027聞く力

三枝明史

私たちお寺で生活する者は、門徒さんとの日々のお付き合いの際に、そして社会と関わる中で、さまざまなお話や悩みを聞かせていただきます。聞く側として、相手に寄り添って聞けているだろうか、自分の価値観や基準で聞いてしまっているのではないだろうか、あるいは、傾聴を通して自分もまた学び、自己を開いていけるような、そんな関係を相手と結ぶことができているだろうかなどと、忸怩(じくじ)たる思いを抱えています。

ところで、阿川佐和子さんの『聞く力』(文春新書)という本が30万部を超えるベストセラーになっています(その後、130万部を超えるミリオンセラーになりました)。「聞くこと」への関心の高さが窺われます。どうしたら上手に話が聞けるのか、過去20年以上にわたって、週刊誌の対談コーナーで900回以上も著名人の話を聞いてこられた阿川さんから聞き上手になるためのヒントを得たいという人があまたいらっしゃるのでしょう。そして、それは、もしかしたら、自分の話をとことん聞いてほしいのだ、という思いを持っておられる方がたくさんいらっしゃることの裏返しかもしれませんね。

もともと阿川さんはインタビューが得意で対談を始められたわけではありませんでした。仕方なしに引き受けただけで、まったく自信がなかったとか。中途半端で、モノを知らない無能な私がこんなことをしていていいのだろうかと、コンプレックスや空虚な思いを抱えながらのスタートだったそうです。

ある方との対談で素敵な言葉を聞き、その言葉に励まされ、はじめてこの仕事を続けていくことに前向きになれたそうです。

聞く側の者が話し手から勇気をもらうということでは、被災者を励まそうと被災地に入ったボランティアの方々が、一様に「被災者の方から励まされた」と語られていることが思われますね。

阿川さんは、聞くことを通して自分の生き方を肯定することができ、人生の役割を見出すことができたのだ、とも言われています。聞くということは相手のことを知ることであると同時に、自分自身のことを教えられる、知らしめられる、ということであるのかもしれませんね。さらには、話し手・他者との関係性を繋ぎ結ぶだけではなく、自分自身の閉鎖性を打ち破り、「他者と共に」という地平を切り開くものなのかもしれません。どうやら聞法・仏法を聞くということにも通じてきますね。

阿川さんは「聞く力」は「生きる力」、「生き抜く力」なのだとおっしゃっています。聞くという行為が持つ秘密の力に、皆さんも一緒に迫りませんか。

阿川佐和子『聞く力―心をひらく35のヒント―』(文春新書)

NHKホリデーインタビュー「“聞く力”は生きる力~作家 阿川佐和子~」(2012年9月17日放送)

026子どもたちに願うこと

大橋宏雄

私はこの夏、福島の子どもたちと出会い、9日間を一緒に過ごしました。それは子どもたちの笑顔でいっぱいの9日間でした。しかし、私たちの出会いの背景には震災と原発事故があります。子どもたちの笑顔が具体的な現実として、痛みとともにそのことを突きつけてきます。

子どもたちと過ごす間、折りに触れ思い起こされてきた言葉があります。それは藤元正樹先生の「できっこないことが人間の最も深い願いじゃないですか。できることなら願う必要はない。できんから願うんだ」

という言葉です。

仏様は私たちに何も要求しません。しかし、私たちに「願い」をかけておられるのだと教えられています。その「願い」とは一体どのようなものなのでしょうか。

私たちの日ごろの「願い」というものはそのほとんどが「欲望」です。自分に都合が良いことを願い、それを叶える為に努力をします。叶わなければ何かのせいにする。私たちはそういうあり方をしているのではないでしょうか。

そういうあり方をしている「私」が目の前のこどもたちに一体何を願うのか、ずっと考えていました。そして、そのことを子どもたちに話す機会が訪れました。

私は、「あなたたちの大事な大事な人生が、大事に大事にされていくことを願い、祈っています」と話しました。それは「私」の努力でどうにかできることではありません。そして、子どもたち自身の努力でもどうにもなりません。

