002梵鐘

林政義

明けましておめでとうございます。

今から20日ほど前、ご承知のように、桑名別院の報恩講が厳修されました。

私は、朝は弱い方で、毎月の人生講座もいつも遅刻で、到着する頃にはお勤めが始まっており、申し訳なく思っております。

その日も低音で響くような梵鐘の音を聞いて目が覚め、時計を見たところ6時でした。早速、身支度をして別院に参りました。

お朝事には少し時間がありましたので、華部屋に行き世話方の人に「ご苦労さま、おかげでお朝事に間に合いました」とお礼を申しましたところ、「林さん、それどころじゃないんですよ。先ほど鐘を撞いていたら男性が来て、安眠妨害だからすぐに止めるようにと苦情を言われたのですよ」と、困ったように答えられました。

それで「どうなったのですか」と尋ねたところ、その世話方さんは大事なお役を止めるかどうか自分で判断もできませんから、男性を庫裡の寺務所へ案内したそうです。そこでの話し合いの内容については分かりませんが、その後、別院より世話方さんには明日から鐘を撞くことは中止との連絡がきたそうです。

お朝事の1時間前に鐘を撞くことは、報恩講の行事の次第として、当然のことと思っておりましたが、一方では騒音にしか聞こえない人もいるのだと教えられました。

しかしながら、強硬に中止を迫ったらしい男性の態度に対し、現在の日本に広がる自由や権利の履き違いを感じて嘆くのは私一人でしょうか。

001年頭所感

木嶋孝慈

あらたまの としの初めは祝うとも

南無阿弥陀仏のこころ 忘るな

初春を寿ぎ、お慶びを申し上げますとともに、今年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。

みなさま方には、新しい年を迎えられて、今年一年良い年になりますように…と、それぞれに、今年一年の希望と申しますか、「志」を新たにされたことと思います。

例年のことではございますが、今年も年賀状が配達されています。そこには、「本年も良い年でありますように」とか、「ご多幸をお祈りいたします」という言葉がよく書かれています。私たちは、「何をもって良し」としているのでしょうか。「多くの幸せ」というのはいったい何なのでしょうか。

毎年、年末に恒例になっております、清水寺の管長が書かれる、一年間の世相を表す漢字は、猛暑の「暑」でございました。記録的な猛暑の連続や、気温の上昇による野菜価格の高騰、人里に出没する熊の問題など、地球温暖化が深刻な影響を及ぼし始めているのではと感じる一年でした。

さらには、尖閣諸島問題や北朝鮮による韓国への砲撃など、日本を取り巻く環境が緊迫化し、私たちの生活が今後どのようになっていくのか、不安な世の中になりました。

確かに、お金があって「経済的に豊かな暮らし」を送ることは、人生の目標でしょう。しかし、お金があっても、必ずしも私たちの「心」が満たされるということはございません。

次から次へと「飽くなき欲求」が止めどもなく沸いて溢れてきます。お金の次は「健康」です。みなさん方はどうでしょう。「家族が健康であれば、それでいい」といったこともよく耳にします。しかし、私たちは病気や「死」といったことから逃れることができますでしょうか。

病気や怪我をして「入院生活」を余儀なくされたりしますと、本当に「健康のありがたさ」を身にしみて感じ取ることができると思います。

私たちは、普段から「当たり前」のこととして意識することもない対象を失ってみて、初めて「本当のこと」が見えてくるのかもしれません。

私たちは、日々の生活の中で、幸せになりたいと思って、あらゆる知識を動員して幸せを獲得しようとしています。しかしながら、我々の知識は、いずれは行き詰ってしまう。現代の文明社会の歪みを見れば十分理解ができると思います。そういう時にこそ、仏さまの智慧の眼ということが改めて問い直され、気づかされていかなければならないと思います。このことは、素直に敬う、素直に感謝するというところからでないと、感じ取れないのではないでしょうか。

そういった世界に出会って、初めて本当の意味での「新しいスタート」が切れると思うことでございます。いよいよ、宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌をお迎えいたします。共々に、宗祖にお遇いできることを楽しみにしています。

