024親鸞聖人に遇う

藤井 正子

 先月、三重教区三重組特伝の後期教習で、本山に二泊三日で行く機会をいただきました。 
 本山での晨朝参拝の時、参加者のお一人が席を離れ、御影堂を出て行かれたので、どうされたのかな、と思っておりました。やがて、お勤めが終わって晨朝法話が始まり、ふと後ろを見ますと、縁のところにその方がおられたので、どうなされたのか伺いますと、
 「お参りをしていたら、なぜか泣けてきてしょうがないのです。」
 「理由は解りませんが、お内仏にお参りをしていても時々このように泣けるのです。」
と言われました。

 その方に、「私もここに座りますと泣けます」と申しますと、その方は「自分と同じように泣ける人がいて、うれしい」とのことでした。

 御影堂の御真影は親鸞聖人の今現在説法の相、つまり、今現に在して、法をお説きくださる相(すがた)といわれます。その御真影の前で一緒に泣けることは、有難いと思いました。

 『歎異抄』第二章には、関東からたずねて来られた御同行へ、

  ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。 (『真宗聖典』 六二七頁)

と言われています。念仏の道を生きていかれた方々を「よきひと」と言いますが、ここでは法然上人のことを指しております。
 親鸞聖人は師である法然上人との出遇いによって、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」といただかれました。

 私は御真影を前に、『歎異抄』の聖人のつねのおおせの言葉、

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ (『真宗聖典』 六四〇頁)

を思いますと、涙がまたこぼれます。

 来年の三月二七日~三〇日まで桑名別院にて宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」といただかれた親鸞聖人のお意(こころ)をお聞かせいただきたいと思っております。皆様、ご一緒に親鸞聖人に出遇うお参りをいたしませんか。

(三重組・淨蓮寺住職 二〇一三年八月下旬)