023「悼む」ということ

荒木 智哉

 先日、突然の事故で大切な友人を亡くしました。私はとめどなく悲しみがこみ上げてきて、ひとりでいることが大変つらく、生前親しかった仲間たちとともに、葬儀を含めての四日間、毎日集まって友人の死を悼みました。

 葬儀が終わってからひしひしと感じたことなのですが、この四日間を私たちは悲しみを尽くし、悼むことによって、友人の死と向き合い、受け容れようとしたのではないかと思うのです。

 では、死を受け容れるということはどういうことなのでしょうか。
 死を受け容れるということは、こうすればこうなるといったふうに頭で理解できるものではありません。時にそれは人によっては何年もの長い時間がかかる場合もあります。しかし、悲しみを避けて通ろうとするのではなく、葬
儀を通して、私たちは死にしっかりと向き合わなくてはならないのではないでしょうか。

 私自身、最近の葬儀に疑問を感じることがあります。自分の親しい人が亡くなったことへの悲しみと別れだけが強調されていて、本来、葬儀という通過儀礼が担っている、死に向き合うという大切な場であることが忘れられて、儀式が形式化してしまっているように思うのです。

 真宗のいのちである念仏とは、「念」という言葉が示す通り、憶念する、憶い続けて忘れないということです。亡くなった人の声を聞き、そこから悲しみ、悼むという感情を通し、それを突き抜けることによって、死から生きることの尊さ、自分がどう生きていくべきなのかが見えてくる。これこそが死を受け容れるということではないでしょうか。

 最後に、ある友人の言葉が今でも心に残っています。
 「あなたが亡くなったらといって、その存在は計算式のように1‐1=0では決してない。なぜならば、あなたは今でも私たちの中で生き続けているのだから。」

(桑名組・西光寺衆徒 二〇一三年八月中旬)