037あとがき

親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修される一週間前の3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では、死亡者1万2千人超、行方不明者1万5千人超といわれる震災を経験しました。また、福島原発での放射能漏れの事故による2次被害は、1か月以上過ぎた現在もいつこの問題が解決できるか分からない状態です。

このような現実を目の当たりにすると、お釈迦さまが言われた、人生は「ままならぬ」現実を生きている、ということを痛感します。想定外だったという言葉もよく耳にしました。自分の思い通りにならない現実をどのように受け止めていけばよいのでしょうか。この震災をきっかけとして、原発の問題も含めて、真宗門徒である私たちに何ができるのかを考えていきたいと思います。

テレホン法話集『心をひらく』32集をお届します。ゆっくりと読んでいただければ幸いです。

036こころの癖

折戸芳章

今年も残すとこをあと数日となり、私事を含めいろんな出来事がありました。その出来事を振り返ってみて、改めて気づかされたことがあります。

日常生活で不都合な出来事に出会い、切羽詰まった状況に置かれると、人は知らず知らずのうちに変わっていってしまうものです。平素の行動でそうすることが正しいかどうかを見極めることもせずに、とりあえず問題を解決しようと、藁をも掴む思いで何にでも飛びついてしまうのです。そして、ある程度日時が経過すると、そのことが正しいことなのだと錯覚に陥り、そういう生き方をしているうちにそれに慣れてしまい、結局道理を見失い、目先のことしか見えなくなってしまいます。

人には知らず知らずのうちにやってしまう癖があるように、これは人が持つ「こころの癖」なのかもしれませんが、癖とは本人には全く無意識に出てしまうもので、事の道理に逆らっていることすら気づかずにおります。

その気づかずにもっている私の「こころの癖」を明らかにしてくださっているのが親鸞聖人のみ教えではないでしょうか。

我が身に起こった出来事は事実であるにもかかわらず、その事実が受け止められずに、その原因を外に求めてしまい、自分の都合の良い原因を見つけ出してくるのが、私のこころのあり方です。そして、事実に逆らって、見つけ出した都合の良い原因に納得している私が正しいと思い込んでしまうのです。事実に私のこころを合わせるのではなく、見つけ出してきた身勝手な都合の良い原因に私のこころを合わせていってしまうのです。そのことに気づかずにいる。それが人が持つ「こころの癖」なのでしょう。

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』の58条に「誰でも都合の悪いことに出合うと、それは私が悪いからだ言う人は誰もいない。しかし、それは聖人のみ教えに背いている姿である」(真宗聖典866頁)と記されています。
いよいよ来年は宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修され、全国遠近各地より多数のご門徒がご本山にお参りをされます。

御真影の御前で、私のこころのあり様を問いただし、み教えを真正面から聞法していく機縁にしたいものです。

035「いのち」のご用

中川和子

「ご用をいただく。そのご用をいただくということが助かるということなんです。ご用がみんななくなって楽になって助かるんでないんです。限りのないご用を、どこまでもどこまでも生涯をかけていただくということが、それが恩徳である。真宗に遇い得た恩徳ですね」

これは、私がこの7月に住職となり、その任命記念にいただいた和田稠(しげし)先生の本のお言葉です。(『真宗門徒』和田稠1999年4月26日住職修習講義録)

私は、毎回お寺の行事の後は、やっと終わったと思い、子育てやいろいろなことがいつ終わるかをお風呂につかりながら計算している、そんな毎日ですが、その中で、不安ながら、終わらないご用を引き受けて生きていく覚悟をいよいよいただいた思いです。そういう不安の中で、みんな誰でも、それぞれのご用を引き受けて生きてみえるのだと思います。和田先生のお言葉からそれを教えていただきました。

先日、自坊の華方さんに、自宅の庭のバナナの木の株分けを頼まれました。今まで、バナナの実が成ったのは一度だけだとお話したら、バナナの花は、青くて丸い実のようなものなので、それと気づかず、葉と一緒に落としてしまっていたかもしれないと分かりました。「必ず一人前にならないと実はつかないんですよ」と言われた時、ふと総代さんの奥さんが衝立(ついたて)に書かれていた金子みすずさんの詩が頭に浮かびました。それは「木」という詩です。

