010仏法の要

王來王家眞也

『観無量寿経』の説法が終った時、仏弟子阿難は仏前にすすみ出て「今説かれた説法の要をいかに受け持つべきでしょうか」と仏に質問をしております。この問いによって、仏法の要とそれを受け持つ道が我々に教えられております。

そこでまず、仏法の要は「無量寿仏の名」つまり「南無阿弥陀仏」であるというのが仏の答であります。この「南無阿弥陀仏」は本願を原理として立てられた名号でありますから、「正信念仏偈」で親鸞聖人は「本願名号正定業」と教えられております。ですから本願の名号が仏法の要として立てられたことで、仏の仕事は終ったともいえるわけです。

それによって、その法の要を受け持つという我々の仕事が与えられるのであります。我々は家族あり仕事あり、その場の中で様々な苦しみ悩みを背負って生きる生活者であります。その生活者がいつでも、どこでも、誰でも受け持つ道を仏は与えられました。

その受け持つことのできる道について、親鸞聖人はこの「持」つことについて「たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり」と教えられました。ならいまなぶことは学習すること、ここには卆業(卒業)はありません。生命ある限りこの生活の場が学習の道場であります。その道場こそ我々の仕事場であり、そこで法の鏡にてらして自身を明らかにする。鏡に写さなければ自分の顔が見えないように、我々に鏡を与えるのが仏の仕事、鏡によって自身を明らかにするのは我々の仕事、ここに「聞法」する生活者の存在こそ仏道の証明者であると共に生きた仏道の歴史が輝くのであり、人生の根本課題があることを知らされるのであります。