しかし、私たちの出会いの縁を思うとき、また私がこれまで教えられてきたことを思うと、そうとしか言えませんでした。そして、それは私自身にも願われていることではないかと思いました。

今、子どもたちの顔を思い出しながら、私の心に浮かぶのは「笑顔でいてほしい」、「また会いたいなぁ」というようなことです。しかし、その奥には、一人一人の大事な人生が、大事にされていくことを願うということがあるのではないかと思います。

025「現在」を楽しむ

中川和子

先月、8月3日に、長女9歳の得度式に家族全員で京都の東本願寺に行ってきました。およそ150人受式者が全国から集まり、その殆どが15歳以下の子どもたちでした。

その子どもたちに向けて、受式後、宗務総長からお祝いのお言葉を頂きました。そのお話の中で、親鸞聖人が9歳で得度をされた時に詠まれたといわれている次のような歌を紹介されました。

明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

そして、親鸞聖人が生きられた時代はたいへんな飢饉に見舞われ、食べる物がなく、今のようにファミレスやコンビニもない、明日生きているかさえ分からない生活の中で、「今」この瞬間を如何に生きるかの大切さを表現された歌だとお話されました。

また、世間では「過去現在未来」と言うが、お経では「過去未来現在」と言い、「現在」を一番大切な瞬間と教えてもらっていることもお話頂きました。仏様の教えに出遇うのは「現在」しかないという親鸞聖人のお言葉を頂いたことです。

以前読んだ本で「極楽」のことを、死んでから往くところではなく、「現在」私たちが生きている瞬間が、「楽しみの極まり」と書いて「極楽」とよぶのだと言われていました。

先日、雑談中に、ある坊守さんが、4人の子育てに老僧夫婦やご住職の食事、お寺のことに追われたいへんだったが、「楽しかった」と当時の瞬間的な思いをお話され、「だって、4人の子どものいろいろな関係と、ご門徒さんやお寺の付き合い、その数分だけのつながりが出来て、本当に楽しかったし、今も楽しい。これは、こっちからどんなに求めても得られない出遇いだから」とおっしゃいました。

私はその言葉を聞いて、自分が自分の「現在」を「極楽」とは思えず、どこか先送りしたところにある「極楽」ばかり求めていることにはっとさせられました。自分からは求めても得られない、有り難いたくさんのご縁の中で「現在」を生きているのに、「現在」を「極楽」に出来ない「私」がおるなと思います。

娘の得度式をご縁に、私自身が、「現在」を楽しむことを仏様から願われているのだと教えて頂き、共に教えに出遇わせて頂けたことを本当に嬉しく思いました。

024念仏のはたらき

酒井誠

蓮如上人の『御文』(五帖目一三通)に、

それ、南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり。(真宗聖典839頁)

とあります。

住職になり、ご門徒から時々「どうして本山にはお札とかお守りが売っていないのですか」という質問を受けます。

私たちが何気なく感じる宗教とは、災いを除いて福を得る、除災招福であり、そういう意味の現世祈祷です。お念仏を称えるということも、そこには先祖供養の願いが込められ、先祖供養を通して家内安全や商売繁盛などを祈るということが行われ、そういうことが私たちの宗教心であると思われています。

そのことに対して、仏教は真理として「一切皆苦(いっさいかいく)」、思い通りにならないということを説きます。その代表が生・老・病・死の四苦であります。生まれた以上、必ず死ななければならない矛盾を抱え、生きる間には必ず老い、病になり、死んでゆくということが避けられないのです。

しかも、その事実を、私たちは事実として受け止めてゆくことが容易ではありません。私は数ヶ月前に痛風発作が起こりまして、それ以来、薬は飲んでも時々痛み、痛む足を引きずってお参りに行くということが続いています。そうしますと、「どうして自分だけがこんな目に遭うんだ。理不尽な」という愚痴しか出て来ないのです。

つまり、生・老・病・死という四苦が人生の事実であると教わりながら受け入れられないのが私たちなのです。生・老・病・死の人生に意味や価値が見出せないのです。むしろ逆に、健康で長生きして、しかも裕福に、ということばかりを願っているのです。

