河村 論
永代経(えいたいきょう)の季節になりました。この時期になりますと、全国各地のお寺でも永代経法要が勤められていることでしょう。さて、永代経法要の意味を考えてみますと、その文字の通り、経が永代にわたって護持されることを願われて勤められる法要だと思います。
では、その教えというものを考えてみますと、私たち真宗の教えに縁を持つ者においては、やはり念仏の教えなのでしょう。そこで改めて念仏ということを考えてみますと、最近の自分において流罪以後の宗祖の生涯ということに意識がいきます。流罪されるということは、宗祖が自ら歩まんとする念仏の仏道が、世間的にも、当時の仏教界においても否定されたことを意味しているのでしょう。そうした中で、先生である法然上人とも別れ、自分の仏道が揺るがされるような出来事であったのではないかと推測します。
私はちょうど二年前まで京都に住んでいました。当時は大学生でしたが、お盆やおとりこし・法要のある時は実家に帰省して手伝いをしていました。卒業して実家に帰り、今は法事などの法務をして、その中でご門徒さんとコミュニケーションを通して少しずつ親戚関係や、それぞれのお家の生活感というものに触れさせていただく機会が増えました。そうすると、それまでは目につかなかった一軒一軒の情景が少しずつ見えてきたように感じます。
さて、宗祖の流罪された話に戻りますと、宗祖も越後においても同じように様々なものを抱えている人の姿を通し、より人間ということを深く見つめられていったように思います。さらに言えば、そこに生活する人々から、様々なものを抱えつつも一日一日を生き抜いている現実を教えられたのではないでしょうか。そして、その人々の現実を通して、生き抜いていく力として念仏というものを感得されたのではないかと思います。そして、そこから宗祖と田舎の人々の間で生活という場を土台として研鑽され、法脈は受け継がれていき、今日の永代経として相続されてきているのではないかと思います。
宗祖は自身の著作の中で田舎の人々に関し、
いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、(中略)やすくこころえさせんとて、
(『一念多念文意』聖典・五四六頁)
と示して、わかりやすく、念仏の教えが伝わるように著した苦労というものが感じられます。私も別院の定例布教を先日初めておこないましたが、人に伝えるということの難しさをとても感じます。その中で言葉を砕いて接していく関係、砕ききるまで消化する苦労というものに、自分自身が尻を叩かれるように、激励されているように思われます。そのようなことを永代経ということを通して改めて感じさせられたことです。
(南勢二組・教楽寺衆徒 二〇一七年三月下旬)