらない世界」に出遭うことでしか気付けないのです。

(二〇一八年九月下旬 三講組・圓福寺住職)