最近の風潮を見ても、金と健康が、現代における本尊かと思うくらい、喧しく大事だ大事だと叫ばれています。その一方で、ますます老・病・死は無意味・無価値と思われています。

そういう時代にあって念仏はどのようなはたらきなのでしょうか。

親鸞聖人は『教行信証』の「行巻」に、

悲願はなお大地のごとし

と二ヵ所引文されています。

私たちが老・病・死の人生に一体何の意味があるのか、と倒れ伏す大地、その大地はまた私たちが立ち上がり歩む時に支えてくれる大地です。

念仏とは、悲願とは私たちの死んでゆく人生に、老・病・死の現実に倒れ伏している私たちに生きる情熱を呼び起こしてくる、そして、立ち上がる時を待ち続け、大事に生きてほしいと願い続けてくださるいのちの叫びではないでしょうか。

023分別奮闘記

仁宗寿

8月も中旬となり、夏真っ盛りです。桑名別院境内においても蝉の声が響いています。うだるような暑さの中、皆様方は如何お過ごしでしょうか?

私はというと、今年から社会人1年目であり、慣れない環境に右往左往しながら、日々を生活することに必死になっています。朝から自分の出したゴミの分別に奮闘した後、目の前の仕事をこなすことに躍起になっています。

私たちは慌しく過ぎ行く日暮の中で、折に触れて様々な方々と接しています。当然、皆さん誰もが一人一人違う考え方を持つ他人同士ですから、意見が合わなかったり、お互い好き嫌いがあったりすることと思います。私たちは好きな人・嫌いな人を分けて、自分の居心地のいい環境を作ることに必死です。

人間関係と同様に私たちは、自らの善し悪しによって物事を分けることに毎日奮闘しながら生きているのではないでしょうか。自らの考えを正しいものとして、人と比べ、人を責め、苦しいことを避けて、楽しいことを求めることが世間の常識ではないかと思います。

善悪や苦楽といった物事を分別する心にとらわれる、そんな私に「あなた自身はどうなんですか。仏教は内観道なんです。世を超えなさい」という言葉を学生時代に恩師からかけていただいたことを想い出します。

自分にとってのややこしい不都合を他人や環境のせいにして逃げていた私に、ややこしいのは世の中ではなく、何よりもこの私であったことを恩師の言葉を通して、気付かされたように思います。

仏法を聞いても、なんでも自分の思い通りになったりする訳ではありません。仏法とは、右往左往する人生の苦悩に向かい合い、それを引き受けて生きていくことができる力になるものではないでしょうか。

022何色のメダルを求めますか

加藤淳

7月27日よりロンドンオリンピックが開幕し、日本のメダル獲得のニュースが毎日報道されています。銅より銀、銀より金とメダルを取ることを要求しているかのようにも聞こえます。

7月21日にお寺での「青年の集い」に参加してくれた参加者の一人から、今年1月に行われた全国高校サッカー選手権で準優勝した時の銀メダルを見せてもらいました。銀メダルはずしりと重く、手にしたときには感動をしました。応援していた時は、私もぜひ優勝して金メダルを取って欲しいという思いでいっぱいでした。スポーツをしている多くの人がメダルを獲得することを目標とし、日々練習に励んでいることでしょう。

2年前に、ある議員が「2位ではダメですか」という質問をして話題になりました。それに対して様々な意見が出されましたが、みなさんはどう思われたでしょうか。

メダルは大会や競技会に参加し、成績が優秀でないと手にすることはできませんが、私たちの日常生活も何らかのメダルを目指しながら生活しているのではないでしょうか。ある意味、家内安全、長寿延命、無病息災というメダルを手に入れるために日夜努力しているのではないでしょうか。

しかし、メダル獲得を最終的な目標に掲げると、病気や事故に遭った時には、「どうして自分ばかりがこのような目に遭わなければならないのか」と愚痴をこぼし、自分のおかれている現実を受け止めることができません。病気になるのも、事故に遭うことも、これもまた自分の人生だと受け止めることが大切です。

