036こころの癖

折戸芳章

今年も残すとこをあと数日となり、私事を含めいろんな出来事がありました。その出来事を振り返ってみて、改めて気づかされたことがあります。

日常生活で不都合な出来事に出会い、切羽詰まった状況に置かれると、人は知らず知らずのうちに変わっていってしまうものです。平素の行動でそうすることが正しいかどうかを見極めることもせずに、とりあえず問題を解決しようと、藁をも掴む思いで何にでも飛びついてしまうのです。そして、ある程度日時が経過すると、そのことが正しいことなのだと錯覚に陥り、そういう生き方をしているうちにそれに慣れてしまい、結局道理を見失い、目先のことしか見えなくなってしまいます。

人には知らず知らずのうちにやってしまう癖があるように、これは人が持つ「こころの癖」なのかもしれませんが、癖とは本人には全く無意識に出てしまうもので、事の道理に逆らっていることすら気づかずにおります。

その気づかずにもっている私の「こころの癖」を明らかにしてくださっているのが親鸞聖人のみ教えではないでしょうか。

我が身に起こった出来事は事実であるにもかかわらず、その事実が受け止められずに、その原因を外に求めてしまい、自分の都合の良い原因を見つけ出してくるのが、私のこころのあり方です。そして、事実に逆らって、見つけ出した都合の良い原因に納得している私が正しいと思い込んでしまうのです。事実に私のこころを合わせるのではなく、見つけ出してきた身勝手な都合の良い原因に私のこころを合わせていってしまうのです。そのことに気づかずにいる。それが人が持つ「こころの癖」なのでしょう。

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』の58条に「誰でも都合の悪いことに出合うと、それは私が悪いからだ言う人は誰もいない。しかし、それは聖人のみ教えに背いている姿である」(真宗聖典866頁)と記されています。
いよいよ来年は宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修され、全国遠近各地より多数のご門徒がご本山にお参りをされます。

御真影の御前で、私のこころのあり様を問いただし、み教えを真正面から聞法していく機縁にしたいものです。