お花がちって実がうれて、その実が落ちて葉が落ちて、それから芽が出て花が咲く。そうして何べんまわったらこの木はご用がすむかしら。(『金子みすず詩集』)

私は、すぐ傍らで毎年懸命に咲く花のご用も知らず、周りの数多のご用も見えていませんでした。蓮如上人は、「如来・聖人のご用にもるることは、あるまじく候う」「みな、御用なり」とおっしゃられておられます。(「蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』 真宗聖典914・915頁)ご用は私の思いを超えて、存在する全てのものにありました。

今年も早、12月半ばとなりました。毎日毎年の繰り返しの中、庭のバナナの木や近所のみなさま、ご門徒様、そして家族と「今、ここ」で「共に生き」ているという、このたった今が、私のご用の現場です。

実際の私は、終わって楽になることばかり考え、しんどい今を嘆く毎日ですが、親鸞聖人は、そんな私とバナナの木が同じだということを、「帰命無量寿如来」「いのちの如来」つまり「いのち」が同じと教えてくださっているのだと、また、みんな「いのち」のご用をいただいていることを蓮如上人、和田先生、私にまで届けてくださったのだなぁと思い、「報恩感謝」の歩みを私も子どもたちや後に続けていく一人になれたらと願っています。

参考 和田稠『生死出ずべき道』(東本願寺出版部)

034いのちのおもさ

藤田宣和

12月です。2010年も終わろうとしています。今年は都が奈良に置かれて、1300年。奈良ではいろいろな催し(イベント)が組まれました。このテレホン法話を聞いてくださっている方の中にも、奈良に向かわれた方々もおみえになることでしょう。

1300年前に建てられた多くの寺院が発掘され、国の遺産として再建されました。私は、奈良仏教を支えてくれた興福寺、東大寺、西大寺、鑑真和尚、聖徳太子、そして、人としての生き方を示された『華厳経』、『維摩経』等々の諸経典にも少し触れることができました。仏教の旅は、遠くインド、中国、シルクロードを経て、西安の都から、海を隔てた大和の国、日本への長い旅でした。「お経に触れて生き方を知る」の旅は、その道々に、多くの文化を形成してきました。また、奈良時代の家々の様子が、見事な映像で映し出されていました。

今年は「コップテン(生物多様性会議)」が名古屋で開催されました。変わりゆく「環境といのち」について、テレビでも多くの番組が組まれました。私の「いのち」や世界中の動植物について、「いのち」あるものとそれを繋げてきた生命の糸について、人の遺伝子(DNA)を構成する32億個のヒトゲノムについて、私は改めて考えさせていただきました。

そして、私の体の中にある、30数億年の「いのち」の歴史、そこに無量の「いのち」としての重さを感じ取りました。「三帰依文(さんきえもん)」の「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く」と唱える重さを感じました。

今年はこの重き「いのち」を裁判にかけ断ち切るという、「人が人を」殺す、死刑判決を言い渡すという、裁判員制度が取り入れられ、最近、死刑判決が出されました。また反面、死刑確定の人がDNA鑑定で無罪になるということもありました。

私たち仏教徒は、第一に、「人を殺してはいけない、生きものを殺さない」とされます。この判決は30数億年の「いのち」を断ち切るという判決です。口では、「不殺生戒(ふせっしょうかい)」と言いながらどうなのでしょうか。

また、宇宙について多くの疑問が解明しつつある一年でした。137億年前に時間と空間、「時空」、「宇宙」が誕生しました。それを見極めようとする宇宙観測船「あかり」。太陽系の誕生が46億年前。そして、30数億年前の私のいのちの誕生を解き明かす「はやぶさ」の帰還。持ち帰った粒子の元素の分析作業。続いて、光の速さで走る乗り物、国産の宇宙実験船「イカロス」の発射成功。分からなかった宇宙の世界、私のいのちの誕生が、どんどん解明されていく年でもありました。お釈迦さまが解かれた「宇宙」の世界。これらの研究の成果に目を丸くして見つめられたことでしょう。

2011年、来年はいよいよ宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌が厳修されます。改めて、私にいただいた「信心」を確かめていく、嬉しい時です。皆さまご一緒に参詣いたしましょう。