「無有代者(むうだいしゃ)」という言葉が『無量寿経』にあります。誰も代わることのできない、代わってもらうことのできない我が身であるということが説かれています。

仏法を聴聞していくということは、「あなた自身は本当のあなたを生きていますか」と常に問われていることです。オリンピックの表彰式を見るたびに、喜びまたガッカリする自分を聞き続けていかなくてはなりません。

021思い込み

伊東幸典

特伝で上山した時のことです。奉仕作業で御影堂(ごえいどう)の浜縁を拭いていたら、3歳ぐらいの白いワンピースを着た女の子が目の前に現れて、楽しそうに走りだしました。私は邪魔だなと思いつつ、一息つきたいところでもあったので、「こんにちは」と声をかけました。でも、相手をしてくれる気がないのか聞こえなかったのか、走るのを止めず行ったり来たりの繰り返し。仕方がないので身体の向きを変えて作業を続けていました。きっと大人げない表情をしていたことでしょう。タイムスリップできるなら、その時の自分の顔を見てみたいものです。

しばらくして、女の子の両親が来たようで、会話が聞こえてきました。結構大きな声だったのですが、何を言っているのか分かりませんでした。振り返って口元を見た瞬間、その場の状況をつかみました。会話は中国語のようでした。日本の子どもだと思い込み、そっぽを向かれたと思っていた自分が恥ずかしくなりました。

この頃、ケアレスミスで無駄な時間を費やしたり、勘違いして謝ったりする回数が増えて困ると聞くと、とても親近感が湧くようになりました。中高年世代の友達が集まった際には、必ずこの話題で盛り上がります。自分だけじゃないことが確かめられて安心できるのです。

「おたがいになあ 不完全 欠点だらけの にんげんですがね」

これは相田みつをさんの言葉です。いろいろな不具合が生じ始めて、ようやく他人の痛みや悩みに共感できるようになってきたということでしょうか。

020心のシミ

大賀ゆかり

今年の2月に、詩人の谷川俊太郎さんの詩が新聞に載っているのが目に留まりました。ご紹介したいと思います。

「シミ」

妬みと怒りで汚れた心を

悲しみが洗ってくれたが

シミは残った

洗っても洗っても

おちないシミ

今度はそのシミに腹を立てる

真っ白な心なんてつまらない

シミのない心なんて信用できない

と思うのは負け惜しみじゃない

できればシミもこみで

キラキラしたいのだ

(万華鏡のように?)

(『朝日新聞』2月2日)

「心のシミ」とはおもしろい表現だと思い、自分の「心のシミ」はと考えてみると、濃いものから薄いものまでいろいろあるように思います。絶対におちないシミ、やっかいなシミ、人には隠しておきたいものばかりです。

誰でもシミの多い心より、真っ白な心の方がよいと思いますし、真っ白い心に近づけるように努力しようと思います。でも、親鸞聖人は、真っ白い心でなくてもよい、こんなシミだらけの煩悩にまみれた私でも、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、阿弥陀仏の救いの光明が凡夫の私を照らし、生かされていると教えてくださっています。

それなのに私は、そのことに気づかず、自分の思いだけにこだわっています。そして、自分の思いを正当化して苦しみ、ストレスをためる日々を過ごし、阿弥陀仏の救いの光の輝きを感じ取れないでいます。それでも、この光が私のところにも届いていることに気づき、「南無阿弥陀仏」と声に出して称える信心によって、この阿弥陀仏の智慧の光明を感じたいと願わずにいられません。

めまぐるしく流れていく日常生活の中で、教えに出遇えなかったり、出遇っているのに気づかなかったり。しかし、身近な生活の中にも、大切なことに気づかされることはあると思います。その気づきは、聞法していく中で生まれてくるのではないでしょうか。改めて、真宗の教えによって生活をすることの大切さを感じます。

