012 いのち

加藤 弥生

つい先日、夜遅くに電話が鳴りました。寺での生活をする上で、夜の九時を過ぎたような時間にかかる電話の場合は「どきっ」とすることが多いのですが、案の定その電話も「S子が亡くなりました」と言う内容でした。しかし私は、今回の電話をいつも以上に驚きました。なぜなら、S子さんのお元気なお姿を、ほんの数日前に拝見したばかりだったからです。

S子さんは女人講に入っておられました。ちょうど一年ほど前から、月一度集まり、お参りをして、住職の話を聞く、という定例会を始めました。その集まりに、元気に来ていただいたばかりだったのです。次回の定例会もしっかりと予定に入れてくださって、元気に帰られました。

そんなS子さんが突然、それも、女人講の集まりがあった三日後に亡くなってしまったという事で、とても驚き、ただただ茫然とするばかりでした。私はその実感がどうしても持てず「ごめんごめん、びっくりした?」と笑いながら、S子さんが次回の女人講に来てくださるような気がしてなりませんでした。

ここ数年の間に、親しい人たちや、お寺に深くかかわってくださった方たちが、次々と亡くなっていかれ、とても寂しく、人の命のはかなさや無常をしみじみと感じています。改めて、ひとはいつ死んでもおかしくない身なのだ、と実感しました。個人の感情でどうにもならないのが「いのち」です。今日か明日か、ひとが先か、自分が先か。まるでわかりません。それなのに、私はあまりにも当然のように生きています。当然ではないのです。S子さんたちが、

「亡くなる」ことでいのちのはかなさを示してくださいました。そして同時に「亡くなる」ことでご縁を作ってくださいました。「いのち」について、考え学んでいきたいと思えるご縁をありがとうございます。

 

(員弁組・教願寺【坊守・加藤弥生】二○一五年六月下半期)