033「お待ち受け」の忘れもの

岩田信行

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要がいよいよ来春に迫りました。この12月21日から始まった真宗本廟報恩講は、謂わば「お待ち受け」の総仕上げです。

その押し迫ったところで、「いまさら」とお叱りを受けそうですが、改めて「お待ち受け」ということを再確認したく思います。

宗祖の85~6歳頃の有阿弥陀仏(うあみだぶつ)宛のお手紙の結びに、

この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。あなかしこ、あなかしこ。(『末燈鈔』12 真宗聖典 607頁)

と、親鸞聖人ご自身の願生者の情がしたためられています。

このお言葉を素直にいただくとき、「お待ち受け」するのは、御遠忌法要に遇う「わたし」ではなく、親鸞聖人がこの「わたし」を「お待ち受け」くださっておるのだということになります。すると途端に、「お前はどの面さげて御遠忌に行くのか」と幾人もの先達の顔が浮かんできます。「物見遊山のつもりは毛頭ありません」と言い切りたいところですが、そんな心が無いと言い切れない「わたし」があります。

「真宗門徒一人もなし」の懺悔(さんげ)に始まった同朋会運動「初」の宗祖の御遠忌です。部落差別・靖国問題、開申(かいしん)事件以来の教団問題、宗門の戦争責任、憲法9条の問題等々、「状況」は宗門体質とともに「あなたは真宗門徒なのですか」と問われ続けて「今」があります。

かつて平野修先生は平成10(1998)年蓮如上人五百回御遠忌を「慚愧(ざんき)の御遠忌」と表白(ひょうびゃく)されました。蓮如上人に申し訳ない、恥ずかしい、と。その際、宗祖の御遠忌は誰もが「讃嘆の御遠忌」と仰がれることは異論も反論もないでしょう、とおっしゃっておられましたが、私たちに果たして今、そう言い切れるのか、厳しい教言となって迫ってきます。

私は、歳50半ばを過ぎましたが、自覚的には、親鸞聖人をして750年間「待ちぼうけ」させてしまってきた「わたし」があることを、「御遠忌」を前に考えさせられています。

ある研修会で「この国には二つの族がある。一つは皇族、そしてもう一つは寺族だ。この二つの族を自己に課題化することなしに『真宗門徒』はないと言っては言い過ぎなのか」とおっしゃっておられた先輩がありました。

宗門では修復なった御影堂の「見真」額が問題になっています。ちょっと視点が変わりますが、宗祖滅後750年間の宗門と日本人・人間の体質を貫いてある問題を課題化する教材(教化の貴重な素材」として、親鸞聖人を「待ちぼうけ」にしてしまった、その気づきの験(しるし)として、今私たちは「見真」勅額に注目しています。

032拠り所

片山寛隆

私たちは人生の価値として、健康・お金・能力を身に着けて、人生の意味を見出そうと生きています。それを先人・清澤満之という方が、人間とは「外物を追い、他人に従うことをもって己としている存在」だと言われました。しかし、健康もお金も友だちも、本当の人生の拠り所とはならないことも知らされてくるのが、人生を歩むということでもあります。外が私という存在の拠り所とならないということになった時、初めて拠り所を内に求めるという働きをするのも、人間の在り様でもあります。

「誰も当てにならん。当てにしていたこと自体が間違いであった。これからは、他を当てにしてきたことを反省し、自分自身がしっかりと生きていく道を歩むのだ。自分自身を拠り所にしていこう」

このような意見に同感だとおっしゃる方がいらっしゃるのではないかと思います。そして、その自己を見つめ、「長い人生を振り返ってみると、反省することばかりです」と言われる方がいらっしゃいますが、人間というのは案外自分を買い被っているということがあります。宗教哲学者のティリッヒという人が、「人間というのはどこかで自分を肯定している」と、こう言っています。例えば、誰かに「あなたはちゃんとやっていますか」と尋ねられると、たいてい「私は他人に後ろ指を指されるようなことはしていない」と自己肯定するものです。