紹介しました「シミ」という詩に出会い、はっと気づかされ、思いをめぐらしたことをお話しさせていただきました。

019「和雅(わげ)の音」こえ)」を聴く 

梅田良惠

私のお寺の境内地を囲む石垣の上の躑躅(つつじ)が今年もきれいに花を咲かせました。

しかし、私としては、いっとき花を楽しんだ後に、重労働が待っています。それは、翌年もきれいに咲いてもらうために枝の剪定をすることです。そんな作業の合間に、ふと先日ラジオで聞いた、元京都大学教授の小川真さんという方が、世界のいたるところで、松、楢などいろんな樹木が枯れている、という話を思い出しました。

小川さんは土の中の微生物の権威として知られており、現在は衰退した海岸林の再生などに30年に渡って取り組んでおられます。私が小川さんの話の中で印象に残ったのは、次のようなことです。

「花粉症がはやりだしたころ、東京の杉の枯れ方を調べら、都心を中心に郊外に向かってどんどん杉が消えている。大気汚染により汚染物質が土に落ちて、土が痛む。そうなると樹木そのものが弱り始め、樹木自身がこれはたいへんだ、ということで、子孫を残すために花をつけ、大量の花粉が飛散することになった。その結果として人間が花粉症で苦しむことになる。花は人間に見せるために咲いているわけではない。人間はきれいだと言っているけど、木は悲鳴を挙げている」

こんな話を聞くとお寺の躑躅も毎年悲鳴を挙げながら、一生懸命花を咲かせていたのではないか、と思ってしまいました。

『阿弥陀経』に「共命鳥(ぐみょうちょう)」という鳥が登場します。一つの胴体に二つの頭を持つ鳥は、いのちを共にしており、一方の頭が毒を食らうことによって、もう一方のいのちも共に死んでしまいます。

今、私たちは昨年の震災から、原発の問題を抱えています。原発は私たちの生活を維持し、豊かにするために必要な物と言われていますが、同時に、自分たちのいのちをより危険に導く物でもあります。

極楽浄土に生まれた、共命鳥などの様々な鳥たちは、「和雅(わげ)の音(こえ)を出だす」と説かれています。「和雅」という言葉を頂くときに、その鳴き声はある方から「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道。他を生かす道は己を生かす道」と鳴いていると教えられました。今こそ、私たちはともに生かされているいのちの自覚に立ち、浄土からの音を真剣に聴くときなのではないでしょうか。

018比較せずにはいられない!

佐々木顯彰

先般の新聞に、三重県の「子供白書2012」が載っており、現在の子どもたちの生活実態や考え方の調査結果が出ていました。

悩み事を相談する相手は友達が64%、母が55%、父は26%であることから、友人関係を重視している姿がみられました。

親子関係で嫌なのは、他人と比較されていろいろ言われた時が、41.4%であり、生活についてあれこれ言われた時39%、自分がやりたいことを反対された時35%と出ていました。

注目すべきは他人と比べることにあります。一人では決して生きて行けないという関係の中で比較せずにはいられない自分がいるということを表しています。

最近、同級生との会話で共有できる話題が2つあって、いつの間にかそのような会話から相手と自分を比較しているあり方に気づきました。「身体の具合はどうや」という病気のこと、「いくらもらえるの」という年金の話です。最後は「君は僕より働いた年数が長いもんな。当然やろうな」で、その場を納得させている自分に気づきます。

身体の調子や受給金額の差を、自分と比較する話題ですから、皆さんも経験されているのではないでしょうか?

親鸞聖人は、そんなあり方を「正信偈」において「邪見憍慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」と教えてくださっています。「邪見」とは、自分の都合の良い考え方、つまり自力の計らいであり、「憍慢」とは、そんな考え方から来る思い上がりの心であります。

さらに、親鸞聖人は、

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく 、

いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして

臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(真宗聖典545頁)

と、自身と自身も含め、私達の姿を「凡夫」といただかれておられます。

そして、如来の本願の働く場所は、このような人間の生活の上にこそ、真実の願いとして働いてくださるものと、『歎異抄』の第一条で、

罪悪深重(ざいあくじんじゅう)煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。(真宗聖典626頁)

といただかれているのです。