001 自力作善

田代賢治

新年明けましておめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、たくさんの方々のお力添えをいただき、心より感謝申し上げます。

本年も三重教区と桑名別院本統寺をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、このたびは「自力作善」のことについてお話ししたいと思います。

「私は真宗の門徒である」「だから、お念仏に生きる者は親鸞聖人の教えによって生かされているんだ」と言えば、それは当然のことで、当たり前ではないか。でなければ、私は今、このテレホン法話も聞いてはいない、と言われる方もおられることでしょう。

しかし、それは、あくまで前提でしかないということであります。この前提というものは、問い直されないというところに問題があります。一度立てたら問い直さずに済ませてしまうのが前提というものであります。

私の兄から聞いた話ですが、第十九願で言われる「自力作善」のことを、平野修先生が「話せば分かる、分かれば変わる」という表現で教えてくださったということであります。

そうですね、私たちは他人(ひと)に対して、「話せば分かる。聞けば分かる。分かれば変わる」という前提をもって、接していますが、果たして皆さんはどうでしょうか。この前提が曲者(くせもの)で「自力作善」のことだと言われるのであります。

ややもすれば私たちは、教えから遠く離れ、周りの環境と私自身とを分けて、自分の思いや分別で生きています。いつのまにか、日常は自我意識でもって生きています。思い通りに事が運べば、意気軒昂(いきけんこう)とし、思い通りに運ばなければ、意気消沈(いきしょうちん)する、浮きつ沈みつの毎日であります。

この身の事実を、改めて問い直し、私たちの前提を問い直すことによってお念仏を中心とした生活に変わる道こそを見出したいものであります。

(二〇一五年一月上半期 三重教務所長)