009空過 ― 空しく過ぎるということ ―

池田 徹

 我々は自分の段取り・思い通りに行かない時に、「空しい、残念無念」と言いますが、「空しさ」とは、たとえ、すべてが私の思い通りなっても「空しい」というのです。「空しさ」とは、気分の問題でなく、私の生き方に関わる問題です。

 「空過の生」の根っこにあるものは「他者不在」ということです。すべてが「我が思い・我が世界」しかないのです。他者がいないのです。だから根本気分は、孤独感、寂しさです。日常生活は忙しさに追われ、あまり深く考えないようにしていますが、生きる主体・生き方の質が変わらなければ、いくら欲望が満たされても、たとえ思い通りにいったとしても、人生に対して満足や深い納得は得られません。

 私という存在、「いのち」は、「願い」「祈り」を持っています。その願いを言い当てられ、その深い願いに目醒めて生きていくことが、空過の人生を超えていく道なのです。同時に、それは空過の人生の原因を、徹底的に見抜く視点を賜ることです。

 その視点、それが聞法であり、「教え」こそが主体となるのです。具体的に我々の生きる現代社会は経済至上、能力、成果主義が生み出す人間の商品化。手段を選ばない競争社会。むき出しの暴力。心の病。人間不信。原発問題など、強い不安感を持たざるを得ない時代ではないでしょうか。

 まさにこの現実を「教え」は、三悪道と言い当てています。
 三悪道は地獄・餓鬼・畜生というあり方です。地獄とは、通じ合わない、対立的、孤独の生。餓鬼とは、欲望の無限追求による人間の道具化、進歩という名の暴力。畜生とは、主体的自己の欠如、操られ、踊らされる情報化社会。徹底的自己関心です。

 まさに我々の現実は三悪道ではないでしょうか。「他者」が「いのち」がまったく見えていない私の姿があります。
 この事実に、「驚き」、「傷み」、「悲しむ」こころから、深い願い、祈りが与えられます。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一三年三月下旬)