012 思いに振り回されている私

芳岡 恵基

私たちは、自らの努力や力をあてにして、日々の生活を送ってはいませんでしょうか。世間には、「人事を尽くして、天命を待つ」というお言葉があります。まさしく自分の努力や力を生活の中心にした生き方であると思います。それに対し清沢満之師は、「天命に安んじて、人事を尽くす」と言われています。この二つのお言葉を比べますと、立脚地がまったく違う事がわかります。世間は自分を立場とし、清沢先生は仏を立場とされています。世間でいう自分を立場とする事は、都合の善し悪しで生きているという事ではないでしょうか。

皆様方のお家でお勤めなされるご法事にしても、「ご命日より早いのは善いが、遅れるのは善くない」という声を時々耳にします。真宗におけるご法事の場とは、どういう事が願われているのでしょうか。お内仏のお荘厳の向きが、私たちの方に向いています。つまり、すべて私の方向に回向されているという事であります。私が私を聞かせていただく大切な場こそ、真宗における法事の場ではないでしょうか。自分の思い、つまり努力や力をあてにする計らいこそ、苦しみや迷いの因であったと知らされてくるのではないでしょうか。

清沢先生における天命に安んじるという事は、南無という立脚地(帰依所)におられたからこそ、このように言われたのではないでしょうか。つまり、ご縁という事です。因縁力によって、今ここに座らせていただいているのに、私たちはなかなかそういう事に気づけません。他力・仏力の働きに出遇えずにいると、都合の良い時だけ「ご縁ですね。」と口から出るのではないでしょうか。南無という立脚地に立つ事によって、凡夫としての自覚が生まれるのではないでしょうか。日頃私たちは、凡夫というとだめと言って、削ることしか考えません。凡夫が凡夫になれたという事は、往生極楽の道が定まったということであります。何でもその物だけでは成り立ちません。しかしながら私たちは、「私が、私が」と自分の中に都合良く描いた思いを立脚地(帰依所)としている限り、益々苦しみや迷いが深まっていくのでは、ないでしょうか。

自分の心のどん底に納得しているか、そこが大事であると思います。どん底とは、自分の根性では見えません。しかし、どん底とは暗闇だけではなく、明るさに転ずる大切な場であるはずです。納得とは南無阿弥陀仏、つまり自分に出遇った証そのものであります。

これらのことから、親鸞聖人における天命に安んじるとは、帰命無量寿如来・南無不可思議光という事であり、自らの人生において南無阿弥陀仏に出遇った感動のお言葉であります。つまり、この二行「南無阿弥陀仏」が、宗祖における立脚地であり、拠り所であります。いま一度、親鸞聖人・清沢先生における立脚地、拠り所に触れさせていただく中で、私たちの立脚地、何を拠り所として日々の生活を送っているのかを考えさせられる次第であります。

(三重組・翠嚴寺住職 二〇一七年六月下旬)