ですから、自己反省すると言っても、そこに本質的に自己肯定の体質をもつということから一歩も出ていないのであります。南無阿弥陀仏の教えとは、その自己反省しているという私を破ってくださる教えであります。

031念仏の息たえましましおわりぬ

渡邉浩昌

弘長2(1262)年11月28日、親鸞聖人は90年の生涯を終えられます。その時の様子が『御伝鈔(ごでんしょう)』に伝えられております。

仲冬(ちゅうとう)下旬の候より、いささか不例(ふれい)の気まします。自爾以来(それよりこのかた)、口に世事(せじ)をまじえず、ただ仏恩(ぶつとん)のふかきことをのぶ。声に余言(よごん)をあらわさず、もっぱら称名(しょうみょう)たゆることなし。しこうして、同(おなじき)第八日午時(うまのとき)、頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)に臥(ふ)し給(たま)いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽齢(たいれい)九旬に満ちたまう。(真宗聖典736頁)

時代とともに生き、自らに課せられた使命を果たし尽くし、後は全て自己の思いを超えた世界に任せ切られた親鸞聖人を窺い知ることができます。

この言葉から思い起こされるのは『歎異抄』九章です。

なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば)の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり。(真宗聖典630頁)

賜った境遇を自己の世界として生き切ったがゆえに、力なくして終える時「かの土」へ自分を任せ切ることができる。正に『御伝鈔』で語られる「念仏の息たえましましおわわりぬ」です。

大正5(1916)年、胃潰瘍により49歳で生涯を終えた夏目漱石は、死ぬ1カ月前に、「則天去私」という言葉を使っています。「則天去私」とは「普通自分自分という所謂小我の私を去って、もっと大きな謂わば普遍的な大我の命ずるままに自分を任せる」という意味だそうです。「小我」の自分を尽くし切って、始めて「普遍的な大我の命ずるままに」無条件に自分を任せることができる、ということではないかと思われます。

報恩講の時期を迎えて、そう長くはないであろう自分の人生を思う時、『御伝鈔』にあります親鸞聖人のご入滅を思わずにはおれません。

参考 松岡譲『漱石先生』(岩波書店) 今村仁司『親鸞と学的精神』(岩波書店)

030仏の物差し

中川達昭

去る9月7日の新聞に「自殺やうつ病経済損失2.7兆円(毎日新聞)という記事が載りました。どういうことかというと、2009年に15歳から69歳で自殺した2万6539人が、亡くならずに働き続けた場合に得られた生涯所得額と、2003年のうつ病患者数の推計値を基にした失業給付額や医療給付額などの総額を推計したものだそうです。この試算は、厚生労働省が自殺問題対策の一つとして公表したそうですが、みなさんはどのようにお感じになるでしょうか。

確かに日本は、毎年自殺者3万人以上という状況が10年以上続いて、大きな社会問題となっています。政府も事態を深刻に受け止めた上での公表なのでしょうが、私はこのような試算をすることによってしか、事態の深刻さ、さらには「人のいのち」の重さを推し量ることができないのであろうかと思えてなりません。

つまり、私たちは、いつの間にか金銭や数値に置き換えないとその価値が分からなくなっているということです。それは人間の道具化、モノ化の象徴であり、人間存在の根底を否定するものに他なりません。

よく法話の中で「人の物差し/仏の物差し」という言葉を耳にします。「信心いただくということは物差しが変わるんや。それまでの価値観がひっくり返されることなんや」という訳ですが、では、この「仏の物差し」とは具体的にどういう物差しかといえば、それは「目盛りの無い物差し」と言えます。それは、それまでの物差しから単に目盛りが大きくなったのではない。目盛りをもたない物差しこそが「仏の物差し」です。全てにおいて、はかることができない、はかることが無い、そういう物差しです。

けれども、私たちは自分の物差しを捨てることができませんし、折々に社会が生み出した物差し(価値観)に振り回されもします。しかし、「仏の物差し」を一人一人が持つことはできます。「仏の物差し」に照らせば、「それは違うよ。それは間違っているよ」と言うことができます。

どうぞお寺に足を運んで、「仏の物差し」に耳を傾けてください。私が私であるために、「仏の物差し」を私たち一人一人が持ちたいものです。