稲垣 順一
『蓮如上人御一代記聞書』五十八条に
たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。これ、しかしながら、聖人の御罰(おんばつ)をこうぶりたるすがたなり。(後略)
(『真宗聖典』八六六頁)
とあります。現代語訳では、「どのような人でも自分が悪かったと思う人は誰一人もいません。けれどもこれは親鸞聖人から厳しいお叱りをいただいた姿なのです」(『現代語訳 蓮如上人御一代記聞書』瓜生津隆真著 大蔵出版)
私は日々自分の生き様が悪く間違っているとは思いもしません。むしろ正しいと思っています。これが私の日常です。
しかしそれはエゴと言わねばなりません。エゴは自身の思い上がりやうぬぼれとなっていきます。親鸞聖人の厳しいお叱りは私の日常そのものであり、その自分の姿に気づかせていただく仏法に出遇うことを示されています。
「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思いがちですが、むしろその時こそが自分の姿に気づけていないことを教えられます。エゴで思いはかる自分は不確かなものでしかありません。だからこそ、親鸞聖人は仏法に出遇うことの大切さを示されています。
私はこの文に仏法聴聞の原点を感じています。
(桑名組・正覺寺住職 二〇一七年六月上旬)