田鶴浦 昭典
コンピュータを始めとして、私たちの生活をより快適に便利にするべく、様々な文明の利器が開発され、身の回りにあふれています。
しかし、これらの文明の利器によって、人々が本当に苦悩から解放され、一人ひとりが生き生きと生きている毎日になっているでしょうか。
それどころか、私たち取り巻く様相は、暴力や自殺・他殺、テロなど人間関係を引き裂く様々な課題に覆われています。
映画「アナと雪の女王」の主題歌『Let it go ―ありのままで―』やSMAPの「世界に一つだけの花」、また金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」の詩が、今注目されています。これらの言葉が訴えるメッセージに多くの人々が惹かれるのは、科学文明の力では解決できない何かしら根源的な課題の存在を、敏感に感じているからではないでしょうか。
このような状況だからこそ、今まさに「聞思」することの大切さをあらためて感じざるを得ません。
親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』のはじめには「聞思して遅慮することなかれ」と記されています。このことは人生のよりどころを明らかにする確かな言葉を聞くことを通して、自ら問いを持ち、自らが考えることの大切さを示すものです。
しかし、どれほど大切な言葉を聞いたとしても、ただ聞くだけに終わってしまうならば、それは私が生きることにとって、それほど意味を持たないものとなってしまいます。
聞いたことを自分に引き当ててよく吟味し、自らの問題として考えることによって、初めて一つの言葉が私にとってかけがえのない言葉となり、生きる原動力となっていくのではないでしょうか。
今の私たちの周りには、多くの情報や言葉があふれ、それに振り回されて、生きる方向を見失い、身動きがとれなくなってしまい、本当に確かなもの、拠り所にすべきものが何なのか、自分自身わからなくなっているのではないでしょうか。
だからこそ、今、自らが生きる拠り所を明らかにする、すなわち親鸞聖人の確かな言葉を共に「聞思」いたしましょう。
(長島組・野亨寺住職 二〇一七年五月下旬)