藤嶽 大安
「おかげさんで、元気で過ごさせてもらっていますわ」と言う時の「おかげさん」は、心や身体が思うように動いてくれるので、そのことに感謝するという意味で使われている言葉ではないでしょうか。
また、元気に過ごしているということは、たくさんの人たちに助けてもらったり、身体のあちらこちらが、寝ている時も一生懸命動いていてくれるおかげですから、そのことに気がつくと、それらに感謝する気持ちがおこり、「おかげさんです、ありがとう」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
では、「おかげさん」と表現する時の、もう一つの意味を考えてみたいと思います。
元気で過ごせることは嬉しいことですが、いつ病気になるかわかりません。元気の隣には病気があります。隣に病気がいるのに、それがなかなか見えていません。そして、病気になると、こんなはずじゃなかった、という気持ちになり、「おかげさんで病気になりましたわ」とはなかなか言えません。
なぜ言えないのでしょう。それは、自分の思うように物事が進んでいないから、とても感謝できるという気持ちにはなれないからではないでしょうか。
日常生活では、自分の思い通りにならないことが起こってきます。そして、その起こってきた事実に対して、こんなはずじゃなかった、という気持ちが出てきます。
また、その出てきた気持ちに自分が縛られて、なかなか事実を認めることができません。事実が目の前にあっても、事実が事実として受けとめられないでいるのです。
親鸞聖人のご和讃に、
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(『真宗聖典』 四九七~四九八頁、「高僧和讃」)
というお言葉があります。
煩悩いっぱいの私に、
「事実が見えていませんね。見えていないということにも、気付いていませんね。でもね、自分の姿が見えていないというその部分、その所に目が向くと、今までと違う、新しい歩みが始まってくるのですよ。
元気で過ごしているからいいということも、病気になり、悪いことが起こってしまったということも、みんな、あなたの思いなんですよ。
よいと思うことも、悪いと思うことも、あなたのものの見方なんですよ。
病気になったことによって、思い通りにはいかないことに出遇い、自分の都合で見ていたことに気付かされるのですよ。
それもね、気付かせてくれるのは、悪いことと捉えていた私の思いによってですよね。
だから、気付かせていただくということで言うならば、どんなことでも、みんな、おかげさんになるんですよ!」
と、おかげさんの方から、喚(よ)びかけられているのではないでしょうか。
(三講組・敬善寺候補衆徒 二〇一三年